緋桜さんが久遠桜へ手を触れると、薄紅の光が幹の奥から静かににじみ出した。
胸元の返し札が、ひとつずつ熱を帯びる。
まず、南の日輪の札が赤く光った。遠く離れた祠で、暁乃さんが力を起こしたのだと分かる。
朝日のような赤い光が、地面の下を通って久遠桜へ届いた。
次に、西の八雲の札が青色に。続いて、北の月代の札が白銀に輝く。
「久遠桜よ。四方の祈りを結び、この地を守る結界となれ」
緋桜さんの声が、夜明け前の空気を震わせる。
薄紅の花びらが舞い上がった。
赤、青、白銀、薄紅。
四つの光が久遠桜の根元で重なり、大きな輪を作っていく。
わたしはその中心に膝をつき、胸の前で手を合わせた。
「久遠桜さま」
声が、夜明け前の空へ吸い込まれる。
「この地に預けられた祈りを、どうかあるべき場所へ」
久遠桜が、ざあっと揺れた。
枝先からこぼれた花びらが、結界の中をゆっくりと巡りはじめる。
胸の奥に、ざらりとした気配が触れた。
憎しみ。未練。欲。
誰かを想う気持ちが、どこかで歪んでしまったもの。
それらが黒い糸のように、久遠桜の根元へ集まってくる。
「来る」
緋桜さんの低い声と同時に、久遠桜の前で黒い炎が噴き上がった。
炎の中に、人影が浮かび上がる。
藤色を帯びた白髪。濁った金色の瞳。顔の右半分を覆う、焼け痕のような黒い痣。
あの日、初音さんを奪った堕神。
黒鉄だ。
その目が、わたしの奥にあるものを探るように細められた。
「……その魂」
黒鉄の口元が、ゆっくりと歪む。
「久遠桜の気配に紛れて見えなかったが……お前からは、あのとき喰い損ねた巫女と同じ匂いがする」
ぞくりと背筋が冷えた。
今まで、この時代の黒鉄は、わたしの存在に気づいていなかった。
緋桜さんの結界と久遠桜の力が、わたしの魂の気配を覆い隠してくれていたからだ。
初音さんと同じ魂を持っていても、それは久遠桜の気配の中に紛れていた。
けれど今、わたしは自分の意思で祝詞を捧げている。
黒鉄を呼ぶために。
「よくもまあ、自ら餌になりに来たものだ」
怖くないと言ったら嘘になる。
それでも、これはわたしが選んだ役目だ。
「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
「させない」
緋桜さんが、わたしの少し前に立った。
完全に遮るのではなく、いつでも手を伸ばせる位置。
わたしを守りながら、それでも結界の要から離れないぎりぎりの場所だった。
黒鉄の口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
「失ったばかりだというのに、まだ守れると信じているのか」
「黙れ」
薄紅の花びらが、一斉に黒鉄へ向かった。
同時に、南の返し札から赤い光が噴き上がる。
朝日のような光が、黒い炎を焼いた。
西の札からは青い水流が走り、黒鉄の影を押し返す。北の札から伸びた白銀の光が、黒鉄の足元を縫い止めた。
黒鉄の体から、黒い靄が剥がれ始める。
会いたい。戻ってきてほしい。
許せない。奪い返したい。
声にならない声が、結界の中でほどけていく。
久遠桜の花びらが、黒鉄の体を包み込んだ。
薄紅の光に触れた黒い炎が、じゅっと音を立てて消える。
結界は効いている。
黒鉄に喰われた祈りがほどかれ、その力が少しずつ削がれているのだ。
「浄化の結界か。小賢しい」
黒鉄が腕を振るうと、黒い炎が結界の内側で暴れた。
それでも、三柱はそれぞれの祠で結界の柱を支えている。
緋桜さんの花びらが、暴れる炎を押し返した。
このままなら、封じられる。
胸元の返し札が、ひとつずつ熱を帯びる。
まず、南の日輪の札が赤く光った。遠く離れた祠で、暁乃さんが力を起こしたのだと分かる。
朝日のような赤い光が、地面の下を通って久遠桜へ届いた。
次に、西の八雲の札が青色に。続いて、北の月代の札が白銀に輝く。
「久遠桜よ。四方の祈りを結び、この地を守る結界となれ」
緋桜さんの声が、夜明け前の空気を震わせる。
薄紅の花びらが舞い上がった。
赤、青、白銀、薄紅。
四つの光が久遠桜の根元で重なり、大きな輪を作っていく。
わたしはその中心に膝をつき、胸の前で手を合わせた。
「久遠桜さま」
声が、夜明け前の空へ吸い込まれる。
「この地に預けられた祈りを、どうかあるべき場所へ」
久遠桜が、ざあっと揺れた。
枝先からこぼれた花びらが、結界の中をゆっくりと巡りはじめる。
胸の奥に、ざらりとした気配が触れた。
憎しみ。未練。欲。
誰かを想う気持ちが、どこかで歪んでしまったもの。
それらが黒い糸のように、久遠桜の根元へ集まってくる。
「来る」
緋桜さんの低い声と同時に、久遠桜の前で黒い炎が噴き上がった。
炎の中に、人影が浮かび上がる。
藤色を帯びた白髪。濁った金色の瞳。顔の右半分を覆う、焼け痕のような黒い痣。
あの日、初音さんを奪った堕神。
黒鉄だ。
その目が、わたしの奥にあるものを探るように細められた。
「……その魂」
黒鉄の口元が、ゆっくりと歪む。
「久遠桜の気配に紛れて見えなかったが……お前からは、あのとき喰い損ねた巫女と同じ匂いがする」
ぞくりと背筋が冷えた。
今まで、この時代の黒鉄は、わたしの存在に気づいていなかった。
緋桜さんの結界と久遠桜の力が、わたしの魂の気配を覆い隠してくれていたからだ。
初音さんと同じ魂を持っていても、それは久遠桜の気配の中に紛れていた。
けれど今、わたしは自分の意思で祝詞を捧げている。
黒鉄を呼ぶために。
「よくもまあ、自ら餌になりに来たものだ」
怖くないと言ったら嘘になる。
それでも、これはわたしが選んだ役目だ。
「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
「させない」
緋桜さんが、わたしの少し前に立った。
完全に遮るのではなく、いつでも手を伸ばせる位置。
わたしを守りながら、それでも結界の要から離れないぎりぎりの場所だった。
黒鉄の口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
「失ったばかりだというのに、まだ守れると信じているのか」
「黙れ」
薄紅の花びらが、一斉に黒鉄へ向かった。
同時に、南の返し札から赤い光が噴き上がる。
朝日のような光が、黒い炎を焼いた。
西の札からは青い水流が走り、黒鉄の影を押し返す。北の札から伸びた白銀の光が、黒鉄の足元を縫い止めた。
黒鉄の体から、黒い靄が剥がれ始める。
会いたい。戻ってきてほしい。
許せない。奪い返したい。
声にならない声が、結界の中でほどけていく。
久遠桜の花びらが、黒鉄の体を包み込んだ。
薄紅の光に触れた黒い炎が、じゅっと音を立てて消える。
結界は効いている。
黒鉄に喰われた祈りがほどかれ、その力が少しずつ削がれているのだ。
「浄化の結界か。小賢しい」
黒鉄が腕を振るうと、黒い炎が結界の内側で暴れた。
それでも、三柱はそれぞれの祠で結界の柱を支えている。
緋桜さんの花びらが、暴れる炎を押し返した。
このままなら、封じられる。


