悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


別の部屋へ通されると、そこには大きな桐箱が置かれていた。三つ、いや。四つだ。
「……。」
結は思わず無言になるが、後ろから肩を支えられ、逃げ場を失った。恐る恐る上を見ると、女将は穏やかに微笑んだ。
「開けてご覧になりますか?」
見たくない。本能がそう告げていたが、逃げられない。
観念して蓋を開くと、そして息を呑んだ。
そこにあったのは月白の着物だった。
雪よりも柔らかい白は月明かりを閉じ込めたような色で、銀糸で描かれた流水は袖から裾へ流れる雨にも見える幾重にも重なる刺繍。
見る角度で色を変える布地は静かなのに目を奪われる。言葉にならない程、美しかった。思わず見惚れるほどに。だが。
「無理です。」
「無理ではありません。」
女将の目がギラリと光った。
着付けは長かった。本当に長かった。
一枚、また一枚、さらに一枚と重なった事で、結は途中で数えるのをやめた。いいや、諦めた。
月白の衣の内側から覗く重ね襟は深い紺で、夜の湖のような色。帯は濃い藍。此方も銀糸で月と雨粒が刺繍されていて、それだけで芸術品だった。さらに最後の箱が開くと「うわぁ……。」と思わず声が漏れる。
それは羽衣だった。いいや、羽織だろうか。
見た事もない半透明の薄い布に月光をそのまま織ったような銀白は端へ向かうにつれ淡い青へ変わっていく。そっと持ってみると、軽い。触れるだけで揺れる。
女将が手に取り肩へ掛けると、まるで月明かりが流れ落ちるようだった。
最後に髪を纏める女将の顔が鏡越しに映された。
幾ら目で追っても絶対に自分では出来ないだろう。それ程丁寧に結い上げられる。
月下美人の花飾りと銀細工の雨粒と白から青へ移ろう羽飾りが全てが添えられた時、控えていた仲居達が小さく息を呑んだ。
「出来ました。」
鏡が向けられ結は顔を上げ、そして固まる。
「……。」
誰だろうと本気でそう思った。だって、鏡には知らない少女がいたからだ。
白銀の衣と深い藍の帯に月光の羽衣。
花飾りと羽飾り。自分の顔なのに、自分ではないみたいだった。
「……着られてる。」
ぽつりと呟くと、仲居達がクスクスと肩を震わせた。
「絶対着られてる。」
鏡に映る自分の顔は、真顔だった。
「私じゃなくて、着物が主役です。」
誰かが吹き出した次の瞬間には部屋に笑い声が広がる。
「ちょっと!」
結が振り返りプンプン怒り出す。
「笑いましたよね!?」
さらに笑い声が大きくなると、結は頬を膨らませた。
ふと、笑い声が止んだ。女将だ
静かな瞳で結を見つめていると、ゆっくりと歩み寄り、そしてその場へ膝をついた。膝を着いても立っている結とあまり目線が変わらない。
「女将さん?」
結は戸惑うが、女将は何も言わない。ただ、そっと結の手を取った。壊れ物を扱うように、大切な宝物を扱うように、優しく、とても優しく。
「……ようやく。」
「……え?」
「ようやくですね……。」
意味が分からない。
その言葉の意味が分からず、見つめていると、女将は小さく微笑むだけでそれ以上は何も言わずに結を座らせると、代わりに化粧箱を開いた。
「あと少しだけ。」
結が遠い目をするが、女将は笑った。
細い筆を手に取って目尻へ淡く色を添えた。それは本当に僅かで、続いて唇も薄い紅をひと撫で。たったのそれだけ。それだけなのに、ガラリと印象が変わる。
「終わりましたよ。」
「……変わりました?」
「ええ。」
仲居達も頷くが、結にはよく分からなかった。
その時だった。
声がして襖が開くと、楽羅が先に入って来て、その後ろから篠目も姿を現した。
「用意できましたか?結さん、そろそろーーーっ!」
結は反射的に振り返った。
飾りの揺れた音が響いた。
一瞬だった。本当に一瞬だけ、篠目の足が止まるが、けれどすぐにいつもの笑顔へ戻った。
「これはまた。」
静かな声に、結は落ち着かなくなる。
何だかすごく見られている気がする。
「……や、やっぱり変ですよね?」
羽衣をそっと摘まむ。
「完全に着られてます。」
その瞬間、篠目が「ふっ。」と吹き出した。
「わ、笑った!」
「いえ、笑っていませんよ。」
「今、絶対に笑いましたよね!」
結は真っ赤になり、篠目は肩を震わせながら口元を押さえ「失礼。」そう言いながらもまだ笑っている篠目は「ですが。」と一度だけ結を見る。
「よくお似合いですよ。」
「絶対嘘です。」
「本当ですよ。」
結は疑いの目を向け、そして楽羅を見る。
「楽羅さんもそう思います?」
楽羅はしばらく結を見つめるも、何も言わない。ただ静かに、それから小さく頷く。「似合ってる。」とそれだけを告げた。
飾り気のない言葉には嘘が無かった。結は視線をパッと逸らした。
「……。」
何だか、そちらの方がずっと恥ずかしかった。