***
ふっと瞼を開けると、見たことのない天井だった。
古い木目の天井。
薄く開いた障子の向こうから、やわらかな光が差し込んでいる。
広い和室に敷かれた布団は驚くほどやわらかく、掛け布は肌に触れるたび、さらりとなめらかだった。
ここは……!?
半身を起こした瞬間、自分の服が変わっていることに気づいた。
濡れていたはずの制服ではない。
白い寝間着のような布が体を包み、袖口には小さな桜の刺繍が入っている。
誰が、着替えさせてくれたんだろう。
そう思った瞬間、頭の奥に断片的な記憶がよぎる。
深い水の中。
月光と花びらの中を、紅い瞳の男がしずかに舞い降りてきて――。
にゃあん。
小さな鳴き声がした。
音の方へ視線を向けると、部屋の隅に白猫がちょこんと座っていた。
艶やかな白い毛並み。尾と耳の先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいる。
……夢で見た、あの猫。
「目が覚めた?」
障子が、ゆっくりと開いた。
すらりとした長身。白い肌に、涼やかな目元。
白に近い銀の髪はやわらかく、毛先だけが桃色だ。
整いすぎた顔立ちは、どこか現実味がない。
けれど、こちらを見つめる紅い瞳だけは、不思議な熱を帯びていた。
「傷も浅そうでよかった」
言われて、腕に視線を落とす。
手首や肘に、白い布が巻かれていた。
川に流されたときの傷を、手当てしてくれたらしい。
「あの……あなたは」
「俺は、桜小路緋桜。この屋敷の当主だ」
「ひ、緋桜さま!?」
思わず声が裏返った。
この町の人たちが信じている、久遠桜の神様と同じ名前。
いや――きっと、桜の神と同じ名を持つという、桜小路家の当主の方だろう。
久遠桜を管理してきた桜小路家は、町でいちばん古い家だ。
病院も、スーパーも、ホテルも、看板はぜんぶ桜小路グループの名前。
その当主が、どうしてわたしの前にいるのだろう。
「あの、京介は。一緒にいた男の子は、無事ですか」
「大丈夫。岸まで引き上げられて、いまは町の病院にいる。命に別状はない」
ふっと、肩から力が抜けた。
「ありがとう、ございます。緋桜さまが、助けてくれたんですよね。わたしのことも」
頭を下げると、緋桜さまは少し困ったように笑った。
「そんなに畏まらないで。俺のことは、緋桜でいい」
それから、当たり前のように続ける。
「君は、朱里だね」
なぜ、わたしの名前を知っているのだろう。
「失礼を承知で伺いますが。わたしたち、どこかでお会いしたことがありましたか。その……正直、記憶になくて」
訊いた瞬間、緋桜さんはほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
「ううん」
短く答えてから、言葉を選ぶようにわたしを見る。
「君の名前を知っているのは……ずっと、探していたからだよ」
「わたしを……?」
探していた。
その言葉が、なぜか、すっと胸に落ちてこなかった。
誰かに探されるような人間だと、思ったことがなかったから。
――きっと、何かの間違いだ。
そのとき、足元から楽しげな声が響いた。
「まったく……緋桜、あんたって本当に言葉が足りないのよ。見てごらんなさい、彼女のあのお顔。ぽかんとして、まるで間抜けじゃない!」
「こら。彼女に失礼な物言いは、俺が許さないよ」
……は?
恐る恐る、声の方を見る。
座布団の脇で香箱を組んでいたのは、あの白猫だった。
「あの、すみません。いったん整理させてください。混乱しすぎて、いま、猫が喋ったように聞こえたんですけど――」
「ああ。やっぱり、柏の声が聞こえるんだね」
緋桜さんは、どこか満足そうに目を細めた。
「順を追って話そうか」
***
緋桜さんが話してくれたことは、にわかには信じがたいものだった。
いまは桜小路家の当主として人の姿を取っているけれど、本来は久遠桜に宿る神であること。
屋敷で働くのは式神で、わたしの着替えも彼女たちがしてくれたこと。
「神様って、本当に……いるんですね」
うまく声にならなかった。
半分も、呑み込めていない。
「令和のいまは、信仰が薄れてね。昔ほど力は強くないんだ」
緋桜が、足元の白猫に視線を落とした。
「この子は柏。俺の眷属だ」
「よろしくね、朱里ちゃん」
白猫が、人の言葉で優雅に挨拶した。
や……やっぱり喋った!?
「柏の声が聞こえるのは、君に巫女の血が流れているからだ。君は久遠桜に仕える、千歳本家の巫女の血を引いている」
巫女の血。そう言われても、自分の体の話だという実感がまるでわかない。
「いきなり、神とか、巫女とか言われても……」
「そうだよね。じゃあまず、信じてもらうところから始めようか」
ふっと瞼を開けると、見たことのない天井だった。
古い木目の天井。
薄く開いた障子の向こうから、やわらかな光が差し込んでいる。
広い和室に敷かれた布団は驚くほどやわらかく、掛け布は肌に触れるたび、さらりとなめらかだった。
ここは……!?
