その日の昼過ぎ、千歳の伯母夫婦が屋敷へやって来た。
町の人たちの記憶では、白藤のそばで小さなぼや騒ぎがあったことになっている。
緋桜さんも、わたしも、その場に居合わせたことになっていた。
そして、火のそばで意識を失っていた人がもうひとり。
雛乃だ。
最後に見た雛乃は、堕神に憎しみを養分にされ、ほとんど乗っ取られていた。
けれど、もう黒鉄はいない。
それでも、堕神に関わった影響が完全に消えたかどうかは分からない。
だから緋桜さんの屋敷で、しばらく様子を見ることになっていた。
雛乃が目を覚ましたのは、ほんの数時間前のことだった。
客間に通されるなり、伯母が雛乃へ駆け寄った。
「雛乃!」
伯父もその後ろから足早に入ってくる。
雛乃は布団の上に起き上がっている。顔色はまだ白いけれど、目には光が戻っていた。
「お母さん……お父さん……」
「よかった。本当に心配したのよ」
伯母は雛乃の手を握りしめた。
伯父も雛乃の肩に手を置き、安堵したように息を吐く。
けれど、ふたりの視線がわたしへ向いた瞬間、空気が変わった。
「朱里さん」
伯父の声は低く、妙に落ち着いていた。
「君も、その場にいたそうだね」
「はい」
「なら、説明してもらえるかな。どうして雛乃が、あんな場所で倒れていたのか」
やっぱり、と思った。
礼を言うより先に、疑う。
雛乃が倒れていた理由も、ぼやが起きた理由も、わたしのせいにできる隙を探している。
伯母は雛乃を庇うように抱き寄せた。
「町の人たちは、あなたが雛乃を助けたなんて言っているけれど」
その言い方には、はっきりと棘があった。
「そもそも、雛乃が巻き込まれた原因があなたなら、助けたことにはならないでしょう」
「君が来てから、周囲がずいぶん騒がしくなった。京介くんのことも含めてね」
雛乃が、布団を握りしめたまま唇を歪める。
「私、覚えてない。気づいたらここにいたの。でも、本当は分かってるんじゃない?」
客間の空気が、すっと冷えた。
「朱里が、私をあそこに連れて行ったんでしょ。みんなの前で助けたことにして、いい子ぶりたかったんじゃないの?」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、もう俯かなかった。
「違います」
短く返すと、雛乃の目が揺れた。
「私は、火のそばで倒れていた雛乃を助けました。それだけです」
客間が静まり返った。
「……じゃあ、私が嘘をついてるって言うの?」
「私を責めても、雛乃の寂しさはなくならないよ」
雛乃の顔がこわばる。
「伯母さんたちもです。雛乃を守りたいなら、私を疑うんじゃなくて、雛乃自身と向き合ってください」
伯母も伯父も、すぐには何も言わなかった。
「私はもう、雛乃の代わりに責められる役は引き受けません」
背筋を伸ばす。
「だから、もう私には関わらないでください」
伯母の顔が、さっと強張った。
伯父も、言葉を失ったように押し黙る。
一瞬、客間に静けさが落ちた。
けれど、その沈黙を破ったのは雛乃だった。
「なによ、それ……!」
布団を握りしめる指が震えている。
「被害者ぶらないでよ。朱里が来なければ、こんなことにならなかった。京介だって、おばあさまだって、町のみんなだって……全部、アンタが奪ったんじゃない!」
伯母が慌てて雛乃の肩を押さえた。
「雛乃、まだ寝ていなさい」
「嫌! だっておかしいじゃない! なんでコイツばっかり――」
「これ以上」
緋桜さんの低い一言で、部屋の空気がぴたりと止まる。
雛乃の肩が、小さく跳ねた。
紅い瞳が、まっすぐ雛乃を見ている。
「朱里を責めることは許さない」
雛乃の唇が震えた。伯母も伯父も、何も言えない。
「火の中で、朱里は君を助けた。君たちが何を疑おうと、その事実は変わらない」
緋桜さんの視線が、伯母と伯父へ移る。
「それを感謝ではなく責める理由にするなら、これ以上話すことはない。朱里は、あなた方と関わらないと決めた。その意思を、俺は尊重する」
伯父の顔が、苦々しく歪む。
伯母は何か言いたげに唇を開いたが、緋桜さんの視線を受けて言葉を飲み込んだ。
「千歳の分家としての役目も、今日で終わりだ。今後久遠桜にも、朱里にも、関わることは許さない」
「そんな……!」
伯母の顔から血の気が引いた。
伯父も、ようやく事の重さに気づいたように立ち尽くしている。
これまで当然のように頼ってきたもの。
千歳の名も、久遠桜とのつながりも、わたしを責めることで保ってきた立場も。
その全部が、緋桜さんの一言で遠ざかっていく。
「お引き取りください」
それが、最後だった。
伯父は何も言い返せず、深く顔を伏せる。伯母は悔しそうに雛乃の肩を支えた。
雛乃は最後までこちらを睨んでいたけれど、もうその視線は怖くなかった。
伯母夫婦に支えられ、雛乃が客間を出ていく。
障子が閉まる。
張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。
そこで初めて、自分の指先が震えていることに気づく。
緋桜さんが、そっとその手に触れた。
「……怖かった?」
「少しだけ」
強がろうとしたのに、声が小さく揺れた。
緋桜さんは何も笑わず、わたしの頭を優しく撫でる。
「よく頑張ったね」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
もう、誰かに居場所を奪わせない。
誰かの言葉で、自分を決めたりしない。
わたしは、わたしのままでここにいる。
大好きな緋桜さんの隣に。
自分で選んだ、この未来に。


