悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


その日からだった。
龍之介が結を気に掛けるようになったのは。その逆に、結は一人で過ごすことが増えた。

神社、河原、街外れの畑道、ふと気付けば何処かで空を見上げている姿に、いつしか少女達を含む誰も近寄れなくなってしまっていた、そんな様子に月子は心配そうに眉を下げた。
「最近元気が無いねぇ。」
彩乃も同じだった。
甘味処に顔を出したとしても滅多に笑顔を見せない。見せても心ここに在らず。
「結、ちゃんと寝てるの?」
大吾も様子がおかしいことには気付いているから、休みを増やそうとしたら「大丈夫」と断られた。
「……やっぱり、働かせ過ぎたか。」
だが、その理由は誰にも分からなかった。

ただ一人、龍之介だけは違って、気付けば目で追っていた。買い出しから戻る姿、庭で洗濯物を畳む姿、神社へ向かう背中。何をする訳でもないけれど、ただ放っておけなかった。


そして……雨の日に、それは起こった。
地面を打つ雨音がやけに大きく聞こえる中、結は買い物帰りの道を一人歩いていた。
手に提げた袋は重くないのに、それなのに足取りは重かった。
胸の奥がずっと苦しい。
それは、夢を見るから。知らない夢ではない。覚えているはずの夢だ。思い返す度に頭が痛む。
家。学校。友達。家族。
全部自分の記憶のはずなのに、少しずつ遠ざかっていく。
「……結」
隣から声がしたが、結は返事をしない。
蛇腹の傘をさしている結とは違い、雨に濡れない天山神はそのまま歩いている。
「最近、様子がおかしいぞ。」
「……。」
「何かがお前を内側から変えようとしている。」
足が止まって、傘に落ちる雨音がやたらと大きく響いた。
「何故お前は抗うんだ?」
ゆっくりと顔を上げると、蛇腹の傘から漏れた雨粒が頬を流れ落ちた。
「……なに。」
「お前はこの世界へ来て不安定になった。」
天山神は更に続ける。
「封じられているものが解放を待っているのだろう。」
「……封じられている?」
小さく吐き出された言葉は天山神に届かない。
「普通の事だろう?」
結はその言葉に眉を寄せた。
「何故受け入れない?何故怯える?何故苦しむ?」
天山神の声音に悪意は無い。本当に分からないのだ。
だから余計に、結の胸を抉った。
「……受け入れるって何。」
「……?そのままの意味だ。」
「私は!!!…………結だよ。」
掠れた声。何かを耐えているような。
「私は変わらない!」
天山神は首を傾げる。
「なら何故苦しむ。」
結の肩が震えた。
通りを歩く人々が不思議そうな顔を向ける。1人の少女が誰も居ない場所へ話し掛けているようにしか見えないからだ。
「怖いんだよ……」
天山神は黙って聞いている。
「忘れて行く事ってーーー怖いんだよ!」
声が震えた。もう止まらない。いいや、止められない。
「帰りたい場所も、家族の顔も、友達の声もっ!」
唇を噛んで、隣の天山神の着物を掴んだ。その拍子に荷物も傘も手元から落ちて、結はずぶ濡れになった。
「……全部。」
胸の奥が痛い。涙なのか雨なのか分からない。
「私は結なのに…………」
その言葉に、天山神の瞳が揺れる。
今、何かが重なった。遠い昔のーーーあれは、誰だ。
「……結」
「……。」
肩で息をする結に触れて、一歩近付いた。
「違う……そうではない。お前は」
「知らない。」
「いいや、知って居るだろうーー」
「知らないよ!」
天山神の言葉を遮ると、はかったように更に雨が強くなり、結は天山神を見上げた。不安げに揺れるその目の色をみた天山神は息を飲む。
「知らないって言ってるでしょ!」
感情が溢れる結は怖かった。苦しかった。寂しかった。
全部、全部。どうしようもなかった。
「私は……結なの!」
叫ぶ声は雨音よりも大きな声だった。天山神の表情が初めて歪む。焦りにも似た何かに、初めて天山神の「違う!」と言う大きな声を聞いた。
「っ!」
「お前は!!」
その声が震えている言葉に気がついた。
「……「うる」だ。なぜ分からない。」
世界が静まり返った。
天山神の悲痛な表情。なぜ、彼がこんな顔をするのか分からないが、その瞬間結の中で何かがブツッと音を立てて切れた。