目を開けると、夜の闇の中で白藤の花房が揺れていた。
紫がかった白い花の向こうに、赤い火がちらついている。
遅れて、焦げた匂いが喉の奥に触れた。
白藤の根元に、緋桜さんが倒れている。
白い衣はところどころ焦げ、肩から胸にかけて、うっすらと黒い痕も残っていた。
けれど、あの毒のように広がっていた黒い染みは、もうない。
黒鉄は、いない。
過去で封じたことで、この未来からも消えたのだろう。
ただ、赤い火だけが白藤を囲むように燃えていた。
黒い炎ではなく、現実の火。
それでも炎の奥には、あの戦いの名残のような薄紅の光が揺れている。
あの日、増水した川の中で、わたしは水に呑まれていった。
助けたいと思って手を伸ばしたのに、流れは冷たくて、強くて、自分まで沈んでいった。
あのとき、わたしを見つけてくれたのは緋桜さんだった。
なら、今度は、わたしが。
「緋桜さん!」
呼びかけても、緋桜さんは動かない。
わたしは、炎の中へ踏み出した。
熱が肌を刺す。息が苦しい。
初めて会った夜とは、逆だった。
あのときは、わたしが水に呑まれて、緋桜さんが手を伸ばしてくれた。
今は、緋桜さんが炎の中にいて、わたしがその人のもとへ向かっている。
膝をつき、緋桜さんの手を掴んだ。
「緋桜さん、迎えに来ました」
緋桜さんのまつげが、かすかに震える。
「……っ、けほっ……」
苦しげに咳き込んで、緋桜さんがゆっくりと目を開けた。
焦点の合わなかった紅い瞳が、少しずつわたしを映す。
「朱里……?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけそうになった。
でも、泣くのはまだ早い。
「私、ちゃんと戻ってきました」
緋桜さんの紅い瞳が、大きく揺れる。
「緋桜さんに、大好きって言うために!」
本当は、泣きそうだった。
怖くて、苦しくて、何度も間に合わないかもしれないと思った。
それでも、ちゃんと戻ってきたのだと伝えたくて、わたしは震える唇で精いっぱい笑った。
炎の向こうで、緋桜さんが驚いたようにわたしを見つめる。
それから、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「……それは、聞き逃せないな」
緋桜さんが、ゆっくりと手を上げる。
まだ力の入らない指先が、炎に触れた。
赤い火が、薄紅の光を帯びる。
ひとひら。
また、ひとひら。
燃えていたはずの炎が、音もなく桜の花びらへ変わっていく。
炎の熱は消え。残っているのは、夜風に揺れる白藤の音と、緋桜さんの手のぬくもりだけだった。
わたしは、胸元に手を入れた。
指先に触れたのは、一通の手紙だった。
過去へ向かう前にどうしても渡せなかったあの手紙を、今度こそ。
「これ……本当は、行く前に渡したかったんです。でも、渡す勇気がなくて」
緋桜さんが、手紙へ視線を落とす。
その顔を見ただけで、涙がこぼれそうになる。
「緋桜さんが私の名前を呼んでくれるたびに、胸がいっぱいになって。そばにいたいって、何度も思って。だから、私――」
最後まで言う前に、緋桜さんの手が頬に触れた。
次の瞬間、唇が重なる。
「……っ!」
唇が離れる。
近すぎる距離で、緋桜さんが小さく笑った。
「先に言わせて」
紅い瞳が、まっすぐわたしを見る。
「愛してるよ、朱里」
胸の奥が、いっぱいになる。
ようやく聞けた。
ようやく、言えた。
長い時間を越えて、ずっと届かなかった想いが、やっと言葉になった。
手紙を握ったまま、わたしは何度も頷いた。
「……はい。私も」
何度も言おうとして、言えなかった。
手紙に書くことはできたのに、渡すことも、声にすることもできなかった。
この気持ちを伝えたら、何かが変わってしまう気がして。
でも、たくさん遠回りして。ようやくここに戻ってこられた。
「私も、緋桜さんを愛しています」
緋桜さんの指が、その涙をそっと拭う。
戻ってこられた。
