***
森の小道を駆け上がると、道はぷつりと途切れていた。
錆びた看板に、「立入禁止」の文字。
雨は、いつのまにか本降りになっている。
森の奥に、増水した川を渡る古い木橋があった。
雨に濡れた欄干は黒ずみ、足元の板は今にも抜けそうだ。
橋の真ん中で、雛乃が京介を欄干に寄りかからせていた。
京介は雨の中、スマホを構えている。
「もうちょっと、こっち寄って! 久遠桜が見切れちゃう!」
「この橋、結構古いんだろ。あんまりはしゃぐなって」
「大丈夫だって。ほら、早く撮って!」
声を上げようとした、その瞬間。
ぎしっ、と古い木の欄干が軋んだ。
「京介――!」
ばきっ、と音を立てて、欄干が折れる。
京介の体が、隙間から外へ滑り落ちた。
ばしゃんと川に落ちる音と、雛乃の悲鳴がほとんど同時にあたりに響く。
考える前に、体が動いていた。
わたしは橋を駆け上がり、欄干を蹴って川へ飛び込む。
「朱里――!?」
冷たい水が、全身を呑みこんだ。
流れは、思っていたよりずっと速い。
水の中で目を開けると、京介の制服の白がすぐそこで揺れていた。
必死に水を掻いて、その腕を掴む。
京介は、ぐったりと意識を失っている。
ありったけの力で、岸のほうへ押した。
流れの淀みに乗って、京介の体が岸へ近づいていく。
「京介を――!」
そこまでが、精いっぱいだった。
岸辺で、雛乃がはっとしたように動く。
流れついた京介の腕を、両手で引き上げていた。
――よかった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
足をすくわれ、体が流れに呑まれる。
息が、できない。
伸ばした指先は、もう、何にも届かない。
遠ざかる岸辺で、雛乃が泣きそうな顔をして、動かない京介のそばに膝をついている。
……京介は、助かった。
なのに、胸の奥がひどく寂しい。
飛び込んだときは、岸まで押し出せば自分もどうにか戻れると思っていた。
でも、川は思っていたよりずっと深くて、流れも速い。
もう、足がどこにもつかない。
きっとわたしは助からない。
そう分かった瞬間、これまで押し込めていた気持ちが、ふいに胸の底から浮かび上がってきた。
悪い人生だったわけじゃない。
大きな病気もしなかったし、帰る家もあった。
つらいことがなかったわけじゃないけれど。
ごく普通の、平凡な十七年だったと思う。
それでも……もしも来世があるのなら。
一度でいいから、誰かの一番になってみたい。
誰かにとっての、替えのきかない“特別”になってみたかった。
視界が、暗くなっていく。
その時――。
雨雲が裂け、水の中へ月の光が差し込んだ。
やわらかな光に導かれるように、桜の花びらが川底へ降りそそぐ。
「……り。……かり」
誰かが、わたしの名前を呼んでいる。
花びらと月光の中、白い衣をなびかせ、紅い瞳の男が手を伸ばす。
長い白銀の髪が、水の中でほどけるように広がっていた。
毛先だけが、桜の花びらみたいに淡く染まっている。
「朱里」
わたしの体は、ふわりと抱き上げられた。
「――迎えに来たよ」
知らない人のはずなのに。
わたしはその声を、ずっと前から知っている気がする。
落ちていく意識の中で、視界が白くほどけた。
森の小道を駆け上がると、道はぷつりと途切れていた。
錆びた看板に、「立入禁止」の文字。
雨は、いつのまにか本降りになっている。
森の奥に、増水した川を渡る古い木橋があった。
雨に濡れた欄干は黒ずみ、足元の板は今にも抜けそうだ。
橋の真ん中で、雛乃が京介を欄干に寄りかからせていた。
京介は雨の中、スマホを構えている。
「もうちょっと、こっち寄って! 久遠桜が見切れちゃう!」
「この橋、結構古いんだろ。あんまりはしゃぐなって」
「大丈夫だって。ほら、早く撮って!」
声を上げようとした、その瞬間。
ぎしっ、と古い木の欄干が軋んだ。
「京介――!」
ばきっ、と音を立てて、欄干が折れる。
京介の体が、隙間から外へ滑り落ちた。
ばしゃんと川に落ちる音と、雛乃の悲鳴がほとんど同時にあたりに響く。
考える前に、体が動いていた。
わたしは橋を駆け上がり、欄干を蹴って川へ飛び込む。
「朱里――!?」
冷たい水が、全身を呑みこんだ。
流れは、思っていたよりずっと速い。
水の中で目を開けると、京介の制服の白がすぐそこで揺れていた。
必死に水を掻いて、その腕を掴む。
京介は、ぐったりと意識を失っている。
ありったけの力で、岸のほうへ押した。
流れの淀みに乗って、京介の体が岸へ近づいていく。
「京介を――!」
そこまでが、精いっぱいだった。
岸辺で、雛乃がはっとしたように動く。
流れついた京介の腕を、両手で引き上げていた。
――よかった。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
足をすくわれ、体が流れに呑まれる。
息が、できない。
伸ばした指先は、もう、何にも届かない。
遠ざかる岸辺で、雛乃が泣きそうな顔をして、動かない京介のそばに膝をついている。
……京介は、助かった。
なのに、胸の奥がひどく寂しい。
飛び込んだときは、岸まで押し出せば自分もどうにか戻れると思っていた。
でも、川は思っていたよりずっと深くて、流れも速い。
もう、足がどこにもつかない。
きっとわたしは助からない。
そう分かった瞬間、これまで押し込めていた気持ちが、ふいに胸の底から浮かび上がってきた。
悪い人生だったわけじゃない。
大きな病気もしなかったし、帰る家もあった。
つらいことがなかったわけじゃないけれど。
ごく普通の、平凡な十七年だったと思う。
それでも……もしも来世があるのなら。
一度でいいから、誰かの一番になってみたい。
誰かにとっての、替えのきかない“特別”になってみたかった。
視界が、暗くなっていく。
その時――。
雨雲が裂け、水の中へ月の光が差し込んだ。
やわらかな光に導かれるように、桜の花びらが川底へ降りそそぐ。
「……り。……かり」
誰かが、わたしの名前を呼んでいる。
花びらと月光の中、白い衣をなびかせ、紅い瞳の男が手を伸ばす。
長い白銀の髪が、水の中でほどけるように広がっていた。
毛先だけが、桜の花びらみたいに淡く染まっている。
「朱里」
わたしの体は、ふわりと抱き上げられた。
「――迎えに来たよ」
知らない人のはずなのに。
わたしはその声を、ずっと前から知っている気がする。
落ちていく意識の中で、視界が白くほどけた。


