そう思った瞬間だった。
黒鉄の口元が、ゆっくりと歪む。
「道が開いたなら、行くも戻るも我の自由よ」
黒い炎が、結界の底へ沈んだ。
地面の下を這うように広がったそれは、久遠桜の外側でいくつもの火となって立ち上がる。
「え……」
火の中に、人影が見えた。
子どもを抱いた母親。腰の曲がった老人。鍬を手にした男。
この里に暮らす人たちが、黒い火に囲まれ、苦しそうに胸を押さえている。
「祈りは、巫女ひとりのものではない」
黒鉄の笑みが深くなる。
「里の者が願い、巫女が受け、久遠桜へ届ける。お前の祝詞は今、その道を開いた」
黒い火が、人々の足元でゆらゆらと揺れた。
「ならば、我はその道を逆に辿る。久遠桜へ祈りを捧げた者たちへ、この炎を返してやろう」
わたしに被害が及ぶかもしれないことは、囮になると決めたときから覚悟していた。
けれど、黒鉄がわたしの祈りを逆に辿り、里の人たちまで巻き込むことは、誰も読めていなかった。
「選べ、巫女」
黒鉄の金色の瞳が、愉しげに細められる。
「このまま我を封じるか。結界を解き、あの者たちを救うか」
祈りを喰われる。
それは、願う力を奪われるということだった。
大切な人を想う気持ちも、明日を生きようとする心の灯も、黒鉄の炎に削られていく。
火に囲まれた人々の顔から、少しずつ表情が消えていった。
結界の光が、大きく揺らぐ。
結界の底から伸びた黒い炎は久遠桜の根に絡みつき、祈りの道を逆に辿って、里の人々へ届こうとしている。
このままでは――。
緋桜さんが、久遠桜に触れていた手をわずかに離した。
その瞬間、東の柱が薄く揺らぐ。
「緋桜さん!」
「仕方ない。結界を解く」
「でも……!」
「里の人たちを犠牲にはできない」
緋桜さんの紅い瞳が、黒鉄を射抜いた。
久遠桜の根に絡みついた黒い炎をほどくため、薄紅の花びらが根元へ走る。
東の柱が弱まった、その一瞬。
黒鉄は、それを待っていた。
「やはり、な」
根に巻きついていた炎が、しゅるりとほどけた。
けれど、消えたわけではない。
黒い炎は蛇のように向きを変え、久遠桜から手を離しかけた緋桜さんの腕へ絡みついた。
「緋桜さん!」
炎は腕から肩へ、肩から胸元へと這い上がる。
さらに強く巻きつき、緋桜さんの体を久遠桜の幹へ引き戻した。
黒い炎が縄のように緋桜さんを縛り、そのまま久遠桜へ食い込んでいく。
「滑稽な。結界の要である桜の神が、今度は枷になるとは」
久遠桜の幹に縛りつけられた緋桜さんの肩へ、黒い炎が食い込んだ。
「ぐっ……」
白い衣に、血のような黒い染みがじわりと広がっていく。
胸元の返し札が、悲鳴を上げるように震えた。
「守るものが多いほど、神は脆いな」
黒い炎が、久遠桜の根を伝って広がっていく。
緋桜さんを縛る炎に引きずられるように、薄紅の柱も大きく揺れていた。
また、緋桜さんが――。
そんなのは、絶対に嫌だ。
祝詞を続けようとした。
けれど、胸の奥まで入り込んだ黒い炎が声を押し潰す。喉が震えるだけで、言葉にならない。
久遠桜の光が、薄くなっていく。
そのときだった。
消えかけていた薄紅の柱に、白い光が落ちた。
桜の花びらが、ふわりと舞う。
光の中に、白い巫女装束の少女が立っていた。
腰まで届く黒髪が風に揺れる。その月明かりを含んだような瞳を、わたしはよく知っていた。
「初音……」
「緋桜さま」
その声は、風に溶けそうなほどやわらかかった。
「緋桜さまには、たくさんのものをいただきました。今度は、わたしがお返しする番です」
初音さんが、薄紅の柱へ手を伸ばす。
消えかけていた久遠桜の光が、静かに息を吹き返した。
柱の根元から、白い光が水のように広がっていく。
黒い炎は、その光に触れたところからじゅっと音を立てて薄れた。
「お前は……」
初音さんは黒鉄を見なかった。
ただ、薄紅の柱に両手を添え、静かに目を伏せる。
白い光を帯びた花びらが、久遠桜の根元へ流れ込んだ。
根に巻きついていた黒い炎が、端からほどけていく。
里へ伸びようとしていた黒い筋も、薄紅の光に押し戻された。
黒い炎の向こうで、初音さんと目が合う。
初音さんは、わたしに向かって小さく笑いかけた。
「朱里さん」
その眼差しだけで、伝わってくるものがあった。
初音さんが見たかった世界。
緋桜さんに見せてもらった、小さくて眩しい景色。
そして、わたしが帰りたい未来。
別のもののはずなのに、どこかで同じ願いにつながっている気がした。
「わたしが見たかった世界を、あなたは歩いてくれた」
初音さんの手が、わたしの手に重なる。
あたたかかった。
「緋桜さまを、お願いします」
初音さんの瞳が、緋桜さんへ向く。
それ以上は何も言わなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。
「……はい」
足元で、黒い炎が軋む。
わたしは顔を上げた。
胸元の返し札が、一斉に光る。
赤。青。白銀。薄紅。
ばらばらに揺らいでいた四つの光が、初音さんの立つ柱を中心に、もう一度つながっていく。
南の赤い光が強く燃え、西の青い水流が澄み、北の白銀が夜明け前の空へ広がった。
「なぜだ……なぜ、まだ抗える!」
怒りに歪んだ声が、結界の中に響く。
「もう一度、会いたい人がいるから」
それは私の想いでもあり、初音さんの想いでもある。
口にした瞬間、胸元の返し札が強く光った。
返し札の光は久遠桜へ向かって走り、緋桜さんを縛っていた炎も薄紅の光に焼かれて緩んでいく。
わたしは祝詞を続ける。
初音さんから立ち昇る薄紅の柱と、三柱の力が結界をつなぎ直していく。
赤い光が、黒鉄に絡みついた欲を焼く。
青い水が、濁った恨みを洗い流す。
白銀の光が、消えずに残った未練を静かに包む。
久遠桜の花びらが、黒鉄の体を取り囲んだ。
「やめろ……!」
黒鉄の声が、初めて乱れる。
「我の力を奪うな!」
「違う」
黒い炎に縛られたまま、緋桜さんが手を伸ばした。
「それは、お前の力じゃない」
久遠桜の枝が、大きく揺れる。
緋桜さんの指先から、薄紅の光が伸びた。
黒鉄の体が、少しずつ崩れ始める。
「我は……神に戻るはずだった……」
濁った金色の瞳が、緋桜さんを睨む。
「我こそが、すべての願いを統べる神に……!」
黒い炎が、最後の抵抗のように燃え上がる。
けれど、久遠桜の花びらがそれを包み込んだ。
「返してもらう、お前が奪ったものを」
緋桜さんの手が、縛めの中から黒鉄へ伸びる。
黒鉄の叫びが、夜明けの空へ溶けていく。
緋桜さんを縛っていた炎も、久遠桜の根に絡みついていた炎も、薄紅の花びらの中でほどけていった。
久遠桜の根元には、ただ花びらだけが降り積もっていた。
胸元の返し札から伝わっていた三柱の気配も、少しずつ遠ざかっていく。
柏が、息を吐くように尻尾を揺らした。
「……終わったみたいね」


