「……分からないよ。」
震える声が漏れて雨に溶けた。
冷たい、痛い、息が苦しい。
「分からない」
何が正しいのか、何が間違っているのか、もう結には分からない。夢を見た。靄がかかる家の夢、一寸先は闇の中にある学校の夢、影に包まれた友達の夢、お母さんと思われる人の笑顔と、何重にも聞こえるお父さんの声に自分の名前の所だけにモザイクがかかった誕生日のケーキ。
どれも大切だったはずなのに、思い出そうとすると霞んでいく。昨日まで、一昨日まで覚えていたはずなのに。
今日になると遠くなるのは、怖かった。本当に怖かったのだ。「私は。」続く言葉に唇が震える。
「私は結なのに……。」
胸を押さえた。鼓動がある。息もしている。泣いている。ここにいる。ちゃんと、ここにいるのに。
「何で「みんな」して、」
涙がボタボタと溢れる
「私じゃないって言うの……」
天山神が何か言おうとするけれど、もう届かない。
「もう嫌だ……。」
掠れた声は確かな拒絶。
「嫌だ。」
腰に差していた短刀へ手を伸ばした。雨に濡れた鞘を握る。異界で何度も握った短刀。死にたくなくて、生きたくて必死だった。
天山神はいつもそこにいた。そのはずだった。
「嫌だ……」
「結ーー」
初めてだった。天山神の声が少しだけ揺らいだのは。
「待てーー」
「嫌だ!!私は結なの!!」
叫び声に通りを行く人々が足を止めた。誰もいない空間へ向かって泣き叫ぶ少女が短刀を持っている異様な光景だった。それでも、結は止まれなかった。
「知らない!うるなんて知らない!」
涙が止まらない。
「私は結だよ!!」
そして、振り上げた。
「待てーーーー」
――ガァァン!!
鞘ごと、全力でぬかるんだ地面に短刀を叩き付けた。
鈍い音ではなく、まるで地面に何かの力が広がるような音がした。泥水が跳ね、やがて短刀が地面を転がる。
結の呼吸は荒い。肩が震え、視界が滲む。
「もう……もう嫌……。」
天山神は動かなかった。ただ、転がる短刀を見ているだけで、何も言わない。言えない。だって、理解が出来なかった。
何故だ?
何を間違えた。
何故あんな顔をしている?
何故あんなにも苦しそうなのだ
ー……分からない。
天山神には、何一つ分からなかった。長い沈黙の末、やがて「そうか」と雨音に消えそうな声が耳に入った。結は顔を上げない。
「……すまなかった。」
その言葉だけが落ちると、天山神は目を閉じた。
今は、これ以上会うべきではない。これ以上言葉を重ねればきっとまた傷付ける。
だから……深く沈む。
鞘の奥へ、深淵へ、ただ静かに。誰にも届かない場所へ。まるで眠るように。今までだってそうだった様に。
天山神の姿が薄れていく最後「結」と呼ばれた気がしたけれど、結は顔を上げなかった。上げられなかった。
気付けばそこには誰も居なかった。
「……っ。」
結は唇を噛んだ。
足元にはビシャビシャに汚れた買い物袋。使い物にならない傘と、そして泥に汚れた短刀。
何もかもそのままで、よろける結は踵を返した。
逃げるように、何もかもから目を逸らすように。
走る。走る。向かった先は。
あの神社だった。

