柏の声で、張り詰めていたものが緩んだ。
膝から力が抜けそうになる。けれど、その前に緋桜さんへ駆け寄った。
「緋桜さん!」
久遠桜の幹に残っていた黒い炎は、もう消えていた。
緋桜さんを縛っていた痕だけが、焦げ跡のように白い衣へ残っている。
肩に広がっていた黒い染みも、薄紅の光に溶けはじめていた。
「大丈夫だよ」
「でも、傷が……」
「この程度なら、久遠桜が癒してくれる」
そう言いながら、緋桜さんの視線は、薄紅の柱のそばへ向いていた。
初音さんが、そこに立っている。
白い巫女装束の裾は、朝の光に少しずつ透けはじめていた。
輪郭も淡く揺らぎ、今にも桜の花びらと一緒にほどけてしまいそうだった。
「初音」
緋桜さんの声が、かすかに震えた。
「緋桜さま」
初音さんは、穏やかに微笑む。
会いたかった人が、目の前にいる。
けれど、もう長くは触れられない。それが、言葉にしなくても分かった。
「俺は、君に謝らなければならない」
緋桜さんの手が、途中で止まる。
「守ると誓った。外の世界を見せるとも言った。なのに、何ひとつ間に合わなかった」
初音さんは、小さく首を横に振った。
「夜の空も、桜の上から見た町の灯りも、風の匂いも。外の世界は、わたしが思っていたよりずっと広くて、きれいでした」
「初音……」
「だから、もう悔いはありません」
朝の光が、初音さんの肩を淡く透かしていく。
初音さんは自分の手を見下ろし、少しだけ困ったように笑った。
「この姿でいられるのも、長くはなさそうです」
緋桜さんの紅い瞳が揺れる。
それでも、初音さんは最後までまっすぐ緋桜さんを見ていた。
「どうか、貴方の明日を歩いてください。わたしは、ずっと貴方のそばにいますから」
緋桜さんは、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「俺は、失ったものを取り戻すために、時を渡ろうとしていた。もう一度会えたなら、何かが変わる気がしていた」
緋桜さんは、久遠桜を見上げる。
夜明けの光を受けた枝先で、薄紅の花びらが揺れていた。
「でも、見えなくなっても、声が聞こえなくても。初音がそばにいてくれるなら、俺はもう迷わない」
緋桜さんの紅い瞳が、わたしを見る。
「それに、朱里にも会えたしね」
わたしがこの時代に来たことで、変わってしまったものが確かにある。
黒鉄を封じたことも、緋桜さんがこの場所に残ると決めたことも、本当なら未来を大きく変えてしまうのかもしれない。
けれど、未来で見た四社も、久遠桜も、緋桜さんも。ここから続いていくものなのだとしたら。
この夜明けは、きっと間違いじゃない。
「ちょっとー! アタイたちのこと、忘れてもらっちゃ困るんだけどー?」
振り返ると、南の方角から暁乃さんが駆けてくるところだった。
その後ろから、水継さんが息を整えながら歩いてくる。
「……忘れられては困るな。こちらも、ずいぶん無茶を支えた」
「もう寝たいんだけど」
宵白さんは眠たげな顔のまま、白銀の光をまとってふわりと降り立った。
緋桜さんは小さく笑う。
「三人とも、ありがとう。君たちがいたから、黒鉄を止められた」
暁乃さん、水継さん、宵白さん。
三人のまとう赤、青、白銀の光が、久遠桜の根元に淡く残っている。
「俺がやるべきことは、この時代で、黒鉄のような堕神が生まれない国を作る。人の祈りを、喰われるものにしない。願いが、恨みや未練に変わる前に受け止められる場所を作る」
久遠桜の幹が、淡く光る。
「初音。これからも見守っててくれるかな」
初音さんは、涙を浮かべながら微笑んだ。
「もちろん!」
ただそれだけの返事だった。
けれど、その一言に、長い時間のすべてが込められているようだった。
緋桜さんが、初音さんへ手を伸ばす。
今度は、その指先が白い光に触れた。
ほんの一瞬だけ。
緋桜さんの手と、初音さんの手が重なる。
その瞬間にも、初音さんの指先は光にほどけはじめていた。
「朱里さん」
呼ばれて、わたしは一歩前へ出た。
初音さんの手が、わたしの胸元へ触れる。
そこには、四枚の返し札があった。
「黒鉄は消え、歪んだ祈りも、久遠桜へ返りました。なら、次はあなたの番です」
返し札が、静かに熱を帯びる。
「これは、預かった力を、あるべき場所へ返すための札」
南の日輪。西の八雲。北の月代。
そして、久遠桜。
四つの光が、胸元で淡く重なった。
「あなたは、この時代に迷い込んだ祈りのようなものだから」
初音さんは、やさしく微笑む。
「返し札が、あなたをあるべき場所へ返してくれます。わたしに、その道を照らすお手伝いをさせてください」
未来へ戻れる保証なんて、本当はどこにもなかった。
過去を変えたことで、未来がどうなっているのかも分からない。
それでも、胸元の返し札は確かに熱を持っていた。
まるで、帰る場所を知っているみたいに。
「ただ……ひとつだけ」
初音さんの声が、少しだけ翳った。
「緋桜さまが繰り返してきた、やり直しの道。それは、今夜で閉じるでしょう。黒鉄を封じたまま、さらにあなたを未来へ返すとなるとかなりの力を使いますから……だから、もう、時は渡れません」
「それじゃあ、もし、未来でまた何かあったら……」
「取り返しは、つきません。これが、最後です」
怖い、と思った。
けれど初音さんは、わたしの手を強く握って、まっすぐに笑った。
「だから――今度こそ、やり直しのいらない明日を」
初音さんが、やさしく微笑む。
わたしは、戻らなければいけない。
「……はい」
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえて頷いた。
緋桜さんが、こちらを見る。
「会えてよかった。未来の俺を、頼んだ」
わたしは、もう一度頷く。
言葉にしたら、泣いてしまいそうだった。
「行きましょう」
初音さんが、わたしの手を取る。
「大切な人のところへ」
足元に薄紅の光が広がった。
久遠桜の花びらが輪を描き、わたしのまわりをゆっくりと巡りはじめる。
初音さん。
暁乃さん、水継さん、宵白さん。
柏。
夜明けの久遠桜。
すべてが、花びらの向こうで遠ざかっていく。
――緋桜さんが待つ、未来へ。
光が、視界いっぱいに広がった。
そこで、記憶が途切れた。


