部屋へ案内されてしばらく後に、控えめな音と共に襖が開いた。
「お食事をお持ちしました。」
先程の女将だった。後ろには見た目がバラバラの中居達がいて、手際よく次々と机へ料理が並べられていく。
結は思わず息を呑んだ。
「……わぁ」
凄かった。屋台の時とは違う意味で。
机の上に置かれた料理はものすごく美しかった。黒塗りの器や銀細工の箸置きに透き通るような椀。
花のように盛り付けられた刺身、淡く光る煮物や月光を閉じ込めたような透明な菓子は、見た事もない料理ばかりで、どれも芸術品のようだった。
「食べて良いんですか?」
思わず聞いてしまうと、篠目が吹き出した。
「ふふ、そのために料理人が丹精を込めて作りました。」
女将が微笑むけど、結は少し不安になるが楽羅はもう食べ始めていた。
「食え。」
それだけ言うと、椀に盛り付けた煮物を寄越す。
恐る恐る黒塗りの箸を手に持って、一口食べる。
「……。」
もう一口、さらにもう一口。
「んん、美味しいぃ……。」
目を輝かせ、自然と声が漏れた。野菜もお肉も何を使われているのか分からないけど、優しい味だった。
豪華なのに、不思議と懐かしい身体へ染み込むような味に気付けば夢中になっていた。
篠目は楽しそうに眺め、楽羅は無言でおかわりを頼んでいた。結は少しだけ笑ったその顔に三人が顔を見合せた。久しぶりだったのだ。心から美味しいと思ったのは。
食事を終えてからしばらく女将が再び部屋を訪れた。
「お風呂の準備が整っております。」
結は目を瞬き、「お風呂ですか?」と聞く。
「ええ。」
女将は微笑んだ。
「旅のお疲れもあるでしょう。」
それは確かだ。境界を越えて異界を歩き、幽世へ来て。
気付かないうちに身体も疲れていた。
「では、我々も向かいましょう。」
「近くにいるから大丈夫だ」
篠目と楽羅は途中で男湯の方へと向かい、結は女湯へ女将と向かった。
案内された浴場は離れの奥にあり、扉を開いた瞬間結は立ち尽くす。何度目だろう。
「……。」
そこは広かった。黒い石で造られた浴場は壁も床も黒を基調としているけれど、重苦しくはない。
天井が高くて、湯船の向こう側が開けていた。なるほど、露天風呂だ。夜空には満天の星と静かな月。空へ向かい湯気がゆっくりと立ち昇る。
「綺麗……。」
思わず呟くと、女将は静かに頭を下げた。
「ごゆっくり。」
そう言って去っていくと、結は一人になった。
着物を脱いで湯へ足を入れる。
「あっ……。」
思わず声が漏れるほど、温かくて優しい温度に冷えていた足先が少しずつ解けていき、肩まで浸かる頃には身体中の力が抜けていった。
「ふぅ……。」
息を吐く。
こんな風に安心したのはいつ以来だろう?思い出せない。記憶を失ってからずっと不安だったし、ずっと怖かった。だって、自分が分からなかった。
けれど、今だけは何も考えなくていい気がした。
湯面を見ると、月がゆらゆらと揺れているのは、手を伸ばせば掴めそうなのに掴めない。そんな月だった。
「……。」
結は静かに目を閉じると、遠くから祭りの音が聞こえる。笑い声に笛の音と賑やかな声。なのに、不思議と落ち着くのは、子守唄みたいだった。しばらく何も考えずにそうしていた。ただ湯に身を預けるだけ。
その頃、別の湯殿では楽羅が黙って湯に浸かっていた。
少し離れて篠目。
「それにしても、珍しいですねぇ。」
篠目が言うと、閉じていた目を開けた。
「何がだ。」
「あなたがあそこまで世話を焼くの。」
楽羅はそれに対して何も答えない。
