依頼の話があるらしく、大吾と篠目は奥の部屋へ移り、月子もお茶を持って向かう。
居間には結と龍之介だけが残された。とても、静かな時間。結は縁側へ視線を向ける。穏やかな昼下がりだった。それなのに、胸の奥が落ち着かない。
先程の男の顔が浮かんだ。人好きのする笑顔と優しそうな声は、何故だろう。妙な違和感が残っている。
「……。」
膝の上で手を握った時、龍之介が結に声をかけた。
「あいつ、知ってるのか?」
結は顔を上げ「え?」と聞く。
「篠目だ。」
短い言葉に結は少し考える。本当に少しだけ。けれど、何も浮かばないし、知らない。見覚えも無い。胸がざわつく理由も分からない。だから、小さく首を振った。
「……分からないです。」
龍之介は黙って結の顔を見る。嘘を言っている顔ではない。本当に知らないのだろう。
「そうか。」
それだけだった。結は少し困ったように笑うが、言葉を発する事はしなかった。
龍之介は篠目が結を見た時の顔を思い出していた。あれは、初対面の人間がする顔ではなかった。
「……。」
様々な感情が混ざったあの顔は、龍之介に小さな警戒心を抱かせるには十分だった。
理由は分からない。だが、結をあまり近付けない方がいい。そんな気がした。それは勘だったけれど、龍之介は昔から自分の勘を信じていた。
奥の部屋へ移るが、篠目は茶へ手を付けなかった。
いつもなら世間話の一つでもする男が、やけに静かだと大吾も気付いている。
「……何だ。」
胡坐をかきながら聞く大吾。
「依頼じゃねぇ話があるんだろ?」
何かを考え込んでいた顔を上げた篠目は小さく笑った。
「流石ですねぇ。」
「長ぇ付き合いだからな。」
月子がお茶を置いて、大吾の近くに腰をかける。
篠目は湯気を見つめながら息を吐いた。
「本当に……何も覚えていないんですか?」
静かな声だった。まさか、結の事とは思わずに大吾と月子が顔を見合わせる。
「ああ。自分の名前も、家族も。」
大吾の後に月子が続ける。
「生まれも育ちも、全部さ。」
二人の言葉に篠目は黙る。長い沈黙だった。
「……そうですか。」
それだけ言うが、納得した顔ではない。
「何だよ、何か知ってんのか。」
大吾の質問に篠目はすぐには答えなかった。
温かい茶を一口飲んで、それから「逆に聞きます。」と視線を上げる。
「あの子、最近目の色が変わったりしてませんか?」
月子が訝しげに首を傾げた。
「目?」
「はい。」
「変わっちゃいないよ。」
即答だった。毎日顔を見ている。そんなことがあれば気付く。だが、篠目は何か考えている。
「そうですか。」
再び沈黙。顔を合わせた月子と大吾。眉間に皺が寄る。
「篠目。」
「はい。」
「お前。」
大吾は真っ直ぐと目の前に座る篠目を見た。
「結を知ってるな?」
部屋の空気が一瞬で変わり、篠目の笑みが少しだけ薄くなる。
誤魔化そうと思えば誤魔化せた。だが、篠目は誤魔化さなかった。
「……ええ。」
静かな返事に月子が目を見開き身を乗り出す。
「本当かい!?」
「知っていると言うよりも、」
篠目は言葉を慎重に選んだ。
「……似た人を知っている。」
それは嘘ではない。だが、真実でもない。大吾は鼻を鳴らした。
「便利な言い方しやがる。」
「職業柄でして。」
いつもの胡散臭い笑みが戻るけれど、その深緑の目だけは笑っていなかった。
「その知り合いに会わせたいんです。」
目を見開す月子を見ずに篠目は続ける。
「もしかしたら、何か分かるかもしれない。」
月子が黙り大吾も腕を組む。確かに、今の結は手掛かりが無い。何か一つでも見つかるならと、そう思ってしまう。篠目は二人を見た。
「……その方に会うとなれば、数日程の旅になります。護衛は勿論此方で準備します。」
そこまで言って、一瞬だけ視線を障子へ向けた。
向こう側には結がいる。
「今の結さんを放っておくには……少し危うい。」
大吾の目が細められた。
「危うい?」
篠目はすぐには答えない。ただ、脳裏に浮かぶあの紺色の瞳、記憶を失った少女。そして名前すら曖昧になっている存在の組み合わせには嫌な予感がしていた。
とても、嫌な予感が。
「ええ。」
篠目は静かに笑った。いつもの胡散臭い笑顔で。
「取り返しがつかなくなる前に。」
その一言だけが、妙に重く響いた。
部屋に沈黙が落ちた。
大吾は腕を組んだまま篠目を見た。月子も同じだった。
結の記憶が戻るかもしれない。その言葉は確かに魅力的だったけれど、相手は篠目だ。昔から知っている。こいつが全てを話す男ではないことも。だが、こういう時に嘘をつかない事も。
「……本当に分かるのか。」
大吾が聞くと篠目は少しだけ笑った。
「分かるかも、しれません。」
「曖昧だね。」
月子が眉を寄せる。
「仕方ありません。」
篠目は肩を竦めて二人を見た。
「私も確信がある訳ではないんですよ。」
それは本当だった。だからこそ厄介なのだ。
「ですが……」
篠目の表情が少しだけ真面目になる。胡散臭い雰囲気が消えた。
「今のままよりは、前へ進めると思います。」
大吾は黙る。月子も何も言わない。篠目は二人を見てから、「ただ。」と静かな声で続けた。
「あまり時間は……無いです。」
その一言で空気が変わった。月子の眉が動く。
「どういう意味だい。」
「そのままの意味ですよ。」
篠目は笑う。いつものように胡散臭く。けれど、その目だけは笑っていなかった。
「返事は二日後に、その時に聞かせてください。」
大吾は小さく息を吐いた。
「分かった。」
「ありがとうございます。」
立ち上がった篠目は深々と頭を下げる。
静かに部屋を出てから廊下を歩き、玄関に向かう前の帰り際。一度だけ結を見る。縁側近くに座っている結も気が付いて篠目を見返した。
何故だろう。また胸がざわつく。篠目はそれ以上何も言わなかった。ただ微笑み、丁寧にお辞儀をすると静かに万事屋を後にした。

