千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 そう思った瞬間だった。

 黒鉄の口元が、ゆっくりと歪む。

 「道が開いたなら、行くも戻るも我の自由よ」

 黒い炎が、結界の底へ沈んだ。
 地面の下を這うように広がったそれは、久遠桜の外側でいくつもの火となって立ち上がる。

 「え……」

 火の中に、人影が見えた。

 子どもを抱いた母親。腰の曲がった老人。鍬を手にした男。
 この里に暮らす人たちが、黒い火に囲まれ、苦しそうに胸を押さえている。

 「祈りは、巫女ひとりのものではない」

 黒鉄の笑みが深くなる。

 「里の者が願い、巫女が受け、久遠桜へ届ける。お前の祝詞は今、その道を開いた」

 黒い火が、人々の足元でゆらゆらと揺れた。

 「ならば、我はその道を逆に辿る。久遠桜へ祈りを捧げた者たちへ、この炎を返してやろう」

 わたしに被害が及ぶかもしれないことは、囮になると決めたときから覚悟していた。
 けれど、黒鉄がわたしの祈りを逆に辿り、里の人たちまで巻き込むことは、誰も読めていなかった。

 「選べ、巫女」

 黒鉄の金色の瞳が、愉しげに細められる。

 「このまま我を封じるか。結界を解き、あの者たちを救うか」

 祈りを喰われる。
 それは、願う力を奪われるということだった。

 大切な人を想う気持ちも、明日を生きようとする心の灯も、黒鉄の炎に削られていく。
 火に囲まれた人々の顔から、少しずつ表情が消えていった。

 結界の光が、大きく揺らぐ。
 結界の底から伸びた黒い炎は久遠桜の根に絡みつき、祈りの道を逆に辿って、里の人々へ届こうとしている。

 このままでは――。

 緋桜さんが、久遠桜に触れていた手をわずかに離した。
 その瞬間、東の柱が薄く揺らぐ。

 「緋桜さん!」
 「仕方ない。結界を解く」
 「でも……!」
 「里の人たちを犠牲にはできない」

 緋桜さんの紅い瞳が、黒鉄を射抜いた。
 久遠桜の根に絡みついた黒い炎をほどくため、薄紅の花びらが根元へ走る。

 東の柱が弱まった、その一瞬。

 黒鉄は、それを待っていた。

 「やはり、な」

 根に巻きついていた炎が、しゅるりとほどけた。

 けれど、消えたわけではない。
 黒い炎は蛇のように向きを変え、久遠桜から手を離しかけた緋桜さんの腕へ絡みついた。

 「緋桜さん!」

 炎は腕から肩へ、肩から胸元へと這い上がる。
 さらに強く巻きつき、緋桜さんの体を久遠桜の幹へ引き戻した。

 黒い炎が縄のように緋桜さんを縛り、そのまま久遠桜へ食い込んでいく。

 「滑稽な。結界の要である桜の神が、今度は枷になるとは」

 久遠桜の幹に縛りつけられた緋桜さんの肩へ、黒い炎が食い込んだ。

 「ぐっ……」

 白い衣に、血のような黒い染みがじわりと広がっていく。
 胸元の返し札が、悲鳴を上げるように震えた。

 「守るものが多いほど、神は脆いな」

 黒い炎が、久遠桜の根を伝って広がっていく。
 緋桜さんを縛る炎に引きずられるように、薄紅の柱も大きく揺れていた。

 また、緋桜さんが――。

 そんなのは、絶対に嫌だ。

 祝詞を続けようとした。
 けれど、胸の奥まで入り込んだ黒い炎が声を押し潰す。喉が震えるだけで、言葉にならない。

 久遠桜の光が、薄くなっていく。

 そのときだった。

 消えかけていた薄紅の柱に、白い光が落ちた。

 桜の花びらが、ふわりと舞う。

 光の中に、白い巫女装束の少女が立っていた。
 腰まで届く黒髪が風に揺れる。その月明かりを含んだような瞳を、わたしはよく知っていた。

