千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜


 「いつか、外の世界を見てみたい」
 それが、鳥籠の中で生きるわたしの、たったひとつの夢だった。
 戦乱の世、初音(はつね)は京の外れの小さな里で生まれた。

 里の中央には、決して花を散らさない桜が咲いている。
 人はそれを、久遠桜と呼んだ。
 初音は、その久遠桜に人々の願いを捧げる巫女だった。

 巫女の血筋を持つ者として、人々に蝶よ花よと崇められ、真綿に包まれるように育てられた。

 「巫女さま。どうかうちの子の熱が下がりますように」
 「夫が戦から無事に帰ってきますように」
 「今年こそ稲が実りますように」

 奥座敷の前には、願いを抱えた里の人々が並ぶ。
 わたしはひとつずつ祈りを受け取り、静かに頭を下げた。

 「久遠桜さまにお伝えいたします」

 戦乱の世にあって、この里は戦の手が届かぬ数少ない場所だった。
 わたしは代々続く巫女として、その桜に人々の願いを届けるためだけに生きていた。
 誰もが「巫女さま」と頭を下げる。

 けれど、わたしの名前を呼ぶ人は、ひとりもいなかった。
 わたしは、里の誰にとっても大切な「巫女さま」で。
 わたしという娘そのものを見てくれる人は、どこにもいなかった。

 ある満月の夜。
 祝詞を上げ終えたわたしの足元で、小さな気配が動いた。

 「どこから来たの?」

 しゃがみこみ、小さな白猫を撫でる。
 白い毛並みの先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいた。

 眷属の証だ。
 つまり近くには――。

 「その子は、滅多に人になつかないんだけど」

 神様が、いる。
 声に顔を上げると、桜の枝に紅い瞳の男が座っていた。

 淡い髪と鮮やかな瞳を見た瞬間、この方は人ではないのだと分かった。

 「緋桜さま……ですか」
 「よく分かったね」
 「気配が、他の方々とはまるで違いますから」

 緋桜さまは楽しそうに目を細め、枝から音もなく降り立つ。

 「新しい巫女か。名は何と」
 「……初音と申します」
 「ここまで俺をはっきり見える巫女は珍しい。大概は声か気配くらいのものなのに」

 緋桜さまは、確かめるようにわたしの名を呼んだ。

 「よろしく頼む、初音」

 名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が小さく震えた。
 わたしは慌てて桜の根元に正座し、里から預かった願いを唱える。

 「熱を出した子にどうか平癒を。戦の夫にどうか無事を。今年の稲にどうか実りを」

 緋桜さまは静かに頷いた。

 「わかった。しかと聞き届けたよ」

 そのとき、丸まっていた白猫の背に、桜の葉がふわりと落ちた。

 「大きな柏餅、みたい」

 思わずこぼれた言葉に、緋桜さまがぴたりと止まる。

 「あ、いえ! この子が、葉で包んだお餅のように見えてしまって」

 次の瞬間、緋桜さまがぷっと吹き出した。

 「気に入った。なら、この子の名は柏だ」
 「えっ……」
 「君がつけたんだよ。想像力が豊かなんだね、初音は」

 白猫は不服そうに尻尾で地面を叩いたけれど、嫌がっている様子はなかった。

 「外の世界を、見てみたいと思う?」
 「……はい」

 それは、口にしてはいけないはずの願いだった。
 けれど緋桜さまは、わたしの手を取って、夜空へ連れ出してくれた。
 眼下に広がる、知らない町の灯り。

 甘い菓子を売る店、にぎわう芝居小屋があるのだと、緋桜さまは指さして教えてくれる。
 格子戸ひとつぶんしかなかったわたしの世界が、その夜、どこまでも広がった。

 「世界は、こんなにも広いんですね」

 うれしくて、胸がいっぱいで。
 笑っているはずなのに、涙が次々と溢れてくる。

 「どうして泣く」
 「……名前を、呼んでもらえたから、でしょうか」

 自分でも、思っていた以上に小さな声だった。

 「わたしを、ただの巫女ではなく。初音として見てもらえたから」
 「初音」

 その声は、さっきよりずっとやわらかかった。
 「君がどこに閉じ込められても、自分が誰なのか分からなくなっても。俺が何度でも迎えに行って――」
 風が吹き、桜の花が一斉に舞い上がる。

 「君の名前を呼ぶよ」

 月光と桜吹雪の中の笑顔があまりに美しくて、わたしは声を失った。
 やがて緋桜さまは、わたしを久遠桜の根元へそっと降ろした。

 夢のような時間が、終わろうとしている。
 名残惜しくて、袖を握りしめる。

 「また、会えますか?」

 枝の上へ戻った緋桜さまが、ふっと笑った。

 「ああ。必ず」