悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


社の奥から、静かに気配が現れる。
結はそこを凝視しながら自然と息を止めていた。

誰かが来る。

そう分かる。それなのに、足音は聞こえないし、衣擦れの音も無い。ただ、御神木の葉だけが揺れていた。

さらり、さらり。と金色の光が降るそれは、まるで雨だった。世界そのものが歓迎しているように、静かに、優しく降り続ける。やがて、白木の社の奥の光の向こうに人影が見えた。
「……。」
結は目を凝らし、息を呑んだ。人ではないと最初にそう思った。
白銀の衣は幾重にも重なった美しい着物。裾は地へ流れ、金色の光を受けて淡く輝いている。
けれど、袖口から覗く手は人のものではなかった。白い羽毛だ。鋭くも美しい鉤爪は、鳥の手。裾から見える足も同じだった。鳥の脚は神話の中にしか存在しないような姿だけれど、不思議と恐ろしくはなかった。ただ目を離せない。
地に付くほど長い銀髪が揺れた時に見えたその顔立ちは人に近く、美しいという言葉すら足りないほど整っていた。しかし、目だけが見えない。そこだけ薄い布で覆われている。色は白銀色。白銀色の目隠しだ。向こうが透けるほど薄いのに、その瞳だけは見えなかった。
それでも、目が合っている気がした。

「久方ぶりでございます。」
篠目が片膝をつくと、楽羅も静かに頭を下げた。樹樹は胸へ手を当て、その場には結だけが立ち尽くしていた。
「月宮様。」
篠目の声が響くと、その存在は小さく笑った。
「よい。」
低く。澄んだ声は、先程と同じ物。
御神木の葉を揺らす風のような声。
「よいよい。」
穏やかな声に、それだけで張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「久しいな。」
月宮様はゆっくりと顔を向けた。
「篠目。」
「はい。」
「息災であったか。」
「お陰様で。」
篠目は柔らかく微笑むと、静かに立ち上がった。
そのやり取りは旧知の者同士のようだったが、次の瞬間。月宮様が少しだけ身を乗り出した。
「それより……」
「はい?」
「外はどうだ。」
「外、ですか?」
月宮様はどこか楽しそうに頷いた。
「面白いことは無かったか?」
結は瞬きをすると、思わず樹樹を見るが、樹樹は無表情だった。あのやり取りは慣れているらしい。
「お前の話は面白い。」
月宮様は続ける。
「以前聞いた変わった食べ物は面白かった。」
「あぁ、飛龍の両目玉焼きですね。」
「そう、それだ!」
月宮様は満足そうに頷く。
「今回は、何処で何を見た?」
結は完全に混乱していた。神様って、もっとこう。厳かなものを想像していたが、目の前にいる存在は威厳があるのにどこか子供みたいだった。
「月宮様。」
篠目が苦笑しながら申し訳なさそうな声を出す。
「その前に……」
「うむ?」
「本日はお見せしたい者がおります。」
その言葉に、月宮様が首を傾げた。
「……?その者は何処におる?」
「え?」
結は固まり、篠目は小さく眉を下げ笑う。
「目の前ですよ。」
篠目が結の背中に優しく触れて少し前へと導いた。この場所から少し月宮様迄離れていて届く距離では無いけれど、緊張する。再び沈黙が落ちた。

「……。」
月宮様は動かない。目隠しに覆われた顔が僅かに傾く姿は、まるで何かを探しているようだった。
「……微かに」
ぽつりと声が落ちる。
「人の子の気配がする。」
結は肩をビクッと震わせた。その声は先程までとは違って静かで穏やかなのに、どこか重い。
「だが」
空気が変わり御神木の葉がざわりと鳴り金色の光が揺れる。
「何故だ?」
ずっと低い声は世界そのものへ問い掛けるような声。
「何故、ただの人の子が。私の神域へ入れる。」
結の心臓が大きく跳ねた。足が竦む。恐ろしい。月宮様は怒っている訳でも声を荒げてもいない。それなのに、圧倒される。まるで、山を前にしているようだった。大海を見ているようだった。人が抗う事等出来ない存在が目の前にいた。
「それにこの者はーー」
結へ向けられる視線は、見えていない筈なのに、確かに結へと向いていた。
「何故、不完全なのだ。」
結には意味が分からなかった。先程樹樹にも言われた。「不完全」だと。けれど、篠目だけは静かに笑う。
「……だからこそ月宮様に会いに来たんですよ。」
長い沈黙は、世界が止まったような静けさ。その時だった。

