悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


蒼炎が目を開くと、何も見えなかった。
静かに瞬きを繰り返す。一度、二度、三度。それでも変わらない。音は聞こえる。風の音も。御神木の葉擦れも。遠くを流れる水の音も、全て聞こえる。だが、見えない。
白も。黒も。光も。何も。
「……そうか。」
小さく息を吐くが、驚きは無かった。恐れも、怒りも、ただ昨夜の記憶だけが胸に残っていた。小さな身体に温かな体温、衣を握る強い指と安心したような寝顔。雨流。ようやく名を与えた娘。
「月宮様…………まさか、目がっ!」
樹樹の声が近付いて来る気配に蒼炎は顔を上げた。
「……見えておりませんね。」
蒼炎の目を見て冷静に伝える。
「そうらしい。」
「……らしいってーー」
「騒ぐな。」
静かな声だった。
「これは、代償だ。」
樹樹は何も言えなくなるが、蒼炎は分かっていた。何故こうなったのか、何を失ったのか、何を得たのか。
全てを理解していた。
「雨流は?」
「よく、眠っております。」
樹樹のその言葉に、僅かだけ肩の力が抜けた。そうか、眠っているか。それだけで静かになるのか……でも、それだけで十分だった。

異変は昼に起きた。
突然前触れもなく、ドンッと神域が揺れ、御神木がざわめき、空気が裂けた。
「ーーーーー月宮様!」
樹樹の声。その声だけで良くない事が起きたと分かる。
「異界の門が破られました!」
「……数は。」
ザワつく肌に視線をあげた。
「数千の迷鬼です!」
蒼炎はスッと静かに立ち上がり、よろけたのを樹樹が支える。見えない事に慣れない。神力を上手く使えない。それでも、神域の主である事は変わらないと背筋を伸ばした。
「樹樹。」
「は。」
「守れ。」
「御意。」
会話はそれだけだった。

狭間の世界の神域で戦いが始まる。
迷鬼達の咆哮、神気の衝突は空を裂く轟音で、異界の濁った気配の中心に、蒼炎は立っていた。
例え見えなくても、敵の位置は気配で直ぐに分かる。
殺意が、敵意を孕み襲いかかってくる。だから斬る。ただそれだけ。迷鬼達は次々と消えていった。それでも、何かがおかしかった。数は減っているはずなのに……胸騒ぎが消えない。

御神木の揺り籠で雨流は眠っていた。
戦いの音はここまで聞こえない。スヤスヤと静かな寝息しか聞こえない。柔らかな髪とふくふくした頬は昨日と同じで、何も変わらない。

そのはずだった。

カツンカツンと大人のような、少年のような落ち着き払った足音が一つ、揺り籠の前で止まった。
白い鳥面は翡翠色の模様で、毛先に行くにつれて灰色が混ざった黒色の長い髪が風も無いのに静かに揺れていた。面の人物は黙って眠る赤子を暫く見つめていた。
「……。」
やがて視線が落ちて、揺り籠の脇に一振りの短刀が目に入った。月宮様は今何を使って戦っているのだろう。
その瞬間、淡い光が揺り籠の中心から覆う様に広がった。これは、結界。雨流を守る為の物に、面の人物は僅かに目を細めた。
「……私を拒むのか?」
静かな声に怒りは含まれず、どこか寂しそうな声。
「流石はあの人の刀だね。」
短刀が震え、空気が揺らいだ時の微かな瞬間、誰かが何かを言った気がしたけれど、聞こえない。
「でも。」
細くて白い指先が結界へ触れる。
「今は私の方が上だよ。」
触れた所から、ぱきり。と氷が割れるような音が響いて、結界が一瞬にして崩れた。短刀がカチッと震えるが、それ以上動かない。いや、動けない。
「……。」
面の人物は雨流をそっと抱き上げた。小さな身体はとても軽いし、温かい。面の人の腕の中で微かに身じろぎすると、頬に触れられた手を握った。まるで離れないでと言うように。
「……知らないんだね。」
ぽつりと小さな声。
「何も……。」
雨流は眠ったまま答えない。赤子だから当たり前だ。面の人もそれは分かっている。
「私と同じになってしまうよ。」
その声はまるで、誰かを哀れむようだった。抱き締める腕に力が入り、面の人物は短刀を拾い、しばらく見つめると、何を思ったのかそっと雨流を包む柔らかな布の傍へ戻した。
「私は君のことをね、嫌いでも恨んでも無いんだ。」
その言葉は誰にも届かなかった。

揺り籠から離れて社の裏手側にある異界の裂け目。
黒い闇が支配する底の見えない奈落。普段ならキツく縛られている場所でも、月宮様の不安定な力で簡単に縛りを破ってしまえる。

面の人物は奈落を見下ろしながら、立ち尽くし、雨流を抱いたまま、長い間、生暖かな風を浴びていた。
長い沈黙が終わる。
「……。」
一瞬だった。面の人が奈落に向かい腕を離した。
青い光が闇の中へと落ちて行く。短刀も共に。ふわりと光を帯びながら、落ちていく。
その瞬間、面の人物の身体が震えた。
「あ……。」
思わず手を伸ばすが、もう遅い。
青は落ちて行く。どこまでも、どこまでも。深く、深く。そして、闇の中へ消えた。面の奥から小さな息が漏れるけれど、その声は誰も聞いていなかった。

戦いが終わり、迷鬼は退いた。
神域に静寂が戻るのを待つこと無く、蒼炎は御神木へ向かっていた。胸騒ぎが消えない。嫌な予感だけが残っている。
「……樹樹!」
少し大きな声で呼ぶが、返事が無い。
「樹樹?」
二度目で、今度はすぐ近くで息を呑む音がした。
その音だけで、全てを悟ってしまった。
「……雨流は。」
樹樹は黙して答えは無い。
「私の娘は……」
蒼炎はゆっくりと歩く。一歩、また一歩と御神木へ。揺り籠へ。そして、そこは空だった。気配が無い。寝息も体温も、何も残っていない。柔らかな音はなりを潜めた静寂に包まれる。あまりにも静かな世界だ。
蒼炎はそっと揺り籠へ手を伸ばし指先が揺り籠の中の布に触れる。

ー……冷たい。

昨日はあった温もりが、もう無い。
その時遠くから、本当に遠くから一瞬だけ。青の気配を感じた。
雨上がりの空のような、澄んだ青。

ー……雨流

「……。」
無為に手を伸ばすが、そこには届かない。
遠い。あまりにも、遠くへ行ってしまった。

青はどんどん沈む。異界の底へ、どこまでも。どこまでも落ちていく。枷をつけられたこの体はここから動く事は叶わない。
もう、掴めない。
もう。届かない。
蒼炎は立ち尽くしていた。
昨日、ようやく抱いた。
昨日、ようやく名を呼んだ。
昨日、ようやく笑った。

その全てが指の間から零れ落ちて行く感覚に足元から崩れ落ちそうな心地になる。
風が吹く。強い風だ。滅多に吹かない強い風。御神木の葉が揺れ、葉が落ちて世界に溶けても、それでも蒼炎は動かなかった。動けなかった。

その日、蒼炎は二度目の喪失を知った。


とある異界では、激しい雨が降っていた。
まるで、空そのものが泣いているように。