「……護衛だからと言う理由だけでは無いのでは?」
「知らん。」
即答だった。篠目は「ふふ」と吹き出すが楽羅は眉一つ動かさない。ただ、湯面を見つめているだけ。
「……。」
静かな夜に、祭りの音だけが遠く聞こえていた。
湯殿から戻ると、部屋には新しい寝間着が用意されていた。
「わぁ……。」
結は思わず声を漏らし、そっと手に持ったのは浴衣だった。淡い生成り色の生地に派手な柄は無いけれど、見るだけで分かる。とても良いものだった。
「……。」
寝巻きの浴衣が柔らかい。驚くほど柔らかい。
するりと指先を滑っていく生地は、まるで水に触れているみたいだった。結は恐る恐る袖を通すと、軽い。
身体に馴染むし、窮屈さもない。気付けば何度も袖を撫でていた。
「気に入りましたか?」
いつの間にか女将が立っていた事で、結は少し恥ずかしくなる。
「す、すみません。」
「何故謝るのです?」
女将は優しく笑うと、結に近寄り最後に襟を整えた。
「その浴衣も喜んでおりますよ。」
意味は分からなかったけれど、少しだけ嬉しかった。
夜も更けた頃、結は部屋の襖を開けると廊下の向こうには篠目と楽羅がいた。
「もう休みます。」
結が言うと、篠目が微笑んだ。
「ええ、ゆっくりお休み下さい。」
楽羅も頷くと「眠れそうか。」と聞いてくるので「はい。」と答えるが、結は少し考えてから「たぶん。」と言い直す。それは本心だった。
だが、不思議な事に今夜は悪夢を見ない気がする。理由は分からないけれど、そんな気がした。
「おやすみなさい。」
結は小さく頭を下げると、「おやすみなさい。」と篠目が返し楽羅も短く言った。
「おやすみ。」
結は微笑むと、そっと襖が閉じて部屋へ戻った。
離れの縁側には静かな夜が広がっていた。祭りの音は遠くて絶えることはない。幽世の夜は今日も賑やかだ。
篠目は盃を傾ける。その向かいには楽羅。しばらく二人の間に言葉は無かった。
ただ、夜風だけが二人の間を通り過ぎていくだけ。
やがて、楽羅がぽつりと呟いた。
「……やはり。幽世に馴染んだな。」
その低い声に篠目は小さく目を伏せる。
「そうですね。」
思ったよりも穏やかな返事に、楽羅は遠くの祭りの灯りを見ながら、人混みを歩いていた結を思い出す。
初めて訪れたはずの世界、幽世。
それなのに、あの少女は自然にそこへ溶け込んでいた。温度も音も食事も何もかも。
まるで、帰るべき場所へ戻ったかのように。
「もう、引き返せはしない。」
楽羅が静かに言うが、篠目はそれに答えない。
ただ、盃へ視線を落とした時に見えた酒の水面に月が映っている揺らめく月と静かな光を見たくなくて、篠目は僅かに盃を揺らし、波紋を広がせて映っていた月が崩れていくのを見た。
「そうだろう、篠目。」
篠目は目を閉じると、小さく頷く。
「はい。あの子は……」
静かな声に言葉を選ぶように続ける。
「あの子は、そうなる運命でした。」
夜風が吹き、ここまで祭りの音を遠く響かせる。
「そして、この運命から逃れることは出来ない。」
それは結のことか。それとも二人自身の事なのか、楽羅は聞かなかった。長い付き合いだった。聞かなくても分かる事がある。
篠目は盃を見つめ、次の瞬間に酒を一気に煽った。
空になる盃を見る。
珍しいことだった。
楽羅は無言で徳利を手に取ると、慣れたように篠目の盃へ酒を注いだ。とくとくと、静かな音が響く。
「……我らの悲願の為に。」
篠目が呟くと楽羅も盃を持ち上げる。言葉は無い。ただ静かに応えた。
かちり。乾いた音が夜に響いて二人は同時に酒を飲み干した。

