千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 目を開けると、夜の闇の中で白藤の花房が揺れていた。
 紫がかった白い花の向こうに、赤い火がちらついている。

 遅れて、焦げた匂いが喉の奥に触れた。

 白藤の根元に、緋桜さんが倒れている。
 白い衣はところどころ焦げ、肩から胸にかけて、うっすらと黒い痕も残っていた。

 けれど、あの毒のように広がっていた黒い染みは、もうない。

 黒鉄は、いない。

 過去で封じたことで、この未来からも消えたのだろう。

 ただ、赤い火だけが白藤を囲むように燃えていた。
 黒い炎ではなく、現実の火。

 それでも炎の奥には、あの戦いの名残のような薄紅の光が揺れている。

 あの日、増水した川の中で、わたしは水に呑まれていった。
 助けたいと思って手を伸ばしたのに、流れは冷たくて、強くて、自分まで沈んでいった。

 あのとき、わたしを見つけてくれたのは緋桜さんだった。

 なら、今度は、わたしが。

 「緋桜さん!」

 呼びかけても、緋桜さんは動かない。
 わたしは、炎の中へ踏み出した。

 熱が肌を刺す。息が苦しい。

 初めて会った夜とは、逆だった。

 あのときは、わたしが水に呑まれて、緋桜さんが手を伸ばしてくれた。

 今は、緋桜さんが炎の中にいて、わたしがその人のもとへ向かっている。
 膝をつき、緋桜さんの手を掴んだ。

 「緋桜さん、迎えに来ました」

 緋桜さんのまつげが、かすかに震える。

 「……っ、けほっ……」

 苦しげに咳き込んで、緋桜さんがゆっくりと目を開けた。
 焦点の合わなかった紅い瞳が、少しずつわたしを映す。

 「朱里……?」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけそうになった。

 でも、泣くのはまだ早い。

 「私、ちゃんと戻ってきました」

 緋桜さんの紅い瞳が、大きく揺れる。

 「緋桜さんに、大好きって言うために!」

 本当は、泣きそうだった。

 怖くて、苦しくて、何度も間に合わないかもしれないと思った。
 それでも、ちゃんと戻ってきたのだと伝えたくて、わたしは震える唇で精いっぱい笑った。

 炎の向こうで、緋桜さんが驚いたようにわたしを見つめる。
 それから、ほんの少しだけ目元をやわらげた。

 「……それは、聞き逃せないな」

 緋桜さんが、ゆっくりと手を上げる。

 まだ力の入らない指先が、炎に触れた。
 赤い火が、薄紅の光を帯びる。

 ひとひら。

 また、ひとひら。

 燃えていたはずの炎が、音もなく桜の花びらへ変わっていく。

 炎の熱は消え。残っているのは、夜風に揺れる白藤の音と、緋桜さんの手のぬくもりだけだった。

 わたしは、胸元に手を入れた。
 指先に触れたのは、一通の手紙だった。

 過去へ向かう前にどうしても渡せなかったあの手紙を、今度こそ。

 「これ……本当は、行く前に渡したかったんです。でも、渡す勇気がなくて」

 緋桜さんが、手紙へ視線を落とす。
 その顔を見ただけで、涙がこぼれそうになる。

 「緋桜さんが私の名前を呼んでくれるたびに、胸がいっぱいになって。そばにいたいって、何度も思って。だから、私――」

 最後まで言う前に、緋桜さんの手が頬に触れた。
 次の瞬間、唇が重なる。

 「……っ!」

 唇が離れる。
 近すぎる距離で、緋桜さんが小さく笑った。

 「先に言わせて」

 紅い瞳が、まっすぐわたしを見る。

 「愛してるよ、朱里」

 胸の奥が、いっぱいになる。

 ようやく聞けた。
 ようやく、言えた。

 長い時間を越えて、ずっと届かなかった想いが、やっと言葉になった。

 手紙を握ったまま、わたしは何度も頷いた。

 「……はい。私も」

 何度も言おうとして、言えなかった。

 手紙に書くことはできたのに、渡すことも、声にすることもできなかった。

 この気持ちを伝えたら、何かが変わってしまう気がして。

 でも、たくさん遠回りして。ようやくここに戻ってこられた。

 「私も、緋桜さんを愛しています」

 緋桜さんの指が、その涙をそっと拭う。

 戻ってこられた。

 大好きな、緋桜さんのいる世界へ。