***
数日後。
わたしは、久遠神社の奥にある白藤の前に立っていた。
境内の藤が紫から白へ変わるより前から、ずっと白い花を咲かせていた藤棚。
緋桜さんが、いくつもの時を越えて、わたしへの手紙を結んできた場所だ。
白い花房のあいだで、古い手紙が静かに揺れている。
大学生のわたし。社会人のわたし。
指輪を受け取ったわたし。まだ見ぬ小さな命を抱えたわたし。
わたしが知らない、でも確かにどこかで生きていたわたしが、この白藤には眠っている。
前にここへ来たときは、胸が苦しくて仕方なかった。
緋桜さんがどれだけ長い時間、ひとりで願い続けてきたのかを知ってしまったから。
けれど、今は違う。
黒鉄はもういない。
そして久遠桜は、あの夜、千年ぶんの力を使い切った。
緋桜さんはもう、時を渡れない。
ここにある手紙は、もう繰り返されることのない時間の、最初で最後の記録になった。
「やっぱりここにいた」
背後から声がして、振り返る。
白藤の花房の向こうに、緋桜さんが立っていた。
「さっき七姫さんが探していたよ。水継と出かけるから、服を見てほしいんだって」
「七姫が?」
「うん。水継は『普段通りでいい』って言ったらしいけど、それで余計に怒らせたみたい」
思わず笑ってしまう。
そんな何気ないやり取りが、この未来にちゃんとあることがうれしかった。
「……あとで行きます」
「うん」
緋桜さんは隣に立ち、白藤に結ばれた手紙を見上げた。
白い花房の奥で、いちばん古い手紙が揺れている。
「不思議なんです。ここに書かれている私は、私なのに、私の知らない私で。でも、読むたびに、緋桜さんを好きだった気持ちだけは、ちゃんと分かる気がして」
白い花房を見上げたまま、続ける。
「だから、ここにいるわたしたちは、消えたんじゃない。ぜんぶ、いまのわたしにつながっている。……そんな気がするんです」
緋桜さんは、しばらく何も言わなかった。
白藤の枝に、そっと指先を触れる。
「俺は、ここに手紙を結ぶたびに思っていたよ」
「何をですか?」
「次の君は、俺のことを知らないかもしれない。俺を見ても、何も思い出さないかもしれない。それでも、もう一度会えたなら、それでいいと」
白藤の花房が、やわらかな風に揺れる。
「でも、もう次はないからね。ここから先は、ぜんぶ一度きりだ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
やり直せない。
その事実は、少しだけ怖い。
けれど、前みたいに苦しくはなかった。
一度きり。
その言葉を胸の中で繰り返してから、わたしは緋桜さんを見上げた。
「緋桜さん。明日、一緒に出かけませんか」
「もちろん。どこへ行きたい?」
「まだ決めてません」
緋桜さんが、不思議そうに瞬きをする。
「千年、ずっとこの桜のそばにいたんですよね。行き先も、いつも過去だったわけですし」
返事の代わりに、紅い瞳が少しだけ揺れた。
「だから、何もない日に、ただ外を歩きたいんです」
息を吸う。
「この町に来て、やっと知ったから。お客さんの笑い声でにぎわう場所も、夕方のなんでもない町の灯りも。好きな人と見るから楽しいんだって」
緋桜さんの目が、わずかに見開かれた。
「だから今度は、わたしが連れて行きます。緋桜さんの知らない、これからの世界に」
緋桜さんは、長いあいだ黙っていた。
それから、泣くのを我慢するときみたいな顔で、少しだけ笑った。
「……そうだね。じゃあ案内は、朱里に任せるよ」
緋桜さんは素直に頷いた。
……かと思うと、わたしの手を取って、指先にそっと唇を落とした。
「っ……!?」
「その代わり、明日は一日、君を独り占めさせて」
至近距離で、紅い瞳が笑う。
「ほら、最近は屋敷もにぎやかだからさ」
その言葉を待っていたみたいに、遠くから暁乃さんと七姫の笑い声が聞こえた。
それをたしなめる水継さんの声。眠たそうな宵白さんの返事。そして、呆れたように鳴く柏の声。
うるさくて、あたたかい。
千年ひとりだったこの人の周りに、いまはこんなにたくさんの声がある。
「……ね?」
ずるい。
こんなの、頷く以外できるわけがない。
「……はい」
「楽しみにしてる。君と一緒に歩く、これからを」
白藤が、やわらかな風に揺れた。
次の瞬間、唇が重なる。
驚いたのは一瞬だけだった。
すぐに、つないだままの手を握り返す。
唇が離れると、緋桜さんの紅い瞳が、まっすぐわたしを見ていた。
「愛してるよ、朱里」
もう大丈夫なふりも、平気な笑顔も、いらない。
わたしは泣きながら、精いっぱいの笑顔で笑った。
「……はいっ!」
「それじゃ、行こうか」
差し出された手を取って、歩き出す。
白藤の向こうに、午後の光と、にぎやかな声が待っている。
まずは明日、なんでもない町を、ふたりで歩くところから。
千年かけてたどり着いた未来が、いま、始まる。
