泊まっていた旅館の離れを出た後、三人は本館へ戻っていた。黒い廊下を一つ進む。また一つ、角を曲がる度に人の気配が減っていき、途中迄付き添っていた女将も、先ほどまで見掛けていた仲居達も、賑やかな声も無い。足音だけがやたらと静かに響く中で、篠目が一枚の襖の前で立ち止まった。
そこは旅館の一室。
離れとは違って、もっと奥の、もっと深い場所は不思議なほど静かな部屋だった。音が無い。本当に、何も聞こえない。ずっと外から聞こえていた祭りの音も、風の音も、人の声も全て消えている。結は思わず辺りを見回した。
「……。」
落ち着かない。ここは、静か過ぎる。
まるで世界から切り離された場所みたいだった。きっとこの旅館に泊まっている客ですらここへ来ることは無いのだろうと、そんな気がした。
そこへ辿り着く迄、結は何度も裾を踏みそうになっていた。着物は思ったより動きやすい。驚くほど軽くて歩くこと自体は難しくなかったのだが、階段が駄目だった。
三段。たった三段が恐ろしい。
「危ないぞ。」
楽羅が結の腕を支える。
「す、すみません。」
既に何度目かのやり取りに、結は慌てて姿勢を立て直すと、羽衣が揺れた。花飾りの銀細工が小さく鳴った。
「ありがとうございました。」
「いいや。」
楽羅の短い返事に結は少しだけ安心する。慣れない場所、慣れない格好、慣れない人達。それでも。楽羅が近くにいると何故だか落ち着いた。
篠目は静かに襖を見つめ、ゆっくりと手を伸ばす。
「ここから先です。」
結は首を傾げた。
「向こうにいるんですか?」
「ええ、会って頂きたい方が。」
結は小さく息を吐く。正直少し緊張していた。少ししか行動を共にしていないが、あの篠目がわざわざ会わせたいと言う相手だ。きっと普通ではない。そんな予感がしていた。
その時だった。
篠目の指先が襖へ触れると、ふわりと冷気が流れた。
「っ。」
結の羽衣がふわりと揺れ、長い袖が微かに翻る。
一瞬で空気が変わって静寂がさらに深くなる。
ー……シャン、シャン
どこからともなく鈴の音が響いた。それは、とても澄んだ音色だった。一つ、また一つと、誰かを迎えるように誰かへ知らせるように音が広がっていく。篠目は振り返らずに、ただ静かに言った。
「大丈夫ですよ。」
その声と共に、襖がゆっくりと開いた。
暗かった場所に光が差し込んでくる。襖の向こうの世界は、白かった。光とも、霧とも違う。ただ、どこまでも続く白に結は思わず息を呑むと、不安を消す様に微笑んだ篠目が手をそっと差し出した。
「行きましょう。」
その先に何があるのか、結には分からない。
それでも。差し出された手を見つめながらゆっくりと一歩を踏み出した。
ー……狭間の世界(はざまのせかい)。
神域へ至る為の境界。現世でも、異界でも、幽世ですらない。神に仕える者達だけが知る場所。
そして、月宮様の御座所へ続く唯一の道。

