巨大な迷鬼が腕を振り上げるのをただ見上げる事しか出来ない結の身体は動かない。
逃げなければ。
そう思うのに、恐怖で指一本動かせなかった。
『結!』
天山神の声が響く。だが、次の瞬間結の視界が暗転した。
「……っ。」
荒い息が漏れる中、結はゆっくりと目を開き、盛大にむせた。肺に酸素が勢いよく入ってきた様な感覚。
ズキズキと頭が重くて、視界が霞む。身体のあちこちが痛み、重苦しい。
何が起きたのか分からない。
少しずつクリアになっていく視界と何かの影が見えて迷鬼かと後ずさりするが
「……え。」
目の前に広がる光景に息を呑む。
そこにいた…いいや、あるのは迷鬼。
迷鬼。迷鬼。迷鬼。迷鬼。迷鬼。無数の迷鬼が地面へ倒れていた。黒い靄となり、今にも消えそうになっているそこは、まるで山だった。
「なっ」
声が震えて言葉にならない。
覚えていないその間、何が起こった?
頭を巡らせ思い出す。巨大な迷鬼を見た。
そこまでは覚えているのに、その後が無い。
「私……。」
ふらりと身体が揺れて、かちゃりと、小さな音が鳴った。結は視線を落とすと、握られていた短刀はいつの間にか鞘へ納められていた。
「……あ、れ?」
抜いたはずだった。確かに、抜いた。
なのに、何故?理解できない。何かしらのことが起こったのかもしれないが、その何かが分からない。そして、見えた視界の端に人影がある事に気付く。いつの間に現れたのか、立っていたのは天山神だった。
「天山神ーーー」
返事は無い。ただ、結を見ている。いや違う。
天山神は結の向こう側を見ているような、そんな目だった。含まれているのは驚愕、困惑、信じられないものを見るような表情は初めて見る顔だった。
「……天山神?」
もう一度結が呼ぶが、それでも返事はなく、やがてその唇が僅かに動いた。
「……うる?」
小さな声はあまりにも小さくて風に溶けて消えてしまいそうなほど。「え?」結には意味が分からないが、天山神だけは見ていた。ほんの一瞬、結ではなかったことを。結が何かを言おうとした時、ガクンと足元から力が抜けた。天山神はそれを支える事もせず迷鬼の亡骸の近くで倒れ込んだ結が最後に見たのは、こちらを見下ろす天山神だった。
意識を失い倒れた結の元へ近寄る天山神は、しゃがんでその顔を見てから「お前は誰だ」と声を絞るとほぼ同時に結の体が淡い光に包まれた。
天山神はそっと鳥居を見上げる。
世界が揺れ、森が軋み、鳥居が鳴いた。
異界が少女を拒み始めている。だって、異界は迷鬼の居場所だ。未練を抱き、己を見失い、何処にも辿り着けなくなった者達の世界。
だから……自己を持つ者は長く留まれない。
少しずつ、少しずつその輪郭が薄れていく。天山神は最後まで動かなかった。ただ、倒れた少女を見つめるだけ。
ー……冷たい。
そんな感覚だけがある。身体が上下左右に揺れているので、流されているという事は分かる。意識は何度も浮かんでは沈み、夢と現実の境界を漂っていた。
ざぁ。水の流れる音が響き渡る自然豊かな場所。
夕暮れに差し掛かる茜色の空が川面へ映り込み、ゆらゆらと揺れている遠くでは鳥がピィ、ピィイと鳴いていた。風が吹けば草が揺れ、心地のいい音の中に人の声が響いている。何処にでもある、ありふれた景色だった。
異界のような紫の空も、歪んだ鳥居も、迷鬼の気配もない。ただ…人が生きる世界がそこにあった。
ここは、現世。人々が笑い、泣き、生きていく世界。本来いるはずの場所。
「ん?」
河原を歩いていた男が足を止めると、川面に何かが浮いていた事に気が付いた。流木、では無い。あれは…人だ!
「……おい!」
男は慌てて駆け出し、水の中へ迷わず入っていく。その様子に周りにいた人が「どうした!」と声を掛ける間も男が足を止める事はない。
ザバッと少女を抱き上げた男は大柄だった。大きさは天山神と並ぶ位か、それを超える長身。日に焼けた肌と太い腕は、長年身体を使う仕事をしてきたのだろう。無駄のない筋肉が服の上からでも分かる。短く切り揃えられた黒髪には僅かに白いものが混じり始めていた。鋭い目付きは、黙っていれば近寄り難いけれど、少女を抱える手付きだけは驚くほど丁寧だった。
「おい、あんた!大丈夫か!?」
男が川岸まで少女を運び、仲間達が引っ張ってきた御座に寝かしてやる。水を飲んだ風には見えない。呼吸音は正常だ。眉間に皺を寄せながらずっと声を掛けながら少女の肩を軽く揺する。返事はない。だが……その時微かに瞼が震えた事で男は更に大きな声を出した。
「しっかりしろ!」
「………………ん、」
ゆっくりと目が開き、男の仲間が「先生を連れてこい!」と他の仲間に伝えに行く。
焦点の合わない瞳が目の前の景色を朧気に映し、そして、ほんの一瞬だけその瞳は深い青色を宿していた。まるで夜明け前の空のような、水面に浮かぶ光のような、澄み切った青に男は思わず息を呑む。
「……!」
だが、次の瞬間にその青は消えてしまい、瞳は何処にでもある黒色へと戻ると、そのまま閉じられてしまい、男は小さく眉を寄せた。
仲間が呼んだ「先生」が慌てて近寄ってくる間、男は少女を見る。見た事がないボロボロの服に刻まれた幾つもの引っ掻き痕。この傷跡はまるで獣か何かにやられた様な物。何より、この見た目に反する様に手放さないと握られた短刀は正直「似合わない」と思った。
この白くて綺麗な手は剣術をやっている様には思えなかったからだ。ましてや畑仕事もしてい無さそうな……
「大吾(だいご)、患者はどこだ?!」
考えていた時に聞こえた聞き馴染みのある声に思考を止めた。
「おう!こっちだ、先生!」
髪の毛をひとつに纏めただけの初老の男を手招きし、テキパキと処置するのを、邪魔する事無く少し後ろでそれを眺めた。
男ーー大吾はガシガシと頭を掻きながら、小さく息を吐居て、腰に手をあてた。
「さぁて、どうすっかねぇ」

