悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


結の目は見慣れた色だった。
先程の青が嘘だったかのよう。けれど、龍之介は忘れられない。あの色を、あの瞳を。

「……結。」
何度も呼ぶが、ちゃんとした反応は無い。意識が朦朧としているのだろう。
熱い。
抱き留めた身体は異様なほど熱を持っていた。雨に濡れているはずなのに、まるで熱病にでも侵されているようだった。
「……。」
龍之介は何も聞かないし、何も言わない。聞きたい事はあった。あの目は何だったのか。何故こんな所に居るのか。何故泣いていたのか、何も分からない。だが……今は違う。
結の身体が僅かに震えた事にハッとした。きっと、寒いのだろう。濡れた着物は冷たく肌へ張り付いていた。
龍之介は小さく息を吐くと自分の法被を濡れていたとしても着させ、結の身体をおぶった。
「……っ。」
結が微かに目を開くと、焦点の合わない瞳が龍之介を映す。何かを言おうとしても、それは言葉にならない。龍之介は視線を逸らした。傘を手に持ち足を進めた。雨が傘を打つ音が近い。結から受ける熱が燃えている様だ。
「帰るぞ。」
短い声を、その言葉を聞いた瞬間。結の瞳が微かに揺れる。

ー……かえる?

その言葉だけが、妙に胸へ落ちた。
「……かえる。」
掠れた声に龍之介は答えない。結が落ちないように抱き直す。
「皆が心配してる。」
ぽつりと呟くそれは叱責では無く、事実だった。月子も、大吾も、彩乃も、真太も、万事屋の皆が。結を探していた。勿論……龍之介も。
「だから」
龍之介は前を見た。雨の向こう。万事屋のある方角を。
「帰るぞ。」
もう一度だけ言った。結は何も答えないけれど、返事をするように微かに力がこもった。龍之介は何も言わない。静かに歩き出すだけ。

黙ったまま進み続ける龍之介は、遠くに見えた万事屋の法被を来た人の姿に安堵の息を吐いて足を早めた。
龍之介の姿に気がついた奉公人の誰かが声を上げた。中から出てくる大吾達。
雨はまだ降り続いているけれど、それでも万事屋の灯りだけは消えていなかった。


龍之介が結を連れて帰った時には、すっかり夜になっていた。戸が勢いよく開き、「月子さん!」と呼ばれたその声に居間に手を組んで座っていた月子が顔を上げた。


「結!」
普段なら足音なんて鳴らさない。着物が乱れようと関係なく走った月子の悲鳴にも似た叫びが玄関先に響いた。
龍之介に抱き上げられた結の姿を見た瞬間、息を呑む。

着物は泥だらけ。雨の時様の下駄は両方無い。髪は簪が取れかかって雨に濡れて頬へ張り付きボサボサ。顔色は月夜の様に青白くて唇も赤紫だ。

何より、抱えている龍之介の腕越しにも分かるほど身体が熱かった。
「先生を呼びな!」
月子の声が飛ぶと同時に万事屋が一気に慌ただしくなった。奉公人達が走り回る。
桶に湯を汲む者、先生を呼びに行く者、布団を敷く者、結はすぐに部屋へ運ばれた。女性陣が数人がかりで濡れた着物を脱がせ、泥を落として行く。外傷は擦り傷だけ。青白い肌が元々白かった肌を更に白くさせていた。
冷え切った身体を温かな布で拭いて、浴衣を着させるけれど、熱だけは下がらない。
先生が来た頃には、結は酷くうなされていた。
「いや……。」
額には汗が滲んで呼吸も浅い。
先生は脈を取り、眉を寄せた。
「熱が高すぎる……」
月子の顔色が変わった。大吾も息を飲み先生の言葉を待つ。
「助かるのかい。」
「まだ分からん……」
その答えが何より怖かった。


