悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


結が目を覚ましてから三日が過ぎたが、未だに結は布団の上で過ごしていた。
身体を起こせるようにはなったし、少しだけ粥も食べられるけれど、失った記憶だけは戻らなかった。


先生がいつも通りに診察に来ていた。
脈を取り、目を見る。熱も無いし、顔色も随分と良くなった。
「身体は問題無いな。」
先生は頷いて、近くにいた月子が安堵したように息を吐いた。
「なら良かったよ。」
「だが、焦るな。」
先生は静かに言う。
「記憶は急に戻ることもある。」
結は黙って聞いていた。何も言わないし、何も聞かない。ただ膝の上で手を握っている。
「少しずつでいい。」
先生は優しい声で結の頭を撫でた。
「まずは身体を治せ。」
結は小さく頷いただけ。診察が終わり、先生は部屋を出ていった。見送りと洗濯の為にと月子も立ち上がる。
「洗濯と昼の支度してくるよ。」
結を見て、その肩にそっと触れた。
「すぐ戻るからね。」
「……うん。」
月子は安心したように笑い、部屋を出ていった。
障子が閉まると、途端に部屋に静寂が落ちた。最初の数分は何も変わらなかった。
結は窓の外を見ている。鳥の声や風の音と遠くから聞こえる人々の声。
穏やかだった。なのに……ふと、胸がざわついた。
「……。」
一人だった。誰も居ない。静かだった。急に……怖くなった。何故だろう。結には、分からない。けれど怖かった。言い様の無い恐怖だ。

息が苦しい。胸が苦しい。誰か居て欲しい。
「……月子、さん?」
返事は無い。当たり前だ。ここに、居ないのだから。
それでもどんどん恐怖は大きくなり、頭の中が真っ白になる。
知らない。
何も知らない。
ここはどこ?
私は誰?
どうしてここに居るの?
どうして皆は私を知っているの?
「いや……いやぁぁ」
呼吸が浅くなり、体温が徐々に下がっていき手がガタガタと震える。
怖い。怖い。怖い!
障子へ手を伸ばし、外に出る為に開けようとするが、上手く出来ない。焦ってもっと怖くなる。爪が障子紙を引っ掻いた拍子にビリッと破れる。
「っ……!」
呼吸が乱れ、立ち上がろうとして転ぶを何度も繰り返している間に腕を強く打ってもそれでも気付かない。
「違う!」
大きく叫ぶ。
「違う!!」
涙がボタボタと溢れる。何が違うのか分からないのに、それでも叫ぶ。
「私は……!」
言葉が続かずに、名前が出てこない事に体が震えた。
何も無い。何も。何もっ!
「私は誰なの!?」
泣きながら叫び、部屋の中を見回すが、何も知らないし全部知らない。怖い。頭を掻きむしり、腕を引っ掻いた。それでも恐怖は和らがない。

ー……助けて、誰か

その時だった。障子が勢いよく開いたのは。
「結!」
龍之介だ。たまたま廊下を歩いていたのだろう。音を聞いて入ってきた。結は肩をビクッと震わせた。
龍之介の表情が変わる。障子は破れ、結の腕には擦り傷、指先からは血が滲んでいた。
結は泣きじゃくっていて、今にも壊れそうだった。

「やめろ!」
龍之介が駆け寄って肩を掴んだ。結が更に暴れる。
「嫌ぁ!」
「結!」
「違う!」
「落ち着け!」
「違うの!!」
涙が止まらず、呼吸も出来ない。浅く息を繰り返す。
「大丈夫だ!」
龍之介が叫ぶ。
「大丈夫だから」
「違う!!」
結は首を振って否定する。最早何に対して否定しているのかも分からない。だけど、「私は……!」続きの言葉が出ない。何も出てこない。名前が無い。自分が無い。怖い。このままでは、自分はーーー
「私は……!」
涙が次々と流れ落ちる。
「誰なの……?」
龍之介は言葉を失った。腕を掴んで身体を傷付けさせるのを止めたとしても、暴れ続ける結をどう止めたらいい。今の結に何と言えばいい?何を言えば助けられる。

分からない。月子のようには出来ない。大吾のようにも出来ない。何も……何も出来ない。

「助けて……。」
結が泣く。
「誰か……助けて……。」
龍之介が唇を噛んだその時、フと遠い昔を思い出す。
自分がまだ幼かった頃、夜が怖かった。母が居なくなるのが怖かった。そんな時、いつも聞こえた歌があった。
「……。」
龍之介は目を閉じ、そして、静かに口を開いた。
「お、おやすみな。」
結の動きが止まった。
「おやすみな。月の舟がゆく。星の川をゆく。」
掠れた声は、決して上手くはない。音程もバラバラだし聞いていていい物では無い。けれど、優しい歌だった。
結はゆっくりと顔を上げ、呆然と龍之介を見る。
龍之介は歌い続ける。
「怖い夢なら。風が連れてゆく。朝になったら。帰っておいで。」
ゆっくり、ゆっくりと。幼子へ語り掛けるように。
ポンポンと背中を叩く。リズム良く、安心させるように。歌声が部屋へ溶けていく。結の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
震えていた肩も、少しずつ少しずつ。
「おやすみな、おやすみな。月の舟がゆく。星の川をゆく。」
結の涙は止まらない。それでも、先程までの恐怖は薄れていた。龍之介の着物を掴む。縋るように、確かめるように。
「怖い夢なら、風が連れてゆく。朝になったら、帰っておいで。」

帰る。

その言葉が胸へ落ちた。何処へ帰ればいいのかは分からないし、自分が誰なのかも分からない。
それでも、今だけは一人じゃないと、そう思えた。
結は声を殺して泣く。龍之介は歌い続けた。遠い昔に母がしてくれたように。静かに、優しくただ傍に居続けた。