悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


五日目の朝、連日の雨は止んでいた。
窓の隙間から柔らかな光が差し込み、数日ぶりに鳥の鳴き声が聞こえた。

久しぶりの静かな朝。
月子は結が眠る布団の傍へ座ったまま眠っていた。体力が限界を迎えたのだろう。だが、眠っている間も結の手は握ったまま、離さない。
いつもきちんと纏められている月子の髪が流れ、首が傾く度にゆらゆら揺れる。小さな寝息も聞こえ、部屋には穏やかな空気が流れていた。

その時、結の指先が僅かに動く。

ぴくり。

小さく、本当に小さくもう一度。

 ぴくり。

「ーーーー………。」
瞼が震えるが、とても重い。身体が重い。
熱を出した後の怠さが全身を覆っていた。

ー……ここは、何処だろう。

ぼんやりとしながら思う。ここは木の匂いがする。
柔らかな布団の感触と聞いた事のない鳥の声。ゆっくりと目を開けるが、光が眩しかった。
「……。」
知らない天井だ。しばらく瞬きを繰り返す。
頭が上手く働かない。

何をしていた?
何処にいた?
何があった?
……何も思い出せない。

その時、誰かに握られていた手が動いた。
「……ん。」
月子だ。
月子が目を覚まし、ぼんやりと顔を上げると、結と目が合った数秒、時間が止まり、月子の目が見開かれる。
「……?」
結は瞬きをした次の瞬間月子の顔がくしゃりと歪んでいた事に気がついた。
「結。」
掠れた声だった。
「結!」
握る手に力が入る。泣きそうな顔。いいや、もう泣いていた。
「先生!!」
月子が叫ぶ。手は離さない。
「大吾!!」
廊下へ響く月子の声に反応し、慌ただしい足音がどんどん近付いてくる。
結は驚いた。何が起きているのか全く分からない。

知らない人が泣いている。
知らない人が笑っている。
知らない人が自分を見ている。
胸がざわついた。怖かった。

障子が勢いよく開くと、小さな狭い部屋に次々と人が流れてくる。あぁ、障子が壊れた。
大吾、先生、奉公人達と次々と人が入って来る。
「起きたか!」
「良かった……!」
「本当に良かった……!」
「結ちゃぁぁぁあん!!」
「心配したよぉ!」
皆が安堵していた。皆が笑っていた。
でもーーー……何も、何一つ。
「……結。」
月子が涙を拭いながら笑う。優しい顔。安心させるような笑顔。
「……おかえり」
月子は結の待っていた。いいや、ここに居るみんなが待っていた。信じている顔だ。結はゆっくりと口を開く。
「……ゆい。」
聞き慣れない音を繰り返す様な姿に月子が瞬きをする。
「え?」
「ゆい……って」
喉が痛くて、上手く声が出ない。
それでも、続けた。
「誰ですか。」
部屋から音が消えた。誰も動かない。誰も喋らない。
月子の笑顔だけが止まる。結はその顔を見ていた。分からずとも、何かを間違えた気がした。けれど、本当に分からないのだ。
「結。」
月子の声が震えた。
「これは、あんたの名前だよ。」
結は黙ったままその名前を頭の中で繰り返す。

ー……ゆい。
ー……結。
ー……ゆい。
ー……結?

何も浮かばない。何も。何一つとて。
胸の奥が冷たくなる感覚に恐る恐る「私は。」と掠れた声を出した。

怖い。急に怖くなった。

「私は……誰ですか。」

その言葉に、月子は何も答えられなかった。