***
北の祠へ向かったのは、その日の午後だった。
水継さんの力を借りられることになったあと、柏とともにそのまま川辺を離れ、細い山道を登っていく。
木々の隙間から差し込む光はやわらかく、足元には小さな白い花が点々と咲いていた。
道の端には、誰かが踏み固めた跡がうっすらと残っている。
暁乃さんも水継さんも、まだはっきりとした社を持っているわけではなかった。
けれど、北の祠は少し違った。
木立の奥にある小さな祠は、ほかの場所よりも手が入っているように見えた。
大きな社ではない。
けれど、苔むした石段の脇には白い花が供えられ、古い木の扉の前には、小さな灯明皿がきちんと置かれている。
まだ神社と呼べるほど立派ではない。
それでも、ここはもう誰かが足を運び、手を合わせる場所として整えられていた。
おそらく里の人たちが、祈る場所として大切に守っているのだろう。
未来の月代神社は、学びや知恵、進む道に迷った人の祈りを受け止める場所だった。
受験の合格祈願に訪れる人も多く、境内には絵馬がいくつも掛けられていた。
今はまだ小さな祠でしかない。
けれど、この澄んだ空気の中には、何かを学び、選び、決めようとする人たちの祈りが、少しずつ積もっているように感じた。
その祠の前に、白い少年が座っていた。
水色の髪は顎のあたりで切りそろえられ、眠たげな目は、どこか遠くを見ているようだった。
水継さん同様に、未来で会った宵白さんよりも少し幼い。
けれど、こちらを見る静かな気配は、確かに同じだった。
「僕になんの用?」
少年は、祠の柱にもたれたまま尋ねた。
「あの、宵白さん……ですよね」
「そう呼ぶ人もいる」
眠たげな目が、ゆっくりとこちらを見る。
わたしは、ここへ来た理由をできるだけ簡単に伝えた。
黒鉄を封じるために、四方の力を借りたいこと。
南の暁乃さんと、西の水継さんが、もう力を貸してくれること。
そして、北の力がどうしても必要なこと。
話しているあいだ、宵白さんは口を挟まなかった。ただ、ときどき瞬きをしながら、静かに聞いている。
「……だから、お願いに来ました」
言い終えると、宵白さんは少しだけ首を傾げた。
「いいよ」
「……え?」
「力を貸せばいいんでしょう。いいよ」
あまりにもあっさりした返事に、言葉が止まった。
「本当に、いいんですか?」
「うん」
「理由とか、条件とかは……」
宵白さんは、小さくあくびをした。
「じゃあ、二つだけ」
「……はい」
「ひとつ。全部終わったら、しばらく起こさないで」
「分かりました」
それだけなら、宵白さんらしい願いだ。
けれど、続く沈黙が少しだけ違っていた。
眠たげな目の奥で、白銀の光がかすかに揺れている。
次の願いは、軽いものではないのかもしれない。
「ふたつ」
眠たげな目が、すっとわたしを見た。
「君がいちばん帰りたい場所を、僕に見せて」
「……どういうことですか」
「ここに来る人はみんな、進む道に迷ってる。でも君はそうじゃなさそうだから。帰る道に迷ってない人の頭の中を、一度見てみたかったんだ」
断る理由は、なかった。
宵白さんの指先が、わたしの額にそっと触れる。
浮かんだのは、縁側で、お寿司を食べた後に緋桜さんと並んで月を見た夜。
池に映った月が、風で揺れていた、何でもない時間だった。
「……なるほどね」
宵白さんは指を離し、ほんの少しだけ笑った。
「いいよ。力を貸してあげる」
拍子抜けするほど静かな承諾だった。
「彼を、失いたくないんでしょう?」
白藤の下で倒れていた緋桜さんの姿が、頭に浮かんだ。
冷たくなっていく手。逃げろ、と告げた声。
宵白さんには、本当に見えているのかもしれない。
わたしが言葉にしていないものまで。
「……はい」
ようやく、それだけを返した。
「そう」
宵白さんは札を手にしたまま、また祠の柱にもたれた。
「じゃ、おやすみ」
「えっ」
そう言うなり、宵白さんは目を閉じてしまう。
しばらく待ってみたけれど、宵白さんはすーすーと寝息を立てていて、もう動く気配がなかった。