数日後。
わたしは、久遠神社の奥にある白藤の前に立っていた。
境内の藤が紫から白へ変わるより前から、ずっと白い花を咲かせていた藤棚。
緋桜さんが、いくつもの時を越えて、わたしへの手紙を結んできた場所だ。
白い花房のあいだで、古い手紙が静かに揺れている。
大学生のわたし。社会人のわたし。
指輪を受け取ったわたし。まだ見ぬ小さな命を抱えたわたし。
わたしが知らない、でも確かにどこかで生きていたわたしが、この白藤には眠っている。
前にここへ来たときは、胸が苦しくて仕方なかった。
緋桜さんがどれだけ長い時間、ひとりで願い続けてきたのかを知ってしまったから。
けれど、今は違う。
黒鉄はもういない。
そして久遠桜は、あの夜、千年ぶんの力を使い切った。
緋桜さんはもう、時を渡れない。
ここにある手紙は、もう繰り返されることのない時間の、最初で最後の記録になった。
「やっぱりここにいた」
背後から声がして、振り返る。
白藤の花房の向こうに、緋桜さんが立っていた。
「さっき七姫さんが探していたよ。水継と出かけるから、服を見てほしいんだって」
「七姫が?」
「うん。水継は『普段通りでいい』って言ったらしいけど、それで余計に怒らせたみたい」
思わず笑ってしまう。
そんな何気ないやり取りが、この未来にちゃんとあることがうれしかった。
「……あとで行きます」
「うん」
緋桜さんは隣に立ち、白藤に結ばれた手紙を見上げた。
白い花房の奥で、いちばん古い手紙が揺れている。
「不思議なんです。ここに書かれている私は、私なのに、私の知らない私で。でも、読むたびに、緋桜さんを好きだった気持ちだけは、ちゃんと分かる気がして」
白い花房を見上げたまま、続ける。
「だから、ここにいるわたしたちは、消えたんじゃない。ぜんぶ、いまのわたしにつながっている。……そんな気がするんです」
緋桜さんは、しばらく何も言わなかった。
白藤の枝に、そっと指先を触れる。
「俺は、ここに手紙を結ぶたびに思っていたよ」
「何をですか?」
「次の君は、俺のことを知らないかもしれない。俺を見ても、何も思い出さないかもしれない。それでも、もう一度会えたなら、それでいいと」
白藤の花房が、やわらかな風に揺れる。
「でも、もう次はないからね。ここから先は、ぜんぶ一度きりだ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
やり直せない。
その事実は、少しだけ怖い。
けれど、前みたいに苦しくはなかった。
一度きり。
その言葉を胸の中で繰り返してから、わたしは緋桜さんを見上げた。
「緋桜さん。明日、一緒に出かけませんか」
「もちろん。どこへ行きたい?」
「まだ決めてません」
緋桜さんが、不思議そうに瞬きをする。
「千年、ずっとこの桜のそばにいたんですよね。行き先も、いつも過去だったわけですし」
返事の代わりに、紅い瞳が少しだけ揺れた。
「だから、何もない日に、ただ外を歩きたいんです」
息を吸う。
「この町に来て、やっと知ったから。お客さんの笑い声でにぎわう場所も、夕方のなんでもない町の灯りも。好きな人と見るから楽しいんだって」
緋桜さんの目が、わずかに見開かれた。
「だから今度は、わたしが連れて行きます。緋桜さんの知らない、これからの世界に」
緋桜さんは、長いあいだ黙っていた。
それから、泣くのを我慢するときみたいな顔で、少しだけ笑った。
「……そうだね。じゃあ案内は、朱里に任せるよ」
緋桜さんは素直に頷いた。
……かと思うと、わたしの手を取って、指先にそっと唇を落とした。
「っ……!?」
「その代わり、明日は一日、君を独り占めさせて」
至近距離で、紅い瞳が笑う。
「ほら、最近は屋敷もにぎやかだからさ」
その言葉を待っていたみたいに、遠くから暁乃さんと七姫の笑い声が聞こえた。
それをたしなめる水継さんの声。眠たそうな宵白さんの返事。そして、呆れたように鳴く柏の声。
うるさくて、あたたかい。
千年ひとりだったこの人の周りに、いまはこんなにたくさんの声がある。
「……ね?」
ずるい。
こんなの、頷く以外できるわけがない。
「……はい」
「楽しみにしてる。君と一緒に歩く、これからを」
白藤が、やわらかな風に揺れた。
次の瞬間、唇が重なる。
驚いたのは一瞬だけだった。
すぐに、つないだままの手を握り返す。
唇が離れると、緋桜さんの紅い瞳が、まっすぐわたしを見ていた。
「愛してるよ、朱里」
もう大丈夫なふりも、平気な笑顔も、いらない。
わたしは泣きながら、精いっぱいの笑顔で笑った。
「……はいっ!」
「それじゃ、行こうか」
差し出された手を取って、歩き出す。
白藤の向こうに、午後の光と、にぎやかな声が待っている。
まずは明日、なんでもない町を、ふたりで歩くところから。
千年かけてたどり着いた未来が、いま、始まる。


