泣き声が響いていた。
今日も昨日もその前の日も、変わらずに。神域へ御神木の根元へ絶え間なく。赤子の泣き声が響き続けている。
その声は空を揺らし、地を伝い、境界を越えていた。
神域だけではない。狭間の世界にも、異界にも現世にも幽世にもその泣き声はずっと届いていた。小さな身体から放たれる神気が、まるで堰を切った川のように溢れ出していたからだ。神域に生まれた子は稀だ。
ましてや月宮様の血を継ぐ者ともなれば尚更。だが、幼い身体は力を抑える術を持たない。だから泣く度に神気が漏れ出し、世界へ流れていく。それでも普通なら問題は無い。成長と共に落ち着く。
だが、この赤子は違った。泣き止まないのだ。
何をしても、誰が抱いても、何日経とうとも泣き続けていた。
「姫様ぁ」
御神木の神気から造られた侍女達が困ったように揺り籠を揺らす。御神木の枝から吊るされた白銀の揺り籠の中で、赤子は顔を真っ赤にして泣いていた。美しく濃い青い瞳から涙を零しながらひたすらに、何かを求めるように泣いていた。けれど、その声が届いているはずの者は一切振り返ろうともしなかった。
御神木の根元に白銀の衣を纏う男が静かに座っている。
目を閉じて動かず、ただそこにいる。それだけ。かつて神域を包んでいた穏やかな空気は無い。笑うことも語ることも誰も近寄れないし、誰も触れられない。
神域の主ーー月宮様
かつて蒼炎と呼ばれた鳥の妖は、長い沈黙の中にいた。
勿論聞こえている。赤子の泣き声は。聞こえないはずがない。だが、何も思わなかった。いいや、思わないようにしていた。愛しいと思えば失うと、蒼炎は知っている。知り過ぎている。だから、見ないし聞かないし触れない。それが今の蒼炎だった。
「月宮様。」
静かな声が響いたが、蒼炎は目を開かない。
「何だ。」
「限界です。」
そこに立っていたのは、数千年前の樹樹だった。今と見た目が全く変わらない長身の大天狗は珍しく眉を寄せている。雰囲気で困惑、疲労、諦めの全てが滲んでいた。
「何がだ。」
「全てです。」
即答だった。蒼炎は僅かに眉を動かした。
「神域だけではありません。」
「……。」
「異界にも影響が出ています。」
御神木の葉が揺れる。このままでは主神から何かを言われるかもしれない。
「狭間の世界でも神気の乱れが観測されています。」
「……そうか。」
例えそうだとしても……
「そうかではありません!」
樹樹は珍しく声を荒げた。
「このままでは世界そのものへ影響が出ます。」
蒼炎は黙って、何かを耐える表情を浮かべたあと、真っ直ぐに蒼炎を見た。
「お嬢様の神気が漏れ続けております。」
一拍置いて、深く息を吸った樹樹が言い放つ。
「目の色も薄くなって参りました。」
その言葉に初めて蒼炎の睫毛が揺れた。
「……目の色が?」
「はい。」
樹樹は静かに頷く。
「日に日に。」
青。それは蒼炎の神気の色。この神域で産まれ、住む命の色。その色が薄れるという事は、小さな身体が力を失っているという事だ。長い沈黙の後、目を開けた蒼炎はやがて深く息を吐くと立ち上がった。
「何処だ。」
深い青の瞳を細めて樹樹を見つめた。
樹樹は心の底から安堵した。
御神木の揺り籠の中、赤子は今日も泣いていた。
小さな身体で、声が枯れそうになるほど泣いていた。
幾人もの侍女達がサッと道を開くと、気怠げに歩く蒼炎は揺り籠を見下ろした。
ー……随分と小さいな。
本当に、驚くほど小さい生き物が泣いていた。ひたすらに、誰かを探すように。
「……。」
蒼炎はため息を吐いた。正直に言えば面倒だった。泣き止ませろと言われたから来ただけ。それ以上でも以下でもない。だから、腕を伸ばした。ただ。それだけだった。筈なのに……
小さな身体を片手で抱き上げたその瞬間。ぴたり。と、泣き声が止んだ。静寂。誰も動かない。侍女達も樹樹も。目を見開いていた。
赤子は泣かない。泣かずに、ただ蒼炎を見ている。涙で濡れた薄い青の瞳に小さな手。その手がゆっくりと伸びると、白銀の衣を握った。ぎゅうっと、力いっぱい。
「……。」
蒼炎はその手を見ると、衣から温かい気の流れが伝わって来ている事に気がついた。抱いている腕には柔らかな感触。一瞬で壊れてしまいそうなほど小さい。それなのに……離したくないと思った。ズキズキお胸の奥が痛む。苦しい。知らない感情だった。けれど、嫌ではない。むしろ、もっと抱いていたかった。このままずっと。小さな身体が蒼炎へ擦り寄ると、安心したように、ようやく見つけたと言うように赤子は目を閉じて静かな寝息が聞こえ始めた。赤子が眠ったのだ。蒼炎の腕の中で、生まれて初めて。
「……っ。」
樹樹が息を呑んだ事に蒼炎は気付かない。ただ、眠る赤子を見ていた。柔らかな墨色の髪、小さな丸い頬、温かな体温に胸が締め付けられる。
知らなかった。こんなにも、愛しいものだとは。
ぽつりと、蒼炎の唇が動いた。
「……雨流。」
樹樹が顔を上げる。
「……はい?」
珍しく間の抜けた声だった。今日はこの者の新しい姿をよく見る日だ。
蒼炎は視線を落としたまま続ける。
「雨を連れ。」
蒼炎の声が子守唄のように響くと、御神木の葉がふわりと揺れる。
「流れる子。」
一拍おいて、息を吸う。
「雨流。」
静かな声と淡い光が赤子を優しく包んだ。
「この子の名だ。」
樹樹は目を見開くと、次第に微笑んだ。
「良い名です。」
それに対して蒼炎は答えない。ただ、雨流を見ていた。その名を口にするだけで、胸が温かかった。
雨流は眠ったまま少しだけ笑った気がした。その瞬間、蒼炎の口元が僅かに緩む。ほんの少し。本当に少しだけ、だが確かに笑った。ーーを失ってから初めて笑ったその姿に樹樹は目を見開いた。実に数百年ぶりだろうか。だから余計に何も言わず、その光景を見ていた。
だが、この時の蒼炎は忘れてしまっていた。愛してしまった事を。神が個を愛する事の意味をらその罪の重さを、蒼炎はまだ知らない。
ただ、腕の中の温もりだけを感じていた。
翌朝
と言えど、狭間の世界に時間という物は存在しない。この世界の月宮様が起きたら「朝」だし眠る時には「夜」になる。太陽も月も星さえも存在しないのだが、蒼炎は目を覚ました時にツキンと傷んだ目に違和感を感じた。
御神木の葉が揺れている音がする。風が吹いている。鳥が鳴いている。全て聞こえる。だが、見えない。
「……。」
蒼炎は静かに目を瞬かせた。もう一度。もう一度。
何も変わらない。世界は闇の中。
……沈黙。長い沈黙に、やがて蒼炎はゆっくりと顔を上げる。驚きは無かった。怒りも。恐れも。ただ一つだけ脳裏に浮かんだのは、昨日の光景。
腕の中で眠る赤子ーー我が娘である雨流の寝顔だ。
柔らかな頬、小さな指、安心したような寝顔。
ー……雨流。
それが、蒼炎が最後に見た景色だった。

