千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 緋桜さんが久遠桜へ手を触れると、薄紅の光が幹の奥から静かににじみ出した。

 胸元の返し札が、ひとつずつ熱を帯びる。

 まず、南の日輪の札が赤く光った。遠く離れた祠で、暁乃さんが力を起こしたのだと分かる。
 朝日のような赤い光が、地面の下を通って久遠桜へ届いた。

 次に、西の八雲の札が青色に。続いて、北の月代の札が白銀に輝く。

 「久遠桜よ。四方の祈りを結び、この地を守る結界となれ」

 緋桜さんの声が、夜明け前の空気を震わせる。

 薄紅の花びらが舞い上がった。

 赤、青、白銀、薄紅。

 四つの光が久遠桜の根元で重なり、大きな輪を作っていく。

 わたしはその中心に膝をつき、胸の前で手を合わせた。

 「久遠桜さま」

 声が、夜明け前の空へ吸い込まれる。

 「この地に預けられた祈りを、どうかあるべき場所へ」

 久遠桜が、ざあっと揺れた。
 枝先からこぼれた花びらが、結界の中をゆっくりと巡りはじめる。

 胸の奥に、ざらりとした気配が触れた。

 憎しみ。未練。欲。
 誰かを想う気持ちが、どこかで歪んでしまったもの。

 それらが黒い糸のように、久遠桜の根元へ集まってくる。

 「来る」

 緋桜さんの低い声と同時に、久遠桜の前で黒い炎が噴き上がった。

 炎の中に、人影が浮かび上がる。
 藤色を帯びた白髪。濁った金色の瞳。顔の右半分を覆う、焼け痕のような黒い痣。

 あの日、初音さんを奪った堕神。

 黒鉄だ。

 その目が、わたしの奥にあるものを探るように細められた。

 「……その魂」

 黒鉄の口元が、ゆっくりと歪む。

 「久遠桜の気配に紛れて見えなかったが……お前からは、あのとき喰い損ねた巫女と同じ匂いがする」

 ぞくりと背筋が冷えた。

 今まで、この時代の黒鉄は、わたしの存在に気づいていなかった。

 緋桜さんの結界と久遠桜の力が、わたしの魂の気配を覆い隠してくれていたからだ。
 初音さんと同じ魂を持っていても、それは久遠桜の気配の中に紛れていた。

 けれど今、わたしは自分の意思で祝詞を捧げている。
 黒鉄を呼ぶために。

 「よくもまあ、自ら餌になりに来たものだ」

 怖くないと言ったら嘘になる。
 それでも、これはわたしが選んだ役目だ。

 「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
 「させない」

 緋桜さんが、わたしの少し前に立った。

 完全に遮るのではなく、いつでも手を伸ばせる位置。
 わたしを守りながら、それでも結界の要から離れないぎりぎりの場所だった。

 黒鉄の口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。

 「失ったばかりだというのに、まだ守れると信じているのか」
 「黙れ」

 薄紅の花びらが、一斉に黒鉄へ向かった。

 同時に、南の返し札から赤い光が噴き上がる。
 朝日のような光が、黒い炎を焼いた。

 西の札からは青い水流が走り、黒鉄の影を押し返す。北の札から伸びた白銀の光が、黒鉄の足元を縫い止めた。

 黒鉄の体から、黒い靄が剥がれ始める。

 会いたい。戻ってきてほしい。
 許せない。奪い返したい。

 声にならない声が、結界の中でほどけていく。

 久遠桜の花びらが、黒鉄の体を包み込んだ。
 薄紅の光に触れた黒い炎が、じゅっと音を立てて消える。

 結界は効いている。

 黒鉄に喰われた祈りがほどかれ、その力が少しずつ削がれているのだ。

 「浄化の結界か。小賢しい」

 黒鉄が腕を振るうと、黒い炎が結界の内側で暴れた。
 それでも、三柱はそれぞれの祠で結界の柱を支えている。
 緋桜さんの花びらが、暴れる炎を押し返した。

 このままなら、封じられる。