千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 ***

 ふっと瞼を開けると、見たことのない天井だった。

 古い木目の天井。
 薄く開いた障子の向こうから、やわらかな光が差し込んでいる。
 広い和室に敷かれた布団は驚くほどやわらかく、掛け布は肌に触れるたび、さらりとなめらかだった。

 ここは……!?

 半身を起こした瞬間、自分の服が変わっていることに気づいた。
 濡れていたはずの制服ではない。
 白い寝間着のような布が体を包み、袖口には小さな桜の刺繍が入っている。

 誰が、着替えさせてくれたんだろう。
 そう思った瞬間、頭の奥に断片的な記憶がよぎる。

 深い水の中。
 月光と花びらの中を、紅い瞳の男がしずかに舞い降りてきて――。

 にゃあん。

 小さな鳴き声がした。
 音の方へ視線を向けると、部屋の隅に白猫がちょこんと座っていた。

 艶やかな白い毛並み。尾と耳の先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいる。

 ……夢で見た、あの猫。

 「目が覚めた?」

 障子が、ゆっくりと開いた。
 すらりとした長身。白い肌に、涼やかな目元。
 白に近い銀の髪はやわらかく、毛先だけが桃色だ。

 整いすぎた顔立ちは、どこか現実味がない。
 けれど、こちらを見つめる紅い瞳だけは、不思議な熱を帯びていた。

 「傷も浅そうでよかった」

 言われて、腕に視線を落とす。
 手首や肘に、白い布が巻かれていた。
 川に流されたときの傷を、手当てしてくれたらしい。

 「あの……あなたは」
 「俺は、桜小路緋桜。この屋敷の当主だ」
 「ひ、緋桜さま!?」

 思わず声が裏返った。
 この町の人たちが信じている、久遠桜の神様と同じ名前。
 いや――きっと、桜の神と同じ名を持つという、桜小路家の当主の方だろう。

 久遠桜を管理してきた桜小路家は、町でいちばん古い家だ。
 病院も、スーパーも、ホテルも、看板はぜんぶ桜小路グループの名前。
 その当主が、どうしてわたしの前にいるのだろう。

 「あの、京介は。一緒にいた男の子は、無事ですか」
 「大丈夫。岸まで引き上げられて、いまは町の病院にいる。命に別状はない」

 ふっと、肩から力が抜けた。

 「ありがとう、ございます。緋桜さまが、助けてくれたんですよね。わたしのことも」

 頭を下げると、緋桜さまは少し困ったように笑った。

 「そんなに畏まらないで。俺のことは、緋桜でいい」

 それから、当たり前のように続ける。

 「君は、朱里だね」

 なぜ、わたしの名前を知っているのだろう。

 「失礼を承知で伺いますが。わたしたち、どこかでお会いしたことがありましたか。その……正直、記憶になくて」

 訊いた瞬間、緋桜さんはほんの少しだけ寂しそうな顔をした。

 「ううん」

 短く答えてから、言葉を選ぶようにわたしを見る。

 「君の名前を知っているのは……ずっと、探していたからだよ」
 「わたしを……?」

 探していた。
 その言葉が、なぜか、すっと胸に落ちてこなかった。
 誰かに探されるような人間だと、思ったことがなかったから。

 ――きっと、何かの間違いだ。

 そのとき、足元から楽しげな声が響いた。

 「まったく……緋桜、あんたって本当に言葉が足りないのよ。見てごらんなさい、彼女のあのお顔。ぽかんとして、まるで間抜けじゃない!」
 「こら。彼女に失礼な物言いは、俺が許さないよ」

 ……は?
 恐る恐る、声の方を見る。
 座布団の脇で香箱を組んでいたのは、あの白猫だった。

 「あの、すみません。いったん整理させてください。混乱しすぎて、いま、猫が喋ったように聞こえたんですけど――」
 「ああ。やっぱり、柏の声が聞こえるんだね」

 緋桜さんは、どこか満足そうに目を細めた。

 「順を追って話そうか」

  ***

 緋桜さんが話してくれたことは、にわかには信じがたいものだった。
 いまは桜小路家の当主として人の姿を取っているけれど、本来は久遠桜に宿る神であること。
 屋敷で働くのは式神で、わたしの着替えも彼女たちがしてくれたこと。

 「神様って、本当に……いるんですね」
 うまく声にならなかった。
 半分も、呑み込めていない。

 「令和のいまは、信仰が薄れてね。昔ほど力は強くないんだ」

 緋桜が、足元の白猫に視線を落とした。

 「この子は柏。俺の眷属だ」
 「よろしくね、朱里ちゃん」

 白猫が、人の言葉で優雅に挨拶した。
 や……やっぱり喋った!?

 「柏の声が聞こえるのは、君に巫女の血が流れているからだ。君は久遠桜に仕える、千歳本家の巫女の血を引いている」

 巫女の血。そう言われても、自分の体の話だという実感がまるでわかない。

 「いきなり、神とか、巫女とか言われても……」
 「そうだよね。じゃあまず、信じてもらうところから始めようか」