悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


ある日の昼過ぎだった。
万事屋の戸がガラリと開くと、来客を知らせる鈴が、カランと乾いた音を鳴らした。

「頼もう。」

軽やかな声に廊下から大吾が顔を覗かせると、来客を見てパッと表情を変えた。
「篠目(ささめ)じゃねぇか!」
入って来た男も笑う。
「久しぶりですねぇ、大吾さん。」
焦げ茶色の長い髪をひとつに結び横に流しその結び目には翡翠色の羽飾りが揺れている、深い緑の目をした男の名は篠目。柔らかな口調で人当たりも良い、誰にでも好かれそうな笑顔。だが、何故だろう。少し胡散臭いそんな男だった。
整った顔立ちと細身の体躯。羽織は少し派手で深い藍色の生地へ銀糸が織り込まれていて、目を引く装いなのに嫌味は無い。むしろ妙に似合っていて、街を歩けば女性達が振り返りそうな男だった。
「また面倒事かい?」
遅れてやって来た月子に篠目は肩を竦めた。
「月子さん、人聞きが悪いですね。」
「良い噂を聞かないもんでね。」
「酷いなぁ。」
篠目は笑うけれど、その笑顔もどこか本心が見えないから、余計に胡散臭い。2人のやり取りに大吾が豪快に笑った。
「相変わらずだな。」
「ふふ、お褒めに預かり光栄です。」
「褒めてねぇよ。」

その時だった。
奥から結が顔を出した。
洗濯物が入った籠を抱えながら。
「月子さん。」
声を掛けようとして、足が止まる。大吾と月子の他に知らない男が居た。万事屋の人では無い。篠目の視線が結へ向く。柔らかな笑顔。人好きのする目。けれど、次の瞬間。その笑みが消えた。まるで。信じられないものを見たように。

「…………。」
結はしれずに息を呑んだ。何だろう。
胸の奥がざわつく。知らないはずなのに、知らない人のはずなのに、心臓が嫌な音を立てる。

どくり。強く脈打つ。
「……?」
理由が分からずに怖がった。いいや、怖い訳じゃない。けれど、近付いてはいけないような、何かを思い出してしまいそうな。不思議な感覚だった。

どくん。もう一度心臓が鳴り、結は思わず胸元を押さえた。その様子をずっと龍之介は見ていた。
「……。」
眉が僅かに寄る。結の顔色が悪い。呼吸も少し浅い。結自身は気付いていないだろう。だが、何かがおかしい。神社で見たあの夜と似た違和感が胸を過ったその時だった。
篠目が瞬きをし、まるで何事も無かったかのように柔らかな笑顔が戻る。先程の表情は幻だったかのように。
「失礼。」
篠目は結へ視線を向ける。
「こちらのお嬢さんは?」
穏やかな声。視線に怯えた結は少しだけ身を固くすると、背中に庇うように月子が代わりに前へ出た。
「ああ、この子は結だよ。」
一瞬だけ言葉を選び、それから小さく息を吐いた。篠目の笑みが薄くなる。月子は続けた。
「色々あってね。記憶を失っちまったんだ。」
部屋がシンと静かになり、結は俯いた。何度聞いても慣れない。自分の話なのに、他人事みたいだった。篠目はしばらく考える様に黙っていたが、結を見る。いいや、その瞳を見る。
まるで、何かを確かめるように……やがて。
「なるほど。それは、大変だ。あまり無理をされてはいけませんよ?」
静かに呟いた。納得したような、それでいて。何か別の答えへ辿り着いたような声だった。
「あぁ、自己紹介が遅れました。どうぞ気軽に篠目と呼んでくださいね、結さん?」
結の胸がまた騒ぐ。どくりと心臓が鳴る。
篠目は笑った。いつもの胡散臭い笑顔で。龍之介だけは気付いていた。篠目の目が笑っていないことに。
そして、篠目もまた気付いていた。結の瞳の奥で、一瞬だけ揺れた深い紺色に。