「いつか、外の世界を見てみたい」
それが、鳥籠の中で生きるわたしの、たったひとつの夢だった。
戦乱の世、初音は京の外れの小さな里で生まれた。
里の中央には、決して花を散らさない桜が咲いている。
人はそれを、久遠桜と呼んだ。
初音は、その久遠桜に人々の願いを捧げる巫女だった。
巫女の血筋を持つ者として、人々に蝶よ花よと崇められ、真綿に包まれるように育てられた。
「巫女さま。どうかうちの子の熱が下がりますように」
「夫が戦から無事に帰ってきますように」
「今年こそ稲が実りますように」
奥座敷の前には、願いを抱えた里の人々が並ぶ。
わたしはひとつずつ祈りを受け取り、静かに頭を下げた。
「久遠桜さまにお伝えいたします」
戦乱の世にあって、この里は戦の手が届かぬ数少ない場所だった。
わたしは代々続く巫女として、その桜に人々の願いを届けるためだけに生きていた。
誰もが「巫女さま」と頭を下げる。
けれど、わたしの名前を呼ぶ人は、ひとりもいなかった。
わたしは、里の誰にとっても大切な「巫女さま」で。
わたしという娘そのものを見てくれる人は、どこにもいなかった。
ある満月の夜。
祝詞を上げ終えたわたしの足元で、小さな気配が動いた。
「どこから来たの?」
しゃがみこみ、小さな白猫を撫でる。
白い毛並みの先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいた。
眷属の証だ。
つまり近くには――。
「その子は、滅多に人になつかないんだけど」
神様が、いる。
声に顔を上げると、桜の枝に紅い瞳の男が座っていた。
淡い髪と鮮やかな瞳を見た瞬間、この方は人ではないのだと分かった。
「緋桜さま……ですか」
「よく分かったね」
「気配が、他の方々とはまるで違いますから」
緋桜さまは楽しそうに目を細め、枝から音もなく降り立つ。
「新しい巫女か。名は何と」
「……初音と申します」
「ここまで俺をはっきり見える巫女は珍しい。大概は声か気配くらいのものなのに」
緋桜さまは、確かめるようにわたしの名を呼んだ。
「よろしく頼む、初音」
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が小さく震えた。
わたしは慌てて桜の根元に正座し、里から預かった願いを唱える。
「熱を出した子にどうか平癒を。戦の夫にどうか無事を。今年の稲にどうか実りを」
緋桜さまは静かに頷いた。
「わかった。しかと聞き届けたよ」
そのとき、丸まっていた白猫の背に、桜の葉がふわりと落ちた。
「大きな柏餅、みたい」
思わずこぼれた言葉に、緋桜さまがぴたりと止まる。
「あ、いえ! この子が、葉で包んだお餅のように見えてしまって」
次の瞬間、緋桜さまがぷっと吹き出した。
「気に入った。なら、この子の名は柏だ」
「えっ……」
「君がつけたんだよ。想像力が豊かなんだね、初音は」
白猫は不服そうに尻尾で地面を叩いたけれど、嫌がっている様子はなかった。
「外の世界を、見てみたいと思う?」
「……はい」
それは、口にしてはいけないはずの願いだった。
けれど緋桜さまは、わたしの手を取って、夜空へ連れ出してくれた。
眼下に広がる、知らない町の灯り。
甘い菓子を売る店、にぎわう芝居小屋があるのだと、緋桜さまは指さして教えてくれる。
格子戸ひとつぶんしかなかったわたしの世界が、その夜、どこまでも広がった。
「世界は、こんなにも広いんですね」
うれしくて、胸がいっぱいで。
笑っているはずなのに、涙が次々と溢れてくる。
「どうして泣く」
「……名前を、呼んでもらえたから、でしょうか」
自分でも、思っていた以上に小さな声だった。
「わたしを、ただの巫女ではなく。初音として見てもらえたから」
「初音」
その声は、さっきよりずっとやわらかかった。
「君がどこに閉じ込められても、自分が誰なのか分からなくなっても。俺が何度でも迎えに行って――」
風が吹き、桜の花が一斉に舞い上がる。
「君の名前を呼ぶよ」
月光と桜吹雪の中の笑顔があまりに美しくて、わたしは声を失った。
やがて緋桜さまは、わたしを久遠桜の根元へそっと降ろした。
夢のような時間が、終わろうとしている。
名残惜しくて、袖を握りしめる。
「また、会えますか?」
枝の上へ戻った緋桜さまが、ふっと笑った。
「ああ。必ず」


