千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 その日の昼過ぎ、千歳の伯母夫婦が屋敷へやって来た。
 町の人たちの記憶では、白藤のそばで小さなぼや騒ぎがあったことになっている。

 緋桜さんも、わたしも、その場に居合わせたことになっていた。

 そして、火のそばで意識を失っていた人がもうひとり。

 雛乃だ。

 最後に見た雛乃は、堕神に憎しみを養分にされ、ほとんど乗っ取られていた。

 けれど、もう黒鉄はいない。

 それでも、堕神に関わった影響が完全に消えたかどうかは分からない。
 だから緋桜さんの屋敷で、しばらく様子を見ることになっていた。

 雛乃が目を覚ましたのは、ほんの数時間前のことだった。
 客間に通されるなり、伯母が雛乃へ駆け寄った。

 「雛乃!」

 伯父もその後ろから足早に入ってくる。
 雛乃は布団の上に起き上がっている。顔色はまだ白いけれど、目には光が戻っていた。

 「お母さん……お父さん……」
 「よかった。本当に心配したのよ」

 伯母は雛乃の手を握りしめた。
 伯父も雛乃の肩に手を置き、安堵したように息を吐く。

 けれど、ふたりの視線がわたしへ向いた瞬間、空気が変わった。

 「朱里さん」

 伯父の声は低く、妙に落ち着いていた。

 「君も、その場にいたそうだね」
 「はい」
 「なら、説明してもらえるかな。どうして雛乃が、あんな場所で倒れていたのか」

 やっぱり、と思った。

 礼を言うより先に、疑う。

 雛乃が倒れていた理由も、ぼやが起きた理由も、わたしのせいにできる隙を探している。
 伯母は雛乃を庇うように抱き寄せた。

 「町の人たちは、あなたが雛乃を助けたなんて言っているけれど」

 その言い方には、はっきりと棘があった。

 「そもそも、雛乃が巻き込まれた原因があなたなら、助けたことにはならないでしょう」
 「君が来てから、周囲がずいぶん騒がしくなった。京介くんのことも含めてね」

 雛乃が、布団を握りしめたまま唇を歪める。

 「私、覚えてない。気づいたらここにいたの。でも、本当は分かってるんじゃない?」

 客間の空気が、すっと冷えた。

 「朱里が、私をあそこに連れて行ったんでしょ。みんなの前で助けたことにして、いい子ぶりたかったんじゃないの?」

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。
 でも、もう俯かなかった。

 「違います」

 短く返すと、雛乃の目が揺れた。

 「私は、火のそばで倒れていた雛乃を助けました。それだけです」

 客間が静まり返った。

 「……じゃあ、私が嘘をついてるって言うの?」

 「私を責めても、雛乃の寂しさはなくならないよ」

 雛乃の顔がこわばる。

 「伯母さんたちもです。雛乃を守りたいなら、私を疑うんじゃなくて、雛乃自身と向き合ってください」

 伯母も伯父も、すぐには何も言わなかった。

 「私はもう、雛乃の代わりに責められる役は引き受けません」

 背筋を伸ばす。

 「だから、もう私には関わらないでください」

 伯母の顔が、さっと強張った。
 伯父も、言葉を失ったように押し黙る。

 一瞬、客間に静けさが落ちた。
 けれど、その沈黙を破ったのは雛乃だった。

 「なによ、それ……!」

 布団を握りしめる指が震えている。

 「被害者ぶらないでよ。朱里が来なければ、こんなことにならなかった。京介だって、おばあさまだって、町のみんなだって……全部、アンタが奪ったんじゃない!」

 伯母が慌てて雛乃の肩を押さえた。

 「雛乃、まだ寝ていなさい」
 「嫌! だっておかしいじゃない! なんでコイツばっかり――」
 「これ以上」

 緋桜さんの低い一言で、部屋の空気がぴたりと止まる。
 雛乃の肩が、小さく跳ねた。

 紅い瞳が、まっすぐ雛乃を見ている。

 「朱里を責めることは許さない」

 雛乃の唇が震えた。伯母も伯父も、何も言えない。

 「火の中で、朱里は君を助けた。君たちが何を疑おうと、その事実は変わらない」

 緋桜さんの視線が、伯母と伯父へ移る。

 「それを感謝ではなく責める理由にするなら、これ以上話すことはない。朱里は、あなた方と関わらないと決めた。その意思を、俺は尊重する」

 伯父の顔が、苦々しく歪む。
 伯母は何か言いたげに唇を開いたが、緋桜さんの視線を受けて言葉を飲み込んだ。

 「千歳の分家としての役目も、今日で終わりだ。今後久遠桜にも、朱里にも、関わることは許さない」
 「そんな……!」

 伯母の顔から血の気が引いた。

 伯父も、ようやく事の重さに気づいたように立ち尽くしている。

 これまで当然のように頼ってきたもの。
 千歳の名も、久遠桜とのつながりも、わたしを責めることで保ってきた立場も。
 その全部が、緋桜さんの一言で遠ざかっていく。

 「お引き取りください」

 それが、最後だった。

 伯父は何も言い返せず、深く顔を伏せる。伯母は悔しそうに雛乃の肩を支えた。
 雛乃は最後までこちらを睨んでいたけれど、もうその視線は怖くなかった。

 伯母夫婦に支えられ、雛乃が客間を出ていく。

 障子が閉まる。
 張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。

 そこで初めて、自分の指先が震えていることに気づく。
 緋桜さんが、そっとその手に触れた。

 「……怖かった?」
 「少しだけ」

 強がろうとしたのに、声が小さく揺れた。
 緋桜さんは何も笑わず、わたしの頭を優しく撫でる。

 「よく頑張ったね」

 その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。

 もう、誰かに居場所を奪わせない。
 誰かの言葉で、自分を決めたりしない。

 わたしは、わたしのままでここにいる。

 大好きな緋桜さんの隣に。
 自分で選んだ、この未来に。