 「初音……」
 「緋桜さま」

 その声は、風に溶けそうなほどやわらかかった。

 「緋桜さまには、たくさんのものをいただきました。今度は、わたしがお返しする番です」

 初音さんが、薄紅の柱へ手を伸ばす。

 消えかけていた久遠桜の光が、静かに息を吹き返した。
 柱の根元から、白い光が水のように広がっていく。

 黒い炎は、その光に触れたところからじゅっと音を立てて薄れた。

 「お前は……」

 初音さんは黒鉄を見なかった。

 ただ、薄紅の柱に両手を添え、静かに目を伏せる。
 白い光を帯びた花びらが、久遠桜の根元へ流れ込んだ。

 根に巻きついていた黒い炎が、端からほどけていく。
 里へ伸びようとしていた黒い筋も、薄紅の光に押し戻された。

 黒い炎の向こうで、初音さんと目が合う。
 初音さんは、わたしに向かって小さく笑いかけた。

 「朱里さん」

 その眼差しだけで、伝わってくるものがあった。

 初音さんが見たかった世界。
 緋桜さんに見せてもらった、小さくて眩しい景色。

 そして、わたしが帰りたい未来。

 別のもののはずなのに、どこかで同じ願いにつながっている気がした。

 「わたしが見たかった世界を、あなたは歩いてくれた」

 初音さんの手が、わたしの手に重なる。

 あたたかかった。

 「緋桜さまを、お願いします」

 初音さんの瞳が、緋桜さんへ向く。

 それ以上は何も言わなかった。
 けれど、その一言だけで十分だった。

 「……はい」

 足元で、黒い炎が軋む。

 わたしは顔を上げた。
 胸元の返し札が、一斉に光る。

 赤。青。白銀。薄紅。

 ばらばらに揺らいでいた四つの光が、初音さんの立つ柱を中心に、もう一度つながっていく。

 南の赤い光が強く燃え、西の青い水流が澄み、北の白銀が夜明け前の空へ広がった。

 「なぜだ……なぜ、まだ抗える!」

 怒りに歪んだ声が、結界の中に響く。

 「もう一度、会いたい人がいるから」

 それは私の想いでもあり、初音さんの想いでもある。

 口にした瞬間、胸元の返し札が強く光った。

 返し札の光は久遠桜へ向かって走り、緋桜さんを縛っていた炎も薄紅の光に焼かれて緩んでいく。

 わたしは祝詞を続ける。

 初音さんから立ち昇る薄紅の柱と、三柱の力が結界をつなぎ直していく。

 赤い光が、黒鉄に絡みついた欲を焼く。
 青い水が、濁った恨みを洗い流す。
 白銀の光が、消えずに残った未練を静かに包む。

 久遠桜の花びらが、黒鉄の体を取り囲んだ。

 「やめろ……!」

 黒鉄の声が、初めて乱れる。

 「我の力を奪うな!」
 「違う」

 黒い炎に縛られたまま、緋桜さんが手を伸ばした。

 「それは、お前の力じゃない」

 久遠桜の枝が、大きく揺れる。
 緋桜さんの指先から、薄紅の光が伸びた。

 黒鉄の体が、少しずつ崩れ始める。

 「我は……神に戻るはずだった……」

 濁った金色の瞳が、緋桜さんを睨む。

 「我こそが、すべての願いを統べる神に……!」

 黒い炎が、最後の抵抗のように燃え上がる。
 けれど、久遠桜の花びらがそれを包み込んだ。

 「返してもらう、お前が奪ったものを」

 緋桜さんの手が、縛めの中から黒鉄へ伸びる。
 黒鉄の叫びが、夜明けの空へ溶けていく。

 緋桜さんを縛っていた炎も、久遠桜の根に絡みついていた炎も、薄紅の花びらの中でほどけていった。

 久遠桜の根元には、ただ花びらだけが降り積もっていた。

 胸元の返し札から伝わっていた三柱の気配も、少しずつ遠ざかっていく。
 柏が、息を吐くように尻尾を揺らした。

「……終わったみたいね」