篠目が帰った後。
万事屋には妙な静けさが流れていた。大吾は腕を組み、月子は湯呑みを片付けながら考え込んでいる。呼び出された結も説明を聞いて黙り込んでしまった。
「……。」
胸の奥がまだ落ち着かない。理由は分かっていた。
篠目だ。あの男が怖い。嫌なことをされた訳じゃない。
むしろ優しい、と思う。笑うし、言葉遣いも丁寧だ。
それなのに何故か怖かった。
「……月子さん。」
小さく呼ぶ声に月子が振り返った。
「何だい?」
「私……怖い、です。」
包み隠すことを辞めた結の話を月子は黙って聞いていた。大吾も耳を傾ける。
「篠目さんが……」
言葉にすると少しだけ楽になる事を最近学んだ。
結は視線を落とし、手を握る。
「知らない人だからかもしれない……でも、何だか怖いんです。」
月子はしばらく何も言わなかったが、やがて結の隣へ腰を下ろす。
「そうかい。」
優しい声。ふわりと頭を撫でてくれた。
「怖いなら怖いでいい。」
結は顔を上げると、月子は笑った。
「無理に好きになる必要なんて無いさ……だけどね。」
その言葉に安堵した結。月子は更に続けた。
「もしかしたら。もしかしたらだよ。その先に、あんたが救われる何かがあるかもしれない。」
結は黙るが、月子は続ける。
「そんな、不確かな話さ。だけど……」
結を真っ直ぐと見る目は力強い。
「私は知りたいんだ。結が何者なのか。」
結の瞳が揺れる。
「記憶を取り戻して欲しいとか、そういうのもあるんだ。でもね。」
月子はそっと頬に触れて、困ったように笑った。
「私はあんたが安心して笑えるようになって欲しいんだ。」
結の胸が少しだけ熱くなる。
何も分からない世界で1番安心させてくれたのは月子だ。いつでもそばに居てくれた。それこそ、本当の母のように。
「だから……行っておいで。」
長い沈黙に、やがて結は小さく頷いた。
「……はい。」
二日後の昼前
篠目は約束通り万事屋を訪れた。からん、と鈴が鳴る。
「失礼します。」
相変わらず人好きのする笑顔に、大吾が顔を上げる。
「返事だ。」
「ええ。」
篠目は頷き、そして。不安げだが決意した目つきの結を見た。
「どうやら、快い返事を頂けたようですね。」
結は少し緊張しながら頷くと、篠目は満足そうだった。
「ありがとうございます。」
深く頭を下げるその仕草だけは妙に綺麗だった。
「しっかりと守らせて頂きますね、結さん。」
そう言って微笑む結の胸が少しざわつく。やっぱり怖い。でも、前程ではなかった。篠目はそう言うと「では。」と羽織を整える。
「出発は明日です。」
月子達が「は?」と顔を上げるのを見た篠目は当然のように続けた。
「準備をしておいて下さいね。」
沈黙。
「……明日?」
大吾が聞き返す。
「明日です。」
「急だねぇ!?」
月子が声を上げ、篠目は笑う。
「言ったでしょう?あまり時間は無いんです。」
本当にそれだけ言うと。「ではまた明日。」とひらりと手を振りながら帰って行った。残されたのは呆然とする面々。
「急過ぎるだろう。」
「急過ぎるねぇ。」
「急ですね。」
皆が口々に言うが、結が1番驚いていた。
その時、ぎゅっと誰かが手を握って来たのに気がついた結は振り返った。少しだけ後ろにいた龍之介だ。彼は何も言わない。その表情は何を表して居るんだろう。ただ、少しだけ力を込めるので、結は目を瞬く。
「……龍之介さん?」
「忘れ物するな。」
それだけだった。けれど、何故だろう。
少しだけ不安が和らいだ。
翌朝。
結は誰よりも早く起きていた。
昨夜は万事屋の面々に合わせて彩乃や真太も招いて宴が行われた。初めこそ真ん中に居ることが出来なかったのに、後半は「私も行く!」と言い出した彩乃を止めるので精一杯になり、心から楽しめた。が、その反面緊張でなかなか眠れなかった。それでも、寝坊だけはしたくなかった。
旅支度は完璧だった。たぶん。布袋の口をもう一度確認する。着替え、手拭い、彩乃とお揃いの櫛、月子が持たせてくれた薬、彩乃から貰った小さなお守りと、真太がくれた手作りの香り袋。全部入っている。
「よし。」
小さく頷くと、その様子を見ていた月子が笑った。
「何度確認するんだい。」
いつの間に?障子を開けて、柱に寄りかかっていた。
「だって……」
結は布袋を抱える。
「初めてなので。」
月子は目を細める。少し前まで、人前へ出ることすら怖がっていた少女が、それが今は不安そうにしながらも前を向いている。その姿が少しだけ誇らしかった。
「大丈夫さ。」
静かに近寄り頭を撫でる。
「忘れ物しても死にゃしない。」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だよ。」
豪快な返事。結はなんだか面白くて月子と顔を合わせて笑った。
そして、準備が整い万事屋の玄関には既に人影があった。
「おはようございます、結さん。月子さんの旅支度ですよね、流石です。」
「当たり前だろ?娘の旅路に力を入れない親があるもんかい。」
ドッと笑が起こる。
篠目は苦笑いして結をみるが、結はその隣にいた人物を凝視していた。
「……。」
見上げる。見上げる。まだ見上げる。
大きかった。とにかく大きかった。龍之介と並んでも見劣りしない。整った顔立ちは近寄り難いほどの美貌だが、無表情で威圧感がある。
「あぁ、驚かせました。こいつは結さんの護衛の楽羅(かぐら)です。」
篠目が笑うその横で、男はーー楽羅は結を見る。
じっと、数秒。
「飯は食ったか。」
第一声がそれだった。結はぽかんと口を開け、篠目は額を押さえた。
「楽羅。」
「何だ。」
「お前は親か?」
「違うが?」
即答だったけれど、結は思った。
たぶんこの人。すごく世話焼きなんだろうな、と。