……ごう。

風が吹いて、結の羽衣が大きく揺れる。花飾りが鳴る。
「っ!」
思わず目を閉じた。ほんの一瞬、本当に一瞬だった。
次に目を開いた時、目の前にいた。
「……っ!」
息が止まる。月宮様だった。先程まで離れた社の前にいたはずなのに、いつの間にか結の目の前に立っている。白銀の髪と鳥の手、人ならざる姿。目隠しに覆われた顔があまりにも近い逃げられない。身体が動かない。大きさは樹樹よりも遥かに大きいし、片手で結はひねり潰されそうだ。
「……恐れるな。」
静かな声に先程までの圧迫感が嘘みたいに霧散し優しい声になる。鳥の翼を持つ腕が伸びて、そっと結を包み込むように。背中へ回された。まるで守るように。抱き寄せると、白銀の髪が揺れて結の黒い髪と混ざり、ふわりと数多の金色の光が舞う。
「私の目を見なさい。」
その声と共に、目隠しが揺れて、薄布の向こうの隠されていた瞳が覗く。白銀のようで、黄金のようで、深淵のような色は、光そのものを閉じ込めた瞳で結は目を逸らせなかった。

ー……吸い込まれる。

どこまでも。どこまでも。
深く。深く。

その瞬間、紺色の瞳が水面のように静かに揺れ動き、色が混ざり合った。
白銀。黄金。そして青。深い青。透き通るような青。
ガラスのような光が瞳の奥で煌めいた。

月宮様の手が止まる。
樹樹が息を呑む。
楽羅も動かない。
篠目だけが静かに目を閉じた。

そして、月宮様の唇が震える。
「……そうか。」
掠れた声は神の声ではない。
「ようやく」
御神木の葉が大きく揺れ世界が静まり返り、月宮様は小さく息を吐く。その声も吐息も震えていた。
結は動けない。ただ、その瞳をずっと見つめていた。
白銀。黄金。深淵。全てを映すような瞳のその奥にある感情だけが、どうしても分からなかった。やがて、月宮様は静かに微笑むとどこまでも優しく。どこまでも切なく。泣きそうなほど。優しく話し始めた。
「……そなたが産まれた日」
静かな声が落ちる。世界が耳を澄ませる。そんな錯覚を覚えた。
「御神木が、涙を流した。」
結の瞳が揺れる。
「その涙はやがて雨となり世界へ降り続けた。」
金色の光が舞い、御神木の葉がざわりと揺れた。まるでその日の事を覚えているように。
「だから」
月宮様の指先が、結の頬を壊れ物を扱うように、失くした宝物へ触れるように優しく触れた。少し震えているのは気の所為だろうか。
「私はそなたへ名を与えた。」
胸が痛い。理由も無く、苦しい。息が出来ない。それなのに、耳を塞ぐことが出来ない。この人の話を聞かなければならない気がした。いいや、聞きたかった。

どうしても。

「雨を連れ」
一拍。御神木から金色の光が零れる。
「流れる子。」
静かな声。懐かしい声。
「ーー雨流(うる)。」
その名が呼ばれた瞬間、どくん。どくんっ!どくっ!

心臓が鳴り、結の身体が震える。
知らない。知らないはずだった。その名前を、その響きを。知らないはずなのに。涙が溢れて止まらない。
「……あ。」
小さく声が漏れると、視界が揺れる。

知らない景色に知らない人と知らない記憶。
けれど、どれも知っていた。忘れていただけだった。
「私の娘よ。」
月宮様が額を寄せたその瞬間、世界が白く染まった。
「――っ!」
光、雨、御神木、誰かの笑い声、誰かの手、誰かの歌、落ちていく空、暗闇、短刀、現世、異界、幽世、結。

雨流。

全てが混ざり合った時、意識が沈む。
深く、深く。どこまでも。そして最後に聞こえたのは、月宮様の声だった。


「おかえり。」

その声を最後に、結の意識は闇へ沈んだ。


ー……今は、休みなさい。その時まで。