歌が終わる頃には、結は眠っていた。
涙の跡を残したまま、龍之介の着物を掴んだまま穏やかな寝息を立てている。
龍之介は深く息を吐き出したが、動けなかった。無理に離せば起きてしまう気がした。だから、ただ座っていたポンポンと叩く手をそのままに。結を抱き寄せたまま。
その時だった。障子が開いて入ってきたのはーー
「結、大丈――」
月子の言葉が止まり、視線が部屋を巡った。破れた障子、散乱した部屋、転がる座布団。
そして、龍之介の腕の中で眠る結は衣服が乱れ髪も
「……。」
一瞬だけ目を丸くするが、状況を見れば分かった。
何があったのか。全部ではなくても、大体は。
月子はゆっくり部屋へ入ると、眠る結を見る。
涙の跡、掠れた呼吸と赤くなった目元は痛々しかった。優しく髪の毛を退けてやり「寝たのかい。」と聞くと、龍之介はただ一言「ああ。」と、短い返事をした。
月子は小さく笑い、龍之介の肩へぽんと手を置く。
「……龍之介。」
龍之介が顔を上げた。月子は肩から頬へ手を移動させ、柔らかく笑った。
「ありがとう。」
龍之介はそれに答えない。少しだけ視線を逸らすだけ。月子はそれ以上何も言わなかった。ただ、眠る結の髪を撫でる。今は、それで十分だった。
あの日以来、結が錯乱することは少なくなった。
全く無くなった訳ではない。
夜中に目を覚まして泣く日もあったし、突然不安そうな顔で周囲を見回すこともあった。
けれど、以前のように自分を傷付けることは無かった。
月子が傍に居た。大吾が居た。彩乃も頻繁に顔を出した。真太は寺子屋の帰りに様子を見に来るのだ。
そして、龍之介も居た。誰かが必ず結の傍に居る。
万事屋の皆はまるで示し合わせたかのように、結が一人になる時間を作らなかった。
結も少しずつそれを受け入れていった。最初は目を合わせることも出来なかった。人が怖かった。知らない人が怖かった。自分を知っている人達が怖かった。けれど、月子が根気よく話し掛ける。大吾が大袈裟な笑い声を上げる。彩乃が新作の菓子を持って来たり、真太が寺子屋の失敗談を話す等とそんな日々を繰り返すうちに、少しずつ。本当に少しずつ結は笑うようになった。
一週間後のよく晴れた昼だった。
縁側には洗い立ての洗濯物が積まれていて、結はその前へ座っていた。
月子から教わった通りに畳んでいく。手つきはまだ少しぎこちないけれど、それでも以前より随分上手くなった。
「そうそう。」
月子が嬉しそうに頷く。
「上手くなったじゃないか。」
結は少し照れたように笑ったあとに「ありがとう、ございます。」とお礼をする、まだ他人行儀な言葉遣いだが、それでも最初の頃よりずっと柔らかい。
月子は満足そうに笑うと立ち上がった。
「晩飯の支度してくるよ。後は二人に任せたからね。」
そう言って台所へ向かい、結は再び洗濯物へ視線を落とした。
隣には籠を運んできた龍之介が居る。特に会話は無い。
元からそうだった。結が一枚ずつ畳み、龍之介が黙って次の籠を寄せる、そんな静かな時間だった。
秋の風が吹く。庭の木や畑の野菜の葉が揺れる。
結が顔を上げ「これ。」と洗濯物を持ち上げる。
「ここでいいですか?」
龍之介はそちらを見ると「ああ。」と短い返事を返したその瞬間。
縁側へ差し込んだ光が結の顔を照らして龍之介の視線が止まる。
「……。」
違和感だった。ほんの一瞬、本当に一瞬。
見間違いかと思うほど短い時間に、結の瞳が黒ではなかった。
色は深い紺色。
夜の海を閉じ込めたような、月明かりの沈む泉のような、黒に見えるほど深いのに確かに青を宿している。
龍之介は目を細め少し前に神社で見たあの雨の日を思い出す。
泥だらけで座り込んでいた結の瞳が、あの時の色に似ていた。
だが、次の瞬間には黒へ戻る。何事も無かったように。黙ってしまった龍之介に、結は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
龍之介は答えない。ただ、結を見ている。
結は不思議そうな顔をし、やがて。困ったように笑う。
「顔に何か付いてます?」
「……いや。」
龍之介は視線を逸らす。気のせいかもしれないとそう思う事にした。でも、やたらと胸の奥に引っ掛かる。あの日の青と今見た紺。そして、結の失われた記憶。
「……。」
龍之介は何も言わない。言えなかった。ただ、嫌な予感だけが静かに残った。
まるで。
何かが少しずつ目を覚まし始めているように。

