最後の荷物の確認も終わり、月子の「無理しないこと」という念押しも終わり、眠気眼の子供達とも「行ってきます」を終わらせ大吾の意味不明な助言も終わる。
いよいよ出発だった。
「……では、行ってきます。」
結が頭を下げると、皆が口々に返事をする。
賑やかな声、温かな声、その中で結は最後に龍之介を見た。龍之介は少し離れた場所に立っている。それ自体はいつも通りだった。
「龍之介さん。」
結が呼ぶと、龍之介が視線を向ける。
「行ってきます。」
「ああ。」
短い返事に奉公人の誰かが「おいおい」と口にするのを不思議がる結。でも、やっぱり龍之介だった。結は少しだけ笑い、そして踵を返そうとした時「待て。」と不意に呼び止められ、結が振り返ると龍之介は数歩近付いて来た。
「?」
何も言わない。ただ。結の髪を見る。正確には。髪に差した簪を見ている。
「あ。」
結も視線に気付いて、そっと触れようとする。これは彩乃とお揃いで買った簪、らしい。覚えては居ないが、大切なもののひとつだ。
急いでいたせいだろうか、少しだけ傾いている。結が直そうとするが、それをやんわりと止めた龍之介は手を伸ばした。結が思わず固まり、龍之介は簪へ触れる。
そっと、乱れないように。壊さないように。ゆっくりと位置を直すと、龍之介は頷いて「これでいい。」と言う。結は瞬きをし、そっと触れた。簪は綺麗に収まっていた。出発前よりも、ずっと。
「ありがとう、ございます。」
自然と笑う結に龍之介は少しだけ視線を逸らした。
「無くすな。」
ぶっきらぼうな声に、結は思わず吹き出す。
「無くしませんよ。」
「ああ。」
短い返事。沈黙。朝の秋風が吹いて簪の飾りが小さく揺れた。龍之介はその音を聞いてからぽつりと言った。
「帰って来い。」
結の瞳が少しだけ丸くなる。龍之介はもう見ていない。
いつものように、少しだけ横を向いていた。
「皆、待っている」
それだけだったけれど、結の胸は少しだけ温かくなる。
「はい。」
今度は迷わず答えられた。
「ちゃんと帰ってきます。ここが、私の帰る家です。」
龍之介は少し驚いた顔を見せたがやさしく頷く。月子は知れずに涙を流すが、すぐにそれを隠した。大吾がそっとその肩に触れる。
それが見送りだった。結は振り返り、待っている篠目と楽羅に近寄った。
新しい道が始まるけれど、不思議と怖くなかった。髪に残る簪の感触が、少しだけ背中を押してくれる気がした。
「では、皆さん。いってきーーー」
結がそう言った時だった。
「待ってーーー!」
遠くから声が聞こえた。早朝とか関係なく、大きな声だ。その声に全員が振り返る。
坂道の向こうから、こちらへ向かって走って来る人影が見えた。
「…ったく。遅いよ、彩乃!」
月子が呆れたように笑い、彩乃は息を切らしながら駆けて来る。髪は少し乱れている。どうやら本当に走って来たらしい。
「はぁ……っ、はぁ……っ!間に合った……!」
結は思わず笑った。
「彩乃、さん」
「ごめん!」
肩で息をしながら言う。
「お店抜けられなくて!」
「大丈夫だよ。」
結が首を振って否定しようとした時、彩乃のその笑顔は少しだけぎこちなかった。龍之介は気付いていた。月子も大吾も。彩乃は泣くのを我慢している。ずっと、たぶん昨日から。
唇を噛み、必死に笑っている。彩乃は結を見る。
言いたいことは沢山あった。
ー気を付けて。
ー無理しないで。
ーちゃんと食べて。
ーちゃんと寝て。
本当に色々。でも、口から出たのは一つだけだった。
「行ってらっしゃい。」
少し震えた声。それでも、彩乃はちゃんと笑っていた。
結は目を瞬かせると、それから自然と笑う。
「うん。」
ひとつ頷き、「行ってきます。」と言うと、耐えられなくなった彩乃が「結!」と抱きつく。
「帰って来たら、「また」新作食べてね。」
掠れた声。それでも結は笑った。
「絶対よ、約束だからね。」
「うん、約束。」
そっと離れた彩乃はそれ以上何も言わなかった。言ったら泣いてしまいそうだったから。だから、小指を差し出し「指切りげんまん」をして離れた。
最後まで笑う。手を振っていま結が見えなくなるまで。
友達として、ちゃんと笑って見送った。
「彩乃、良く頑張ったね。」
「…だって、泣いたら……結を困らせてしまうもの。」
涙を拭った彩乃はそう言うと「信じてるから」とまっすぐ前を見た。その姿に龍之介は目を細めると、姿が見えなくなった結の方を見て胸に手を当てる。
「さて、お前ら仕事の時間だー!」
大吾の言葉で万事屋がいつも通り始まった。彩乃も慌てて来た時と同様に慌ただしくお店に戻る。
最後までそこにいた龍之介は、月子に肩を触れられるまで動けずにいた。
きっと、帰ってくると信じて。