一日目の夜。
月子は眠らなかった。いいや、寝れなかった。結の額の手拭いを替える。
汗を拭いて、水を飲ませる。何度も、何度も。
「……大丈夫だよ。」
結からの返事は無い。それでも言う。言い続ける。
「大丈夫だからね。」
結は苦しそうに眉を寄せた。何かを夢見ているのだろう。時折、ぽつりと声が漏れた。
「いや……。」
「ちが……。」
「まって……。」
月子はその度に髪を撫でた。幼子をあやすように、優しく。

二日目。
今日も熱は下がらなかった。粥も喉を通らないし、薬を飲ませても変わらない。それ所か水を少し飲ませるのが精一杯だった。
その日は、彩乃がお見舞いに来た。籠いっぱいの果物を抱えて。
「結……。」
眠る顔を見て言葉を失う。いつも笑っている少女が、今は苦しそうに呼吸を繰り返している。
「起きるよね……?」
月子は疲れた顔のまま微笑んだ。
「起きるさ。」
そう言いながら、自分自身へ言い聞かせていた。


三日目。
大吾が部屋を覗く回数が増えた。
「……どうだ。」
その問いに、月子は首を振る。大吾は何も言わないし言えない。ただ、眠る結を見るとそれから静かに部屋を出ていく。
その背中は少しだけ小さく見えた。


四日目。
熱は下がらない。
むしろ高くなっている気さえした。先生は何度も様子を見に来た。
薬を変え、冷やし方を変え、出来る事は全てやった。
それでも、結は目を覚まさない。

夜になった。
部屋には薬草の匂いが漂っている中で月子は布団の傍へ座っていた。結の手を握りながら眉を下げた。小さな手が熱い。嫌になるほど熱い。
先生は脈を取って額へ触れると、そして深く息を吐いた。
「先生?」
月子が顔を上げるが、先生はしばらく黙っていた。
やがて……
「……今夜が峠だな。」
静かな声。部屋が静まり返る。外では未だに雨が降っている音がここまで聞こえる。月子は何も言わない。
ただ、結の手を握るだけ。その手だけは離さなかった。

先生はそんな月子を見て、かつてを思い出す。
先生は知っている。昔から月子達を知っている。
この女が、一度だけ同じような夜を経験している事を。とめどない涙をそのままに声を上げて泣いていた事を。
「月子。」
呼ばれても月子は顔を上げない。
「……大丈夫さ。」
ぽつりと呟く言葉は誰へ向けた言葉なのか自分でも分からない。
「絶対に「この子」は帰ってくる。」
そう言いながら、汗で濡れた髪を優しく撫でる。
何度も、何度も。先生は目を伏せた。

……あの日。
小さな身体を抱き締めて泣いていた月子達の子供は流行り病に罹った。どれだけ願っても、どれだけ祈っても、子供はもう二度と目を開ける事は無かった。

だから今も、月子は眠らない。離れない。
二度と同じ思いをしたくないから。
「帰って来な……」
小さな声は弱っている。
「おかえりって「今度こそ」言わせておくれ。」

その言葉は、遠くへ行ってしまった娘へ語り掛けるようだった。

その夜。
龍之介は廊下に座っていた。
障子越しの灯りを見つめたまま部屋へは入らない。

けれど、離れない。
やがて大吾が隣へ腰を下ろし壁に背中をつけた。珍しく酒は持っていない。
「まだ……起きてたか。」
龍之介は答えない。大吾も気にしない。二人で雨音を聞く長い沈黙。
そして、「死なせねぇよ。」と大吾がぽつりと言った。誰へ向けた言葉だったのか。自分にも、月子にも、神様にも分からない。けれど
「うちの娘だ。」
そう言って笑う顔は少しだけ無理をした笑顔。龍之介は黙っていたけれど「はい」と、その言葉に小さく頷く。

雨は一晩中降り続いた。誰も眠らないまま。
五日目の朝が静かに近付いていた。