賑やかな通りを抜けると、提灯の数も少なくなり代わりに静かな灯りが増えていくと、やがて辿り着いた場所に結は足を止めた。
「……。」
そこは、大きい旅館だった。看板の文字は読めないけれど、現世で見たどの建物よりも大きい三階建て。いや、もっとあるかもしれない。黒い木材を主体に造られた重厚な建物。瓦屋根は夜空の下で鈍く光っていて、玄関の両脇には巨大な灯籠で、青白い炎が揺れていた。旅館では無く、まるで城だった。
「ここです。」
先を歩く篠目が言うと、結がギギギと視線を外した。
「宿?」
「宿ですよ。」
結は再び建物を見上げ言葉を失った。どう見ても高級旅館だからだ。
「と、泊まれるんですか?」
「泊まれます。」
「高そうです。」
「このくらい普通では?」
篠目は全く気にしていないという風に笑うけど、結が不安になった頃、旅館の扉が内側からゆっくりと開く。からん、と乾いた鈴が鳴った時「いらっしゃいませ。」と低い女の声に結は看板から下をみて、そして固まった。
「……。」
背が高い。もしかしたら楽羅より少し低い程度。
長い艶のある黒髪に整った顔立ちは、美人だったけれど、額からは二本の真っ赤な角が伸びている。黒を基調とした着物の袖から覗く指先には鋭い爪。その顔は笑っている。笑っているのに、何故か怖い。圧が凄かった。
旅館の女将は篠目を見ると、すっと頭を下げた。
「お待ちしておりました、篠目様。」
「お久しぶりです、女将。世話になります」
篠目が笑うと楽羅も軽く会釈したのに対し微笑む女将は視線を下げると結と目が合った。
その目は金色だった。お互いじっと見つめる。
「……。」
結は思わず背筋を伸ばした。何だろう。先生に診察される時とも違い、全部見透かされるような視線だった。
女将はしばらく結を見つめると、やがてゆっくりと目を細めた。
「美しい青色を持った、可愛らしいお嬢さんですね。」
「……え。」
すると、女将がくすりと笑うその笑顔は少し優しかった。
「お部屋はいつもの離れを。」
「はい、助かります。」
篠目が答えると女将は頷き、それからちらりと結を見るが、答えたのは篠目だった。
「お食事はお部屋へお持ちします。」
「ありがとうございます。」
「特別なものをご用意いたしましょう。」
その言葉に篠目が一瞬だけ笑みを深くした。
「それは楽しみですね。」
何か変だったけど、結だけが分からない。
女将は再び頭を下げると、ずっと黙ったままの周囲の従業員達も同じように頭を下げていた。まるで、とても偉い客を迎えるみたいに。結は篠目を見てから楽羅を見ると、二人ともそれ自体が当たり前の顔をしている。
「……。」
やっぱり、この人達はただの小間使いじゃない気がする。結はそう思ったけれど、聞いてもきっと教えてくれない、そんな気もしていた。
女将に案内されながら結は思わず辺りを見回した。
ここは、静かだった。外の祭りの喧騒が嘘のように。他の客の気配さえ無い。
館内には落ち着いた空気が流れていた、廊下は黒檀にも似た深い色の木で造られていた。
磨き上げられた床は青白い灯りを柔らかく映し、歩く度に靴音だけが小さく響く。
壁も柱も黒を基調としているのに、暗くはなくて、所々に吊るされた行灯が淡く灯りの役割を果たしていた。
壁には金ではなく銀を用いた装飾が静かに輝いている。派手ではないけれど、一目で高価なものと分かる。開けられた障子の向こうには庭園が見える。月光に照らされた池は、黒い水面。その中をゆったりと泳ぐ銀色の魚の名前は分からない。風が吹く度に優しくて爽やかな音を鳴らして竹が揺れる。
「綺麗……。」
思わず足を止めて呟くと静かに女将が振り返った。
「お気に召しましたか?」
「はい。」
結は素直に頷いた。
「何だか落ち着きます。」
少しだけ驚いた顔の女将は微笑んだ。
「この宿は「そういう」場所ですから。」
篠目達は何も言わずに歩みを進める女将に続く。客室へ続く渡り廊下は天井が高くて余計な装飾は無い。だが、柱一本、障子一枚、敷かれた畳一枚に至るまで丁寧に手入れされていることが分かる。
これは、静かな贅沢。そんな言葉が似合う場所だった。
やがて、離れへ辿り着いた。
ひとりでに扉が開かれ、結は思わず息を呑んだ。
そこはとても広かった。畳の香り、中央には低い机、窓際には黒木で造られた長椅子。
そして、大きな一枚硝子の向こうには先程とは違った庭園が広がっている。夜空、月、池、風に揺れる草花は、まるで一枚の絵画だった。
「こちらをお使いください。」
女将が静かに頭を下げ、結の瞳を見た。深い紺色は月光を受けて微かに青を宿していて、女将は目を細める。
「……とても綺麗な色です。」
「?」
それだけ言うと、篠目と楽羅に頭を下げて静かに部屋を後にした。
結は首を傾げた。意味が分からなかったからだ。
けれど、閉じられた襖の向こうで女将だけが小さく息を吐き、静かに立ち止まると、小さく目を伏せた。
「……まさか。」
誰にも聞こえない声は、懐かしむように、月日を思うように金色の目が細められた。
「お目にかかる日が来るとは思いませんでした。」
その瞳は遠い昔を見ていた。
白銀の衣を纏う神々しい姿を、夜を歩く青い瞳を、今はもう誰も知らないはずの姿を。

