他人に天山神が見えないと知ったあの日から、結は夢を見るようになった。
最初は何でもない夢だった。
かつて住んでいた日本の家の夢、通っていた学校の夢、なかのいい友達と話している夢、バイトに行っている夢、そんな当たり前の日常、当たり前だった景色。
……なのに。
目が覚める度に思う。
「……あの子、誰だっけ。」
自分でも驚く。夢の中で笑っていた友達の顔が思い出せない。まるで顔にだけ靄がかかっているようだ。教室の窓から見えた景色も、通学路も、曖昧でぼやけている。
まるで、古い絵みたいに思い出そうとすると頭が痛くなった。それでも、夢だけは何度も見る。
母の声。父の笑顔。食べ損ねた誕生日のケーキ。学校帰りの夕暮れ。全部、全部が自分の記憶の筈なのに、何処か遠くて手を伸ばしても届かないそんな気がした。
朝になり、目を覚ます。
「……。」
何も覚えていない。目から流れる涙を拭い、嫌な汗を手拭いで拭う。ただ、ただ胸だけが苦しかった。
最初は気のせいだと思って考えないようにしていた。疲れているだけだと。だが、そんな結に反して夢は繰り返された。
何度も、何度も。
そして、気付けば神社へ足を運ぶ回数が増えていた。ここは、あの日龍之介が教えてくれた場所だ。街を見下ろせる静かな場所。理由は分からない。ただ、少しだけ落ち着くのだ。風が吹いて、夕暮れの街を見下ろす。誰にも聞こえないように呟く。握った短刀。傍には天山神。
「……私。」
何を忘れているのだろう?
何を失くしたのだろう?
何故こんなにも苦しいのだろう?
何も分からない。
本当に、分からなかった。
季節が巡って、夏が過ぎ。
秋が訪れて、気が付けば結が万事屋へ来て半年が経っていた。仕事にも慣れたし、着物も一人で着られる上に街に買い出しも任される。台所仕事だって出来るようになった。
子供達は相変わらず懐いているし、彩乃とは時間が合えば茶屋以外でも遊びに行く程に仲良くなった。
何も問題は無い。本当に、何も。それなのにーー
「……………結。」
名前を呼ばれて顔を上げると、目の前には龍之介がいた。
「聞いてるか。」
「え?」
結は瞬きをした。どうやらぼんやりしていたらしい。
「……ごめん。」
「最近多いな。」
それだけ言って龍之介は、結が持っていく筈だった薪を持ち上げるとスタスタと先に行ってしまった。結も薪を持って慌ててその後を追った。
こういうことが増えていて、気付けば何かを考え込んでいる。気付けばどこか遠くを見ている。気付けばわけも分からない夢のことを思い出そうとしている。
けれど、それら全てが思い出せない。
買い出しへ出掛けた帰りに、結はいつもの神社へ足を運んでいた。
街を見下ろせる静かな場所。秋風が通る。ここは誰も来ない。だから好きだった。
いつもの岩に腰を下ろして膝を抱えると、近くから「また来たのか。」と天山神が言う。
「……ん。だって落ち着くし。」
「理解できないな。賑やかな方なら気が紛れるのでは無いのか?」
結は小さく不器用に笑った。そして、黙る。
「結。」
「ん?」
『最近、妙だぞ。』
天山神は街を見ているが、結は膝に顔を埋めてしまい視界は真っ暗だ。
「……何を考えている」
それに対して、答えられなかった。何を考えているのかなんて、自分でも分からないから。
「……。」
「……結。」
「私。」
思わず口を開き「私ね。」と話すが続きを言おうとする言葉が震えた。
「自分のこと、分からなくなってきちゃった。」
天山神は黙った。遠くで鐘の音が鳴る。そろそろ帰る時間だ。でも、なんだろう……帰りたくない。
「夢を見るのよ。知らない場所に知らない人。なのに懐かしくて。」
声が掠れ、体が震える。
「……でも、思い出せない。」
膝を抱く手に力が入り、漸く結は顔を上げた。その顔は不安げに揺れて、今にも泣きそうだ。
「私、誰なんだろう。」

