千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 ***

 数日後。

 わたしは、久遠神社の奥にある白藤の前に立っていた。
 境内の藤が紫から白へ変わるより前から、ずっと白い花を咲かせていた藤棚。

 緋桜さんが、いくつもの時を越えて、わたしへの手紙を結んできた場所だ。
 白い花房のあいだで、古い手紙が静かに揺れている。

 大学生のわたし。社会人のわたし。
 指輪を受け取ったわたし。まだ見ぬ小さな命を抱えたわたし。

 わたしが知らない、でも確かにどこかで生きていたわたしが、この白藤には眠っている。
 前にここへ来たときは、胸が苦しくて仕方なかった。

 緋桜さんがどれだけ長い時間、ひとりで願い続けてきたのかを知ってしまったから。
 けれど、今は違う。

 黒鉄はもういない。
 そして久遠桜は、あの夜、千年ぶんの力を使い切った。
 緋桜さんはもう、時を渡れない。
 ここにある手紙は、もう繰り返されることのない時間の、最初で最後の記録になった。

 「やっぱりここにいた」

 背後から声がして、振り返る。
 白藤の花房の向こうに、緋桜さんが立っていた。

 「さっき七姫さんが探していたよ。水継と出かけるから、服を見てほしいんだって」
 「七姫が?」
 「うん。水継は『普段通りでいい』って言ったらしいけど、それで余計に怒らせたみたい」

 思わず笑ってしまう。
 そんな何気ないやり取りが、この未来にちゃんとあることがうれしかった。

 「……あとで行きます」
 「うん」

 緋桜さんは隣に立ち、白藤に結ばれた手紙を見上げた。
 白い花房の奥で、いちばん古い手紙が揺れている。

 「不思議なんです。ここに書かれている私は、私なのに、私の知らない私で。でも、読むたびに、緋桜さんを好きだった気持ちだけは、ちゃんと分かる気がして」

 白い花房を見上げたまま、続ける。

 「だから、ここにいるわたしたちは、消えたんじゃない。ぜんぶ、いまのわたしにつながっている。……そんな気がするんです」

 緋桜さんは、しばらく何も言わなかった。
 白藤の枝に、そっと指先を触れる。

 「俺は、ここに手紙を結ぶたびに思っていたよ」
 「何をですか?」
 「次の君は、俺のことを知らないかもしれない。俺を見ても、何も思い出さないかもしれない。それでも、もう一度会えたなら、それでいいと」

 白藤の花房が、やわらかな風に揺れる。

 「でも、もう次はないからね。ここから先は、ぜんぶ一度きりだ」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
 やり直せない。
 その事実は、少しだけ怖い。
 けれど、前みたいに苦しくはなかった。

 一度きり。
 その言葉を胸の中で繰り返してから、わたしは緋桜さんを見上げた。

 「緋桜さん。明日、一緒に出かけませんか」
 「もちろん。どこへ行きたい?」
 「まだ決めてません」

 緋桜さんが、不思議そうに瞬きをする。

 「千年、ずっとこの桜のそばにいたんですよね。行き先も、いつも過去だったわけですし」

 返事の代わりに、紅い瞳が少しだけ揺れた。

 「だから、何もない日に、ただ外を歩きたいんです」

 息を吸う。

 「この町に来て、やっと知ったから。お客さんの笑い声でにぎわう場所も、夕方のなんでもない町の灯りも。好きな人と見るから楽しいんだって」

 緋桜さんの目が、わずかに見開かれた。

 「だから今度は、わたしが連れて行きます。緋桜さんの知らない、これからの世界に」

 緋桜さんは、長いあいだ黙っていた。
 それから、泣くのを我慢するときみたいな顔で、少しだけ笑った。

 「……そうだね。じゃあ案内は、朱里に任せるよ」

 緋桜さんは素直に頷いた。
 ……かと思うと、わたしの手を取って、指先にそっと唇を落とした。

 「っ……!?」
 「その代わり、明日は一日、君を独り占めさせて」

 至近距離で、紅い瞳が笑う。

 「ほら、最近は屋敷もにぎやかだからさ」

 その言葉を待っていたみたいに、遠くから暁乃さんと七姫の笑い声が聞こえた。
 それをたしなめる水継さんの声。眠たそうな宵白さんの返事。そして、呆れたように鳴く柏の声。
 
 うるさくて、あたたかい。
 千年ひとりだったこの人の周りに、いまはこんなにたくさんの声がある。

 「……ね?」

 ずるい。
 こんなの、頷く以外できるわけがない。

 「……はい」
 「楽しみにしてる。君と一緒に歩く、これからを」

 白藤が、やわらかな風に揺れた。

 次の瞬間、唇が重なる。
 驚いたのは一瞬だけだった。
 すぐに、つないだままの手を握り返す。

 唇が離れると、緋桜さんの紅い瞳が、まっすぐわたしを見ていた。

 「愛してるよ、朱里」

 もう大丈夫なふりも、平気な笑顔も、いらない。
 わたしは泣きながら、精いっぱいの笑顔で笑った。

 「……はいっ!」
 「それじゃ、行こうか」

 差し出された手を取って、歩き出す。
 白藤の向こうに、午後の光と、にぎやかな声が待っている。

 まずは明日、なんでもない町を、ふたりで歩くところから。
 千年かけてたどり着いた未来が、いま、始まる。