悠久の果てで、君と 〜還りし者の涙をぬぐう〜


お腹いっぱいになり、泣き疲れて眠ったなんて、小さい子みたいで気恥しい。掛布団を深く被りながら目覚めた結は火照る頬にそっと触れて「はっずかしっ」と声を出した。その日の午後に先生が来て、「数日もすればよくなる」と言ってくれてから別れ、少し眠って、夕食の前に月子が訪れた。結が起きている事を確認し「あんた」と手招きしてここに入って来たのは、何処かで見た覚えのある大男。
障子が開いた先から入ってきた男を見て、結は思わず肩を揺らす。

ー……お、大きい。

近くで見ると尚更大きい。日に焼けた肌、太い腕、長年身体を使ってきたのだろう厚い胸板。
紺色の法被を羽織り、袖は肘の辺りまで捲られている。腰には手拭いが差してあり、仕事終わりなのだろう肩には薄く土埃が付いていた。黙って立っているだけで迫力がある故、恐る恐る布団を握ったのを見た大男が不思議がるが、「ちょいと。」と月子が呆れたように言った。
「あんたの顔が怖いんだよ。図体がでかいんだから座っておやりよ。」
「……ん?」
大男は目を瞬かせ、結を見た。
「そうか。なんだか新鮮な反応だ。」
ゆっくりとその場へ胡座をかいた。
「怖がらせてすまねぇな。」
にかっと笑ったその笑顔を見て、結の肩から少しだけ力が抜けた。思っていたより怖くはない。むしろ、優しいし、見た目が原因でそういう印象を抱かせているだけで、少し不器用な人なのかもしれない。月子もその隣へ腰を下ろし「ごめんねぇ。」と謝るので、結は慌てて首を振る。
「い、いえ……。」
「よし。」
大男は膝を叩くと、親しみやすい顔で「改めて名乗るか。」と親指で自分を指す。
「俺は、ここの万事屋の主人の大吾。」
次に隣に座る月子を指した。
「既に聞いてると思うが、こいつは月子。俺のかみさんだ。」
「こいつとは何だい。」
月子が呆れたように笑うそのやり取りに、結も少しだけ頬を緩めた。二人の視線が自分へ向いたのを見て、ハッとする。
「あ……、結です。」
大吾は静かに頷いた。
「名乗ってくれてありがとう、結。」
野太くて低い声。けれど不思議と優しい。
「……良い名だ。」
結は少しだけ目を見開いた。名前を褒められたのは久しぶりだ。なんだかくすぐったい。
その結の姿に優しい顔をした大吾は腕を組むと、少しだけ雰囲気を変え、真面目な顔になった。
「結。」
「はい。」
大吾に名前を呼ばれると背筋が伸びる感じがする。
「お前さん、帰るところはあるか?」
その瞬間、結の身体が固まった。二人はその反応を見逃さない。

ー……帰るところ。

それを聞かれたら「ある」とすぐに答えられる。
だって「あちら」には父がいて、母がいて、自分の部屋があるけれど、そこへ帰る方法が分からない。
異界のことも、この場所のことも、結は何も分からなかった。
「……。」
唇を噛んで、説明しようとしても言葉にならない事にやがて結は「分からない……です。」とだけ答える。
大吾と月子は黙って聞いていた。急かさないし、責めない。ただ待っている。
「帰りたい場所は、あります。」
ぽつりぽつりと続ける結はジクジクと心が痛くなって行く事に気がついた。
「でも、帰り方が分からないんです。」
言葉にしたからこそ自覚してしまった。「帰れない」事に。しばらくの沈黙。二人は顔を見合せ、やがて大吾は小さく「そうか。」と頷く。それだけだった。
それだけ言うと、大吾は当たり前のように続ける。
「なら、今日から。ここがお前の帰る場所だ。」
結は伏せていた目を上げて言葉を失った。いいや、意味が分からなかった。違う。言葉の意味は分かるけれど、どうしてそんな事が言えるのかが分からなかった。だって、何処の誰とも知れない。そんな自分にーーーー
「ただいまとおかえりが言えりゃ、そこは家になる。」
障子の外の廊下では誰かがクスクスと笑っていた。

ーさすが親父だぜ。
ーあの子もここの子供になるの?
ーなら、私おねえちゃんになるのかな!
ーいや、年齢的には妹だろ?
ーやさしい人だといいね。
ー名前はなんて言ったんだ?
ーゆい、って聞こえたよ。

部屋に温かな夕陽の色がさした。
何処かで犬が鳴いている。人が生きる音がする。
「帰る場所が見つかるまででいい。ここに居な。」
その瞬間、視界が滲む。
「あ……。」
慌てて目を擦るけれど、涙は止まらなかった。
異界での恐怖も、不安も、心細さも。
全部が一気に溢れ出す。結はとめどない涙を懸命に拭う。声を殺そうとするが、無理だった。
ぽろぽろと涙が零れる。月子は何も言わずに、そっと結の頭へ手を置く。それは、とても温かな手だった。
「泣けるうちは泣いときな。」
ゆっくりと髪を撫でる手が温かくて……更に溢れた。
「それが、今のあんたに一番必要なんだろうからね。」