***
ライトアップの光が届かなくなると、道は急に暗くなった。
雨は、いつのまにか本降りになっている。
濡れた制服の裾を握りしめて走る。
なにごともなければいい。
ふたりに会って、財布を渡して。無事を確かめて、家に帰るだけ。
町外れの森の小道を駆け上がると、道はぷつりと途切れていた。
錆びた看板には、「立入禁止」の文字。
森の奥には、増水した川を渡る古い木橋があった。
雨に濡れた欄干は黒ずみ、足元の板は今にも抜けそうだ。
橋の下を流れる水には、久遠桜の淡い桃色の光が溶け、雨粒にほどけるように揺れていた。
ここだ。昔、おばあちゃんが「秘密の場所」と呼んだ、町でいちばん久遠桜が綺麗に見える場所。
「もうちょっと、こっち寄って! 久遠桜が見切れちゃう!」
声が、周囲に反響した。
目を凝らすと、橋の真ん中で雛乃が京介を欄干に寄りかからせていた。京介は雨の中でスマホを構えている。
「この橋、結構古そうだろ。あんまりはしゃぐなって」
「いいから、撮って撮って!」
声を上げようとした、その瞬間。ぎしっ、と古い木の欄干が軋んだ。
「京介——!」
雛乃が悲鳴を上げる。
ばきっ、と音を立てて、欄干が折れた。
京介の体が、隙間から外へ滑り落ちる。
ばしゃん、と川に落ちる音。
雛乃の悲鳴が響く。しかし助ける勇気はないらしく、両手で口を押さえて動けないでいる。
考える前に、体が動いていた。わたしは橋の上へ駆け上がり、欄干を蹴って川に飛び込む。
「朱里——!?」
雛乃の声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
冷たい水が全身を呑みこむ。流れは思っていたよりずっと速い。
水の中で目を開けると、京介の制服の白がすぐそこで揺れていた。
必死に水を掻いて、その腕を掴む。京介はぐったりと意識を失っている。
ありったけの力で、岸のほうへ押した。
流れの淀みに乗って、京介の体が岸へ近づいていく。
水を吐きながら、叫ぶ。
「京介を——!」
そこまで言うのが、精いっぱいだった。
岸辺で、雛乃がはっとしたように動いた。岸の方へ動き、流れついた京介の腕を両手で引き上げている。
——よかった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。足をすくわれ、体が流れに呑まれる。
息ができない。
遠ざかっていく岸辺で、雛乃が泣きそうな顔をして、動かない京介のそばに膝をついている。
……ああ。
ちゃんと京介は、助かったんだ。
ほっとした途端、体力が尽きて、わたしの体はどんどん流されていく。伸ばした指先は、もう何にも届かない。
わたしは、ここで、独りで死ぬのかな。
ふと、夢のなかの女の子を思い出した。
胸を刺されて、桜の根元に倒れた、知らない女の子。
あの子も、最後に同じことを思ったのかな。
——独りで死ぬのは、嫌だ、って。
視界が暗くなっていく。
その時——。
雨雲が裂けたように、水の中に月の光が差し込んだ。
その柔らかな光に誘われるように、桜の花びらが川の中へ降りそそぐ。
「……り。……かり」
誰かが、私の名前を読んでいる。
花びらと月光と。美しくゆらめく水の中で、紅い瞳の男がわたしの方へぐっと手を伸ばす。
「朱里」
わたしの体は、ふわりと抱き上げられた。
「——迎えに来たよ」
ライトアップの光が届かなくなると、道は急に暗くなった。
雨は、いつのまにか本降りになっている。
濡れた制服の裾を握りしめて走る。
なにごともなければいい。
ふたりに会って、財布を渡して。無事を確かめて、家に帰るだけ。
町外れの森の小道を駆け上がると、道はぷつりと途切れていた。
錆びた看板には、「立入禁止」の文字。
森の奥には、増水した川を渡る古い木橋があった。
雨に濡れた欄干は黒ずみ、足元の板は今にも抜けそうだ。
橋の下を流れる水には、久遠桜の淡い桃色の光が溶け、雨粒にほどけるように揺れていた。
ここだ。昔、おばあちゃんが「秘密の場所」と呼んだ、町でいちばん久遠桜が綺麗に見える場所。
「もうちょっと、こっち寄って! 久遠桜が見切れちゃう!」
声が、周囲に反響した。
目を凝らすと、橋の真ん中で雛乃が京介を欄干に寄りかからせていた。京介は雨の中でスマホを構えている。
「この橋、結構古そうだろ。あんまりはしゃぐなって」
「いいから、撮って撮って!」
声を上げようとした、その瞬間。ぎしっ、と古い木の欄干が軋んだ。
「京介——!」
雛乃が悲鳴を上げる。
ばきっ、と音を立てて、欄干が折れた。
京介の体が、隙間から外へ滑り落ちる。
ばしゃん、と川に落ちる音。
雛乃の悲鳴が響く。しかし助ける勇気はないらしく、両手で口を押さえて動けないでいる。
考える前に、体が動いていた。わたしは橋の上へ駆け上がり、欄干を蹴って川に飛び込む。
「朱里——!?」
雛乃の声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
冷たい水が全身を呑みこむ。流れは思っていたよりずっと速い。
水の中で目を開けると、京介の制服の白がすぐそこで揺れていた。
必死に水を掻いて、その腕を掴む。京介はぐったりと意識を失っている。
ありったけの力で、岸のほうへ押した。
流れの淀みに乗って、京介の体が岸へ近づいていく。
水を吐きながら、叫ぶ。
「京介を——!」
そこまで言うのが、精いっぱいだった。
岸辺で、雛乃がはっとしたように動いた。岸の方へ動き、流れついた京介の腕を両手で引き上げている。
——よかった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。足をすくわれ、体が流れに呑まれる。
息ができない。
遠ざかっていく岸辺で、雛乃が泣きそうな顔をして、動かない京介のそばに膝をついている。
……ああ。
ちゃんと京介は、助かったんだ。
ほっとした途端、体力が尽きて、わたしの体はどんどん流されていく。伸ばした指先は、もう何にも届かない。
わたしは、ここで、独りで死ぬのかな。
ふと、夢のなかの女の子を思い出した。
胸を刺されて、桜の根元に倒れた、知らない女の子。
あの子も、最後に同じことを思ったのかな。
——独りで死ぬのは、嫌だ、って。
視界が暗くなっていく。
その時——。
雨雲が裂けたように、水の中に月の光が差し込んだ。
その柔らかな光に誘われるように、桜の花びらが川の中へ降りそそぐ。
「……り。……かり」
誰かが、私の名前を読んでいる。
花びらと月光と。美しくゆらめく水の中で、紅い瞳の男がわたしの方へぐっと手を伸ばす。
「朱里」
わたしの体は、ふわりと抱き上げられた。
「——迎えに来たよ」


