一瞬だけ目を襲った眩い光が収まり、結はゆっくりと目を開いた。そして、息を呑む。
「……。」
言葉が出なかった。幽世へ初めて来た時よりも目を見張るものだ。
そこは、空と地面の境界が無いどこまでも続く白の世界、鏡のような世界だった。
淡い青空を映しながらも、薄い雲が地面を流れている。風も無いのに川のように絶え間なく、だけど静かに流れ続けていた。
「……綺麗。」
思わず零れた言葉に篠目は小さく笑った。
「そうでしょう。」
結は返事も忘れる程、視線は遥か彼方へ向いていた。世界の中心に一本の木が立っている。ここからでもわかる程大きくて、山よりも城よりも遥かに大きい。
幹は天を貫き、枝は世界を覆っていた。そして、鮮やかな緑の葉が揺れる度に金色の光、だろうか。それが零れ落ちる様は雨のように、でも、雪のように、星のように静かに降り続けていた。
結は知らず知らずに空を見上げた時、胸の奥が少しだけ苦しかった。懐かしいような、寂しいような。理由の分からない感覚に満たされた。
「……御神木ですよ。」
上を見ていた結に篠目が言うと、結はようやく瞬きをした。
「御神木……。」
「ええ、この世界の中心です。」
篠目を見ていた結は、もう一度顔を見上げたその時だった。
「あれ……?」
今まで気付かなかったが、御神木へ続く道の、白い世界の上を伸びる長い回廊を見た。
朱塗りの柱と黒の美しい屋根。まるで海へ浮かぶ社だった。それが、どこまでも続いている。
「社……?」
「はい、月宮様の御座所へ続く道です。」
篠目は当たり前のように言った事に結は言葉を失う。
だって、果てが見えない。本当に。どこまでも続いている。
三人が歩き始めた。ここは不思議な場所だった。
鳥の声も無い、虫の声も無い、風の音すら無いのに、聞こえるのは、金色の光が降る音だけ。しゃらり、しゃらりと雨にも似た優しい音だった。
やがて、社に近付く。白木で造られた大きな社は御神木の根元へ寄り添うように建てられている。篠目が先行し、楽羅が結の手を引いて、その敷地へ足を踏み入れたその瞬間だった。
シャン、シャラン、シャララン……
鈴の音が響いて、結は思わず立ち止まってしまった。先程もそうだったが、この鈴の音がどこから鳴ったのか分からない。誰もいないのに、音だけが静かに広がっていく感覚。ひとつ、またひとつと誰かへ知らせるように神域の空へと溶けていく。
「今の……。」
結の呟きに篠目は微笑んだ。
数段の階段を登りきって楽羅がそっと離れる。
「鈴の音は来客を知らせる音ですよ。」
その声が終わるより先に、社の奥。右へ左へと有る長い回廊の向こうから、一つの影が現れた。
「……?!」
結は目を見開く。大きい。楽羅よりも頭一つ分高い。2mに近い長身で、白を基調とした水干姿。袖や裾には金糸が織り込まれている。
長い黒髪と背中には巨大な翼。鳥の翼だった。だが、現世の鳥とは違って、御神木の葉を思わせる深い緑を帯びた黒羽は、光を受ける度に翡翠のような色が揺れる。
少しずつ距離が縮む様に、男は静かに歩いてくる。足元は素足なのに足音はしない。まるで風そのものが歩いているみたいだった。
「……っ!」
結は息を呑む。男の顔立ちは人だ。整った輪郭に切れ長の目。夜の様な黒い瞳。けれど、人ではない。そう思わせる何かがあった。
男は三人の前で立ち止まると、まずは篠目を見て、次に楽羅を見る。そして、視線を下へ下へ下げて結を見た。
「……。」
沈黙。本当に一瞬だったが、男が僅かに息を呑んだことを篠目と楽羅は見逃さなかった。男は目を細めると、信じられないものを見るように「何故。」と地に響く様な低い声を出した。
「何故、人の子がここにいる。」
結が僅かに肩を震わせた。男の視線は結から離れない。その視線は、まるで何かを探しているようだった。
「それに……」
再び沈黙。男が結をじっと見つめる。
「この者は何故、不完全なのだ。」
意味が分からない。正直結は戸惑った。だが、篠目は小さく肩を竦め「だからこそ。」と静かに言い放つ。
「月宮様に会いに来たんだよ、樹樹(じゅじゅ)。」
男の瞳が僅かに動くが、篠目はいつものように笑っていた。けれど、その笑みの奥だけは少しも笑っていない。男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……なるほど。承知した。」
大きな翼が僅かに揺れ、金色の光が羽根の間を流れ落ちた。
「私は樹樹。」
男はーー樹樹は、結へ視線を向ける。
「月宮様に仕える眷属だ。」
結は慌てて頭を下げた。
「あっ、えっと……結です。」
樹樹は何も言わない。ただ、その名に対して違和感を感じ、その瞳だけが僅かに揺れただけ。
「こちらへ。」
樹樹が身体を翻し、白木の回廊を進む。三人もその後に続いた。
社の奥へ進む程、降り注ぐ金色の光は増えていく。
御神木も近付いていて、葉が揺れるその度に光が舞う。静かな世界だった。それなのに、何故だろう。結の心臓だけが早くなる。胸の奥がざわつく。懐かしいような、怖いような分からない感情だった。
やがて樹樹が御神木の根元付近の最も大きな社の前で足を止めた。白木で造られた美しい建物。けれど、結が見上げたその瞬間。はらりと金色の光が舞った。
御神木の葉が揺れる。光は風も無いのに流れ、まるで誰かを導くように4人の周囲を舞った。そしてーー
ー……おいで。
声が、聞こえた。
結は息を呑む。その声は男の声だった。澄んでいる、どこまでも澄んでいる。それなのに、今にも消えてしまいそうなほど儚くて、遠い。けれど近い。耳元で囁かれたようにも、遥か彼方から聞こえたようにも思えた。
ー……おいで。
再び声がする。それは、優しい声。決して命令ではない。ただ、ずっと待っていた者を迎えるような声に結の胸が痛み、何故だか涙が出そうになる。知らないはずなのに、知らない声のはずなのに、とても懐かしかった。
金色の光が静かに舞い、樹樹が目を伏せると、篠目も楽羅も何も言わない。その声の主を知っているから。
社の奥から、静かに気配が現れた。

