悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


何も無くなったその芝生を見つめていた結を横目で見下ろしていた男。
「迷鬼に同情する者なんて、今更存在していたんだな。」
「いま、何か言いました?」
ボソッと何かを呟いていたが、結にはそれが聞き取れなかった。聞き返しても男は何も教えてはくれない。
「……迷鬼って、なんですか?」
「何処にも属せなくなった者達の総称だ。」
結は眉を寄せた。
何でも無い様に告げる男。
「幽霊みたいなもの?」
「違う。」
結の質問に男は即答だった。
「生きてもいない。死んでもいない。」
「余計分からないです。」
「そうだろうな。」
何故か納得したように頷かれた事に結は腹が立った。
まるで、馬鹿にされているようだ。
「説明する気あります!?」
「ある。」
「あるように見えない!」
男は再びため息を吐いた後、何も無くなったそこれ視線を向けた。
「生きとし生きる全てのものは、名前を失えば「この世界」で存在を認識できなくなる。」
「名前……?」
「そうだ。」
男の声は静かだった。用意されたカンペをそのまま読み上げている様に、淡々と。
「認識されなくなった存在は、何処にも居られない。」
風が吹く。相変わらず温度を感じさせない風だ。
「現世にも、幽世にも、異界にも。」
男はそこで一度言葉を切ると、遠い場所を見つめる様に視線を逸らす。
「だから迷鬼は彷徨いつづける。」
ゴクッと固唾を呑んだ。
更に男は続けると、視線を戻す。
「お前はあれを助けるつもりだったのだろう。」
結は震えを誤魔化すようにギュと握る。
「あ、当たり前じゃないですか」
結は眉を寄せ、一歩近寄った。
「困ってる「人」がいたら助けたいです!」
だが、そんな小娘の威嚇に動じないと言うように「人ではない」と告げた男の目が細められた。その冷たい視線を一身にむけられ、ビクッと肩を揺らす。
「でもーー……」
「違う。」
静かな否定の声が妙に冷たくて結は口を閉ざすが、関係無しに男は続けた。
「あれは既に消滅しかけていた。名前を失い、居場所を失い、世界から忘れられた存在。あれは、消滅する前も自分が何者だったのかさえ覚えていない。」
結は思わず先程の人影を思い出した。
いくら声を掛けても動かなかった。喋らなかった。ただ、ジッと鳥居の向こうを見ていた。
「だったら尚更……」
「触れていたら」
男の声が結の言葉を遮り、その黒い瞳が真っ直ぐ結を見て「お前も引かれていた。」と言うと、ぞくり、と背筋が震えた。
「引かれる……?」
「ああ。消滅しかけた迷鬼は沈むんだ。」
意味は分からないのに、それでも嫌な予感だけは伝わってくる。ドクドクと心臓が早く動くのに体は冷えきっているようだ。
「沈む者は、必ず何かに縋る。」
風が止んで静寂が落ちる。一瞬、世界から音が消えた。
「名前、」
指1本たてて
「記憶、」
指2本も立てて
「想い。」
指3本を見せた。
「あいつらにとっては、何でもいい」
見せていた手を下げ、男は僅かに目を伏せた。
「消えたくないからな。」
結は先程伸ばして触れようとしていた右手が冷たくなっていることに気がつく。間違いない、これは……
「もしお前が触れていたら」
男の声だけが響く。
「間違いなく、腕を掴まれていただろうな。」
「……!」
「そして離さない。」
「……。」
「お前の名前を奪い、お前が忘れるまで。」
結の呼吸が止まった。
「名前を……忘れる?」
「そうだ。」
男は頷き、感情の籠らない目で結を見た
「自分の名前。家族の名前。友人の名前。生きてきた記憶。」
淡々と、まるで当たり前の事実を語るように。
「一つずつ、確実に削られていき、気付いた時には」
男は再び消えた迷鬼のいた場所を見る。男を見上げる結からその表情までは分からない。だけど、一瞬見えたその瞳に光は無い。
「お前もああなっている。」
結もつられて視線を向けた先にはもう誰もいない。ただ風だけが吹いて、柔らかな緑色の芝生を揺らしているだけ。ほんの少し前まで人がいたはずなのに、今は何も残っていないのは、本当に最初から存在しなかったみたいだと、今更理解する。

胸の奥が冷たくなっていく感覚。
ここに来てから初めて感じる、本物の恐怖だった。