半身を起こした瞬間、自分の服が変わっていることに気づいた。
濡れていたはずの制服ではない。
白い寝間着のような布が体を包み、袖口には小さな桜の刺繍が入っている。
誰が、着替えさせてくれたんだろう。
そう思った瞬間、頭の奥に断片的な記憶がよぎる。
深い水の中。
月光と花びらの中を、紅い瞳の男がしずかに舞い降りてきて――。
にゃあん。
小さな鳴き声がした。
音の方へ視線を向けると、部屋の隅に白猫がちょこんと座っていた。
艶やかな白い毛並み。尾と耳の先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいる。
……夢で見た、あの猫。
「目が覚めた?」
障子が、ゆっくりと開いた。
すらりとした長身。白い肌に、涼やかな目元。
白に近い銀の髪はやわらかく、毛先だけが桃色だ。
整いすぎた顔立ちは、どこか現実味がない。
けれど、こちらを見つめる紅い瞳だけは、不思議な熱を帯びていた。
「傷も浅そうでよかった」
言われて、腕に視線を落とす。
手首や肘に、白い布が巻かれていた。
川に流されたときの傷を、手当てしてくれたらしい。
「あの……あなたは」
「俺は、桜小路緋桜。この屋敷の当主だ」
「ひ、緋桜さま!?」
思わず声が裏返った。
この町の人たちが信じている、久遠桜の神様と同じ名前。
いや――きっと、桜の神と同じ名を持つという、桜小路家の当主の方だろう。
久遠桜を管理してきた桜小路家は、町でいちばん古い家だ。
病院も、スーパーも、ホテルも、看板はぜんぶ桜小路グループの名前。
その当主が、どうしてわたしの前にいるのだろう。
「あの、京介は。一緒にいた男の子は、無事ですか」
「大丈夫。岸まで引き上げられて、いまは町の病院にいる。命に別状はない」
ふっと、肩から力が抜けた。
「ありがとう、ございます。緋桜さまが、助けてくれたんですよね。わたしのことも」
頭を下げると、緋桜さまは少し困ったように笑った。
「そんなに畏まらないで。俺のことは、緋桜でいい」
それから、当たり前のように続ける。
「君は、朱里だね」
なぜ、わたしの名前を知っているのだろう。
「失礼を承知で伺いますが。わたしたち、どこかでお会いしたことがありましたか。その……正直、記憶になくて」
訊いた瞬間、緋桜さんはほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
「ううん」
短く答えてから、言葉を選ぶようにわたしを見る。
「君の名前を知っているのは……ずっと、探していたからだよ」
「わたしを……?」
探していた。
その言葉が、なぜか、すっと胸に落ちてこなかった。
誰かに探されるような人間だと、思ったことがなかったから。
――きっと、何かの間違いだ。
そのとき、足元から楽しげな声が響いた。
「まったく……緋桜、あんたって本当に言葉が足りないのよ。見てごらんなさい、彼女のあのお顔。ぽかんとして、まるで間抜けじゃない!」
「こら。彼女に失礼な物言いは、俺が許さないよ」
……は?
恐る恐る、声の方を見る。
座布団の脇で香箱を組んでいたのは、あの白猫だった。
「あの、すみません。いったん整理させてください。混乱しすぎて、いま、猫が喋ったように聞こえたんですけど――」
「ああ。やっぱり、柏の声が聞こえるんだね」
緋桜さんは、どこか満足そうに目を細めた。
「順を追って話そうか」
***
緋桜さんが話してくれたことは、にわかには信じがたいものだった。
いまは桜小路家の当主として人の姿を取っているけれど、本来は久遠桜に宿る神であること。
屋敷で働くのは式神で、わたしの着替えも彼女たちがしてくれたこと。
「神様って、本当に……いるんですね」
うまく声にならなかった。
半分も、呑み込めていない。
「令和のいまは、信仰が薄れてね。昔ほど力は強くないんだ」
緋桜が、足元の白猫に視線を落とした。
「この子は柏。俺の眷属だ」
「よろしくね、朱里ちゃん」
白猫が、人の言葉で優雅に挨拶した。
や……やっぱり喋った!?
「柏の声が聞こえるのは、君に巫女の血が流れているからだ。君は久遠桜に仕える、千歳本家の巫女の血を引いている」
巫女の血。そう言われても、自分の体の話だという実感がまるでわかない。
「いきなり、神とか、巫女とか言われても……」
「そうだよね。じゃあまず、信じてもらうところから始めようか」


