千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜


 柏の声で、張り詰めていたものが緩んだ。
 膝から力が抜けそうになる。けれど、その前に緋桜さんへ駆け寄った。

 「緋桜さん!」

 久遠桜の幹に残っていた黒い炎は、もう消えていた。

 緋桜さんを縛っていた痕だけが、焦げ跡のように白い衣へ残っている。
 肩に広がっていた黒い染みも、薄紅の光に溶けはじめていた。

 「大丈夫だよ」
 「でも、傷が……」
 「この程度なら、久遠桜が癒してくれる」

 そう言いながら、緋桜さんの視線は、薄紅の柱のそばへ向いていた。

 初音さんが、そこに立っている。

 白い巫女装束の裾は、朝の光に少しずつ透けはじめていた。
 輪郭も淡く揺らぎ、今にも桜の花びらと一緒にほどけてしまいそうだった。

 「初音」

 緋桜さんの声が、かすかに震えた。

 「緋桜さま」

 初音さんは、穏やかに微笑む。

 会いたかった人が、目の前にいる。

 けれど、もう長くは触れられない。それが、言葉にしなくても分かった。

 「俺は、君に謝らなければならない」

 緋桜さんの手が、途中で止まる。

 「守ると誓った。外の世界を見せるとも言った。なのに、何ひとつ間に合わなかった」

 初音さんは、小さく首を横に振った。

 「夜の空も、桜の上から見た町の灯りも、風の匂いも。外の世界は、わたしが思っていたよりずっと広くて、きれいでした」
 「初音……」
 「だから、もう悔いはありません」

 朝の光が、初音さんの肩を淡く透かしていく。

 初音さんは自分の手を見下ろし、少しだけ困ったように笑った。

 「この姿でいられるのも、長くはなさそうです」

 緋桜さんの紅い瞳が揺れる。
 それでも、初音さんは最後までまっすぐ緋桜さんを見ていた。

 「どうか、貴方の明日を歩いてください。わたしは、ずっと貴方のそばにいますから」

 緋桜さんは、長いあいだ何も言わなかった。
 やがて、静かに息を吐く。

 「俺は、失ったものを取り戻すために、時を渡ろうとしていた。もう一度会えたなら、何かが変わる気がしていた」

 緋桜さんは、久遠桜を見上げる。
 夜明けの光を受けた枝先で、薄紅の花びらが揺れていた。

 「でも、見えなくなっても、声が聞こえなくても。初音がそばにいてくれるなら、俺はもう迷わない」

 緋桜さんの紅い瞳が、わたしを見る。

 「それに、朱里(きみ)にも会えたしね」

 わたしがこの時代に来たことで、変わってしまったものが確かにある。
 黒鉄を封じたことも、緋桜さんがこの場所に残ると決めたことも、本当なら未来を大きく変えてしまうのかもしれない。

 けれど、未来で見た四社も、久遠桜も、緋桜さんも。ここから続いていくものなのだとしたら。

 この夜明けは、きっと間違いじゃない。

 「ちょっとー! アタイたちのこと、忘れてもらっちゃ困るんだけどー?」

 振り返ると、南の方角から暁乃さんが駆けてくるところだった。
 その後ろから、水継さんが息を整えながら歩いてくる。

 「……忘れられては困るな。こちらも、ずいぶん無茶を支えた」
 「もう寝たいんだけど」

 宵白さんは眠たげな顔のまま、白銀の光をまとってふわりと降り立った。

 緋桜さんは小さく笑う。

 「三人とも、ありがとう。君たちがいたから、黒鉄を止められた」

 暁乃さん、水継さん、宵白さん。

 三人のまとう赤、青、白銀の光が、久遠桜の根元に淡く残っている。

 「俺がやるべきことは、この時代で、黒鉄のような堕神が生まれない国を作る。人の祈りを、喰われるものにしない。願いが、恨みや未練に変わる前に受け止められる場所を作る」

 久遠桜の幹が、淡く光る。

 「初音。これからも見守っててくれるかな」

 初音さんは、涙を浮かべながら微笑んだ。

 「もちろん!」

 ただそれだけの返事だった。

 けれど、その一言に、長い時間のすべてが込められているようだった。

 緋桜さんが、初音さんへ手を伸ばす。
 今度は、その指先が白い光に触れた。

 ほんの一瞬だけ。

 緋桜さんの手と、初音さんの手が重なる。
 その瞬間にも、初音さんの指先は光にほどけはじめていた。

 「朱里さん」

 呼ばれて、わたしは一歩前へ出た。
 初音さんの手が、わたしの胸元へ触れる。

 そこには、四枚の返し札があった。

 「黒鉄は消え、歪んだ祈りも、久遠桜へ返りました。なら、次はあなたの番です」

 返し札が、静かに熱を帯びる。

 「これは、預かった力を、あるべき場所へ返すための札」

 南の日輪。西の八雲。北の月代。

 そして、久遠桜。

 四つの光が、胸元で淡く重なった。

 「あなたは、この時代に迷い込んだ祈りのようなものだから」

 初音さんは、やさしく微笑む。

 「返し札が、あなたをあるべき場所へ返してくれます。わたしに、その道を照らすお手伝いをさせてください」

 未来へ戻れる保証なんて、本当はどこにもなかった。
 過去を変えたことで、未来がどうなっているのかも分からない。

 それでも、胸元の返し札は確かに熱を持っていた。

 まるで、帰る場所を知っているみたいに。

 「ただ……ひとつだけ」

 初音さんの声が、少しだけ翳った。

 「緋桜さまが繰り返してきた、やり直しの道。それは、今夜で閉じるでしょう。黒鉄を封じたまま、さらにあなたを未来へ返すとなるとかなりの力を使いますから……だから、もう、時は渡れません」
 「それじゃあ、もし、未来でまた何かあったら……」
 「取り返しは、つきません。これが、最後です」

 怖い、と思った。
 けれど初音さんは、わたしの手を強く握って、まっすぐに笑った。

 「だから――今度こそ、やり直しのいらない明日を」

 初音さんが、やさしく微笑む。
 わたしは、戻らなければいけない。

 「……はい」

 涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえて頷いた。

 緋桜さんが、こちらを見る。

 「会えてよかった。未来の俺を、頼んだ」

 わたしは、もう一度頷く。
 言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。

 「行きましょう」

 初音さんが、わたしの手を取る。

 「大切な人のところへ」

 足元に薄紅の光が広がった。
 久遠桜の花びらが輪を描き、わたしのまわりをゆっくりと巡りはじめる。

 初音さん。

 暁乃さん、水継さん、宵白さん。

 柏。

 夜明けの久遠桜。

 すべてが、花びらの向こうで遠ざかっていく。

 ――緋桜さんが待つ、未来へ。

 光が、視界いっぱいに広がった。

 そこで、記憶が途切れた。