結が目を覚ました時、自分がどこにいるのか一瞬だけ分からなかった。
ふかふかの布団と柔らかな枕。身体に触れる着心地の良い浴衣の感触。
そして、障子の向こうから聞こえてくる賑やかな音。
「……。」
ぼんやりと天井を見上、昨夜幽世へ来て祭りのような町を歩いて。高級旅館へ泊まって。美味しいご飯を食べて、温泉に入って、それから……ぐっすり眠った。
そこまで思い出してから結はゆっくり身体を起こした。
「よく寝た……。」
思わず呟く。記憶を失ってから、こんな風に眠れたのは初めてかもしれない。悪夢も無かったし、誰かの声も聞かず、静かに眠った。それだけだった。
いつの間にか用意されていた部屋着の浴衣に着替えて障子を開け、夜だった事にーーーえ?
「……。」
結は瞬きをする。もう一度障子を閉めて、もう一度開けてから見ると、やっぱり夜だった。
星空と月と提灯の灯りに庭園を照らす青白い光。
どう見ても夜だった。
「……??」
結は首を傾げる。かなり寝た筈。少なくとも数時間は。
もしかすると、半日近くも。
それなのに、何も変わっていないし、遠くから祭りの音も聞こえる。誰かの笑い声に笛の音と呼び込みの声は、昨夜とまったく同じだった。
「あぁ、結さん。おはようございます。」
後ろから声がして振り返ると、そこに居たのは篠目だった。いつの間に入って来たのだろうと結は少し驚く。
「お、おはようございます。」
反射的に返事をしてから再び窓を見て「……今。」と聞く。
「はい。」
「何時ですか?」
篠目はきょとんとすると、「朝の八時頃ですが。」と言ってのけた。
「え?いや、夜ですよね。」
「朝ですよ。」
篠目の不思議そうな顔に訳が分からなくなったその時、楽羅が部屋へ入って来た。その手には湯気の立つ茶を持っていた。
「朝だな。」
「楽羅さんまで?」
結は思わず頭を抱えるが、篠目は肩を震わせている。
「そんなに面白いですか。」
「いいえ?」
絶対面白がっている。
「結さん。」
篠目は笑いを堪えながら空を指さした。
「ここ、幽世には現世の様な太陽がありません。」
「……はい?」
「この世界に朝日は無いんですよ。」
結は窓を見る。夜空、星、月が変わらずに存在している。
「つまり、ずっと夜です。」
結は沈黙し「意味が分からないです。」とだけ言えた。「まぁ、そうでしょうねぇ。」
篠目は笑うだけ。呆れた楽羅は茶を置くと「直に慣れる。」とだけ言った事に結は少しだけ苦笑い。
そして、再び窓の外を見る。
賑やかな町の音、提灯の灯りに夜空。確かに夜だったけれど、町は生きているし店は開いている。人々は働いているし、子供達も遊んでいる。
「じゃあ。昼と夜はどうやって決めるんですか?」
篠目は肩を竦めた。
「そもそも時間というものがありません。ですので、幽世の住人達は、毎日何となくで過ごしています。」
「……な、何となく。」
「働く時間、寝る時間、遊ぶ時間。それぞれですよ。」
結は少し考えた。そして、考える事を辞めた。
「適当ですね。」
ぽつりと言った事に楽羅が吹き出したのが珍しかった。篠目も笑う。
「否定はしません。」
しばらくして、朝食が運ばれてきた。昨夜と同じく黒塗りの器に銀の箸置き、湯気の立つ料理と美しい盛り付け。けれど、結が驚いたのはそこではなかった。
「……。」
量だった。やたらと多い。明らかに多い。
「た、食べきれません。」
結は即答するが、女将は「食べられます。」と微笑んだ。
「無理です。」
「大丈夫ですよ、食べられます。」
「えぇ……」
女将は笑顔だった。逃げられないと、結は諦めて箸を取って一口。
「……っ!?」
やっぱり美味しい。思わず目を見開く。
焼き魚のような料理は魚ではない。なら、なんだ?
汁物は、香りだけでお腹が空く。薄い味付けの筈なのに箸がどんどん進む。白い米に似たものは噛むほど甘くて、気付けば夢中で食べていた。篠目はその姿に笑っているし、楽羅はもう二杯目だった。
結局あれだけあった料理は全て平らげ、少しだけのんびりしていた食後、女将が「結様」と呼んで再び現れる。
「では、お風呂の準備が整っております。」
「……。」
結は黙った。女将は微笑む。迫力の有る笑顔は少しだけ強い。
「え、と……入りましたよね?」
「ええ、入りました。」
「昨日。」
「はい。ですが、今日は今日です。」
意味が分からなかった。結は助けを求めるように篠目を見るが、篠目は視線を逸らし、楽羅も逸らした。
裏切られた!
その結果。
「で、ですから、自分で出来ます!」
結は抵抗するが、何人もの仲居達が微笑むだけで動きをやめようとはしない。女将もそれを見ながら微笑むが、そっと結に近寄り「いけません。」と頬に手を当てた。
「何でですか!?」
「本日は大切な日ですので。」
「たいせつなひ?」
それだけ女将は言うと、仲居達が苦労して脱がせていた浴衣を一瞬で脱がせ、風呂用の薄い襦袢のようなものを着させ、気付けば椅子へ座らされていた。
「……え」
本当に瞬きの間だった。
髪を梳かれ、淡い香りのする香油を塗られ、成分がまったく分からない液体を塗りたくられたと思ったら体を解され、肌を整えられ、爪まで磨かれる。
「うぅ……。」
完全敗北の結はそこから抵抗を辞めると、女将は満足そうに頷く。
「よろしい。」
結はぐったりしていたが、物凄く気持ちが良かった。
そして……チラリと見えた部屋の隅に置かれた大きな桐箱を見てハッとする。
嫌な予感しかしない。結の視線に気が付いた女将はその箱を静かに見て、近寄ると、丁寧に、まるで宝物を見るようにこちらへ運び「それでは。」と、微笑んだ。
「お召し物を。」
結は心の底から絶対に嫌な予感しかしない、と思った。