大好きな、緋桜さんのいる世界へ。
紫がかった白い花の向こうに、赤い火がちらついている。
遅れて、焦げた匂いが喉の奥に触れた。
白藤の根元に、緋桜さんが倒れている。
白い衣はところどころ焦げ、肩から胸にかけて、うっすらと黒い痕も残っていた。
けれど、あの毒のように広がっていた黒い染みは、もうない。
黒鉄は、いない。
過去で封じたことで、この未来からも消えたのだろう。
ただ、赤い火だけが白藤を囲むように燃えていた。
黒い炎ではなく、現実の火。
それでも炎の奥には、あの戦いの名残のような薄紅の光が揺れている。
あの日、増水した川の中で、わたしは水に呑まれていった。
助けたいと思って手を伸ばしたのに、流れは冷たくて、強くて、自分まで沈んでいった。
あのとき、わたしを見つけてくれたのは緋桜さんだった。
なら、今度は、わたしが。
「緋桜さん!」
呼びかけても、緋桜さんは動かない。
わたしは、炎の中へ踏み出した。
熱が肌を刺す。息が苦しい。
初めて会った夜とは、逆だった。
あのときは、わたしが水に呑まれて、緋桜さんが手を伸ばしてくれた。
今は、緋桜さんが炎の中にいて、わたしがその人のもとへ向かっている。
膝をつき、緋桜さんの手を掴んだ。
「緋桜さん、迎えに来ました」
緋桜さんのまつげが、かすかに震える。
「……っ、けほっ……」
苦しげに咳き込んで、緋桜さんがゆっくりと目を開けた。
焦点の合わなかった紅い瞳が、少しずつわたしを映す。
「朱里……?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけそうになった。
でも、泣くのはまだ早い。
「私、ちゃんと戻ってきました」
緋桜さんの紅い瞳が、大きく揺れる。
「緋桜さんに、大好きって言うために!」
本当は、泣きそうだった。
怖くて、苦しくて、何度も間に合わないかもしれないと思った。
それでも、ちゃんと戻ってきたのだと伝えたくて、わたしは震える唇で精いっぱい笑った。
炎の向こうで、緋桜さんが驚いたようにわたしを見つめる。
それから、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「……それは、聞き逃せないな」
緋桜さんが、ゆっくりと手を上げる。
まだ力の入らない指先が、炎に触れた。
赤い火が、薄紅の光を帯びる。
ひとひら。
また、ひとひら。
燃えていたはずの炎が、音もなく桜の花びらへ変わっていく。
炎の熱は消え。残っているのは、夜風に揺れる白藤の音と、緋桜さんの手のぬくもりだけだった。
わたしは、胸元に手を入れた。
指先に触れたのは、一通の手紙だった。
過去へ向かう前にどうしても渡せなかったあの手紙を、今度こそ。
「これ……本当は、行く前に渡したかったんです。でも、渡す勇気がなくて」
緋桜さんが、手紙へ視線を落とす。
その顔を見ただけで、涙がこぼれそうになる。
「緋桜さんが私の名前を呼んでくれるたびに、胸がいっぱいになって。そばにいたいって、何度も思って。だから、私――」
最後まで言う前に、緋桜さんの手が頬に触れた。
次の瞬間、唇が重なる。
「……っ!」
唇が離れる。
近すぎる距離で、緋桜さんが小さく笑った。
「先に言わせて」
紅い瞳が、まっすぐわたしを見る。
「愛してるよ、朱里」
胸の奥が、いっぱいになる。
ようやく聞けた。
ようやく、言えた。
長い時間を越えて、ずっと届かなかった想いが、やっと言葉になった。
手紙を握ったまま、わたしは何度も頷いた。
「……はい。私も」
何度も言おうとして、言えなかった。
手紙に書くことはできたのに、渡すことも、声にすることもできなかった。
この気持ちを伝えたら、何かが変わってしまう気がして。
でも、たくさん遠回りして。ようやくここに戻ってこられた。
「私も、緋桜さんを愛しています」
緋桜さんの指が、その涙をそっと拭う。
戻ってこられた。
大好きな、緋桜さんのいる世界へ。


