異界へ入ってしばらく、結は周囲を見回していた。紫色の空と銀色の川は、不思議な景色ばかりだけれども、思っていたより怖くない。むしろ、想像より静かだった。
「……あれ。」
ぽつりと呟くと、篠目が振り返った。
「どうしました?」
「何だか……」
結は言葉を探すとおずおずと答えた。
「もっと怖い場所だと思ってました。」
篠目が目を細め、楽羅は話を聞く。
「怖い?」
「はい。何かいるような気がして。」
頷き、言いながら首を傾げる結自身、意味が分からない。何がいるのか、何を恐れていたのか、それすら分からない。ただ、ここへ来る前からずっと胸の奥にあった恐怖だった。
「……あぁ。」
少し考えていた篠目が、どこか納得したように笑った。
「「アレ」らの事ですか。」
「……アレら?」
結は首を傾げ、篠目は楽しそうに肩を竦める。
「気にしなくて良いですよ。」
さらりと言ってのけ、「ここに僕達がいる以上、」と少しだけ笑みを深くした。
「アレらは近寄れませんから。」
結は首を傾げた。
ますます分からなくなる。
「……えっと、どういう意味ですか?」
聞き返すが、篠目は答えない。その代わりに、隣を歩く楽羅を見る。
「ほら、」
にこりと笑い、「楽羅がいるでしょう?」と言ってから両手の人差し指を向けるが、楽羅は無言だった。前を向いているだけ。
「……?」
全然分からない。結は楽羅を見ると、楽羅も結を見ていた数秒。
「どういう意味ですか?」
「……そのままの意味だ。」
「????」
結が固まったのをみた篠目が吹き出した。
「楽羅ぁ、」
「何だ。」
「説明くらいしてください。」
「……お前が始めたなら、お前が説明したらどうだ」
正論だ。何が面白いのか、篠目は更に肩を震わせて笑う。第一印象と違いすぎる。此方が本性か?
結はますます置いて行かれ、結局何一つ分からなかったが、篠目と楽羅は知っている。異界の者達が何故近寄らないのか。何故姿を隠すのか。何故気配すら消しているのか。それは恐れているからではない。
その事実を、今の結が知る必要は無かった。
色々な話をしながら異界を3人は進んだ。
紫色の空は変わらず、銀色の川と風の吹かない森。どれくらい歩いただろう?現世の感覚では測れず、時間そのものが曖昧だった。
「見えてきましたよ。」
前を歩く篠目が言って、結は顔を上げると、木々の向こうに小さな鳥居が立っていた。色は赤でもなければ黒でもない、灰色だった。長い年月を経た石のような色で、ひっそりとそこに立っている姿は、最初から誰かを待っていたように。
「鳥居……。」
結は思わず呟くと、胸の奥が微かに痛んだ。
懐かしいような、寂しいようなそんな感覚。理由は分からないけれど、鳥居を見ると誰かの声が聞こえそうな気がした。低くて、ぶっきらぼうで、けれど不思議と安心する声。あの人は誰だっただろう……思い出せない。
思い出そうとすると、霧の向こうへ消えてしまうみたいに不明瞭になってしまう。
「……。」
結は眉を寄せ、胸の奥がざわつく思いに手を握った。何か大事なものを忘れている気がした。
楽羅が前へ出て、篠目も歩みを止めた。
空気が少し変わって、異界とは違いもっと静かでもっと深いそんな気配を結は鳥居を見つめ、気付けば口が動いていた。
「手形……が、必要なんですよね?」
沈黙。風が止まり篠目が振り返った。楽羅も見る。
「……え?」
結は瞬きを数回。何故そんな事を言ったのだろう。
自分でも分からないけれど、誰かにそう教えられた気がした。
ずっと昔。昔?
誰かに。誰から?
当然のことのように。なぜ?
「……違いましたか?」
困ったように尋ねるが、篠目は答えずに珍しく目を丸くしていた。
「結さん、今のは誰に聞いたんです?」
「えっと」
篠目の静かな問いに考える。考えるけれど、顔も名前も何も出てこないが、誰かがいた。いつも隣にいた気がする。無愛想で、口数が少なくて、それでも当たり前のようにそこにいた誰かの筈なのに、その姿はどうしても見えない。
「…………知らないです。」
結は小さく首を振り、篠目から視線を逸らして鳥居を見つめた。確か「あの時」はこんな色では無かった。
「ただ、そうだった気がして。」
篠目が黙るその横で、楽羅が鳥居を見上げていた。
「篠目。」
「……はい。」
「残ってるな。」
短い言葉に篠目は笑わないまま、ただ結を見つめる。
それは、記憶ではなく、もっと深い場所に刻まれている。決して消えた訳でも失われた訳でもない。
結の魂は覚えている。異界を誰と歩いたのか。鳥居や手形を誰に教えられたのか、誰が傍にいたのか。名前を失っても、記憶を失っても、消えないものがある。
「……。」
結は胸元を押さえた。何故だろう。急に、名前も顔も知らないその人に会いたい気がした。
篠目はゆっくり息を吐き、いつもの笑顔を浮かべた。
「正解ですよ、結さん。ここから先は幽世です。」
その言葉と共に、灰色の鳥居の向こう側がゆらりと揺れた。

