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社へ戻るころには、空が夕焼けに染まりはじめていた。
久遠桜の枝が、赤い光を受けて淡く透けている。
社の前には、緋桜さんが立っていた。
「そろったんだね」
「はい」
懐の中で、三枚の返し札がかすかに熱を持っている。
南の日輪、西の八雲、北の月代。
そして、東の久遠。
まだ未来のような四社はない。けれど、それぞれの土地に宿りはじめた祈りは、確かに応えてくれた。
「暁乃さんも、水継さんも、宵白さんも、力を貸してくれるそうです」
「そうか」
緋桜さんは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「朱里がつないでくれたんだね」
「私は、お願いしただけです」
「それがいちばん難しいんだよ」
緋桜さんはそう言って、久遠桜のほうへ歩き出した。
わたしもその隣に並ぶ。
夕暮れの風が、桜の花びらを静かに揺らしていた。
足元には、薄紅の花びらが雪のように積もっている。
「朱里」
「はい」
不意に聞かれて、顔を上げた。
「外の世界は、楽しい?」
緋桜さんは久遠桜を見上げている。
夕焼けに照らされた横顔は穏やかで、けれどどこか遠くを見ているようだった。
「初音が、よく言っていたんだ。外の世界を見てみたいって。彼女は奥座敷にいて、久遠桜の巫女として祈りを預かっていた。だから、外の世界をほとんど知らなかったんだ」
緋桜さんの指先が、久遠桜の幹に触れる。
「朝市のざわめきも、軒先に干された反物の色も、雨上がりの道に映る空も。もっともっと、いろんなものを見せてやれると思っていた」
花びらが一枚、足元へ落ちた。
「でも、間に合わなかった」
何も言えなかった。
初音さんは、そんな小さな景色をひとつひとつ宝物みたいに見つめていたのだろう。
わたしにとっては、当たり前に通り過ぎてきたもの。
学校へ行く道も、駅前の人混みも、夕方のコンビニの明かりも。
初音さんにとっては、きっと全部が、見たくても見られなかった外の世界だった。
「……変な感じです」
ぽつりとこぼすと、緋桜さんがこちらを見た。
「変?」
「はい。私は学校にも通って、普通の暮らしをしていて。初音さんが見たかった外の世界に、きっと毎日いたはずなのに」
うまく言えないまま、指先を握りしめる。
「でも、それをちゃんと楽しいって思えるようになったのは、緋桜さんに会ってからなんです」
緋桜さんの紅い瞳が、わずかに揺れた。
「それまでは外にいても、どこにも居場所がないみたいでした。学校にいても、家にいても、ずっとひとりで」
夕暮れの光が、久遠桜の幹を淡く染めている。
でも、緋桜さんがわたしの名前を呼んでくれたあの日から。
わたしを、誰かの代わりではなく、朱里として見てくれたあの日から。
「初音さんが憧れた世界と同じかは分かりません。でも、緋桜さんに会って、私はやっと気づけたんです」
緋桜さんが、静かにこちらを見る。
「世界は、こんなにも広かったんだなって」
その瞬間、緋桜さんの表情がふっと止まった。
夕焼けに染まる久遠桜の下で、緋桜さんは一瞬、別の景色を見ているようだった。
「……そうか」
その横顔を見ていて、なんとなく分かった。
緋桜さんはきっと今、わたしの言葉に初音さんを重ねている。
そういえば、夢で見た初音さんも、世界を見て泣きながら笑っていた。
世界は、こんなにも広いんですね、と。
以前のわたしなら、それを寂しく思ったかもしれない。
でも今は、ただ切なかった。この人はまだ、初音さんを失ったばかりなのだから。
やがて緋桜さんは、まっすぐにわたしを見た。
「初音の願いを奪ったものに、君の未来まで奪わせるわけにはいかない」
緋桜さんの紅い瞳が、夕焼けを映して静かに光る。
わたしは懐から返し札を取り出した。
三枚の札は、夕暮れの光を受けて、それぞれに淡く輝いている。
「明日で、終わりにしよう」
「……はい」
返事をした瞬間、久遠桜の枝がざあっと揺れた。
風はない。それでも花びらは舞い上がり、夕暮れの空へ吸い込まれていく。
まるで久遠桜が、わたしたちの誓いを聞き届けたみたいだった。