「……本当に、いいんですよね?」
足元では、柏が前足で顔を撫でるように毛づくろいをしている。
「本人がいいって言ったんだから、いいんじゃない?」
「……」
たしかに、そうなのかもしれない。
わたしは小さく息をつき、月代の札が光を宿したことを確かめた。
南の日輪。西の八雲。北の月代。
これで、未来の四社につながる三つの力がそろった。
北の祠へ向かったのは、その日の午後だった。
水継さんの力を借りられることになったあと、柏とともにそのまま川辺を離れ、細い山道を登っていく。
木々の隙間から差し込む光はやわらかく、足元には小さな白い花が点々と咲いていた。
道の端には、誰かが踏み固めた跡がうっすらと残っている。
暁乃さんも水継さんも、まだはっきりとした社を持っているわけではなかった。
けれど、北の祠は少し違った。
木立の奥にある小さな祠は、ほかの場所よりも手が入っているように見えた。
大きな社ではない。
けれど、苔むした石段の脇には白い花が供えられ、古い木の扉の前には、小さな灯明皿がきちんと置かれている。
まだ神社と呼べるほど立派ではない。
それでも、ここはもう誰かが足を運び、手を合わせる場所として整えられていた。
おそらく里の人たちが、祈る場所として大切に守っているのだろう。
未来の月代神社は、学びや知恵、進む道に迷った人の祈りを受け止める場所だった。
受験の合格祈願に訪れる人も多く、境内には絵馬がいくつも掛けられていた。
今はまだ小さな祠でしかない。
けれど、この澄んだ空気の中には、何かを学び、選び、決めようとする人たちの祈りが、少しずつ積もっているように感じた。
その祠の前に、白い少年が座っていた。
水色の髪は顎のあたりで切りそろえられ、眠たげな目は、どこか遠くを見ているようだった。
水継さん同様に、未来で会った宵白さんよりも少し幼い。
けれど、こちらを見る静かな気配は、確かに同じだった。
「僕になんの用?」
少年は、祠の柱にもたれたまま尋ねた。
「あの、宵白さん……ですよね」
「そう呼ぶ人もいる」
眠たげな目が、ゆっくりとこちらを見る。
わたしは、ここへ来た理由をできるだけ簡単に伝えた。
黒鉄を封じるために、四方の力を借りたいこと。
南の暁乃さんと、西の水継さんが、もう力を貸してくれること。
そして、北の力がどうしても必要なこと。
話しているあいだ、宵白さんは口を挟まなかった。ただ、ときどき瞬きをしながら、静かに聞いている。
「……だから、お願いに来ました」
言い終えると、宵白さんは少しだけ首を傾げた。
「いいよ」
「……え?」
「力を貸せばいいんでしょう。いいよ」
あまりにもあっさりした返事に、言葉が止まった。
「本当に、いいんですか?」
「うん」
「理由とか、条件とかは……」
宵白さんは、小さくあくびをした。
「じゃあ、二つだけ」
「……はい」
「ひとつ。全部終わったら、しばらく起こさないで」
「分かりました」
それだけなら、宵白さんらしい願いだ。
けれど、続く沈黙が少しだけ違っていた。
眠たげな目の奥で、白銀の光がかすかに揺れている。
次の願いは、軽いものではないのかもしれない。
「ふたつ」
眠たげな目が、すっとわたしを見た。
「君がいちばん帰りたい場所を、僕に見せて」
「……どういうことですか」
「ここに来る人はみんな、進む道に迷ってる。でも君はそうじゃなさそうだから。帰る道に迷ってない人の頭の中を、一度見てみたかったんだ」
断る理由は、なかった。
宵白さんの指先が、わたしの額にそっと触れる。
浮かんだのは、縁側で、お寿司を食べた後に緋桜さんと並んで月を見た夜。
池に映った月が、風で揺れていた、何でもない時間だった。
「……なるほどね」
宵白さんは指を離し、ほんの少しだけ笑った。
「いいよ。力を貸してあげる」
拍子抜けするほど静かな承諾だった。
「彼を、失いたくないんでしょう?」
白藤の下で倒れていた緋桜さんの姿が、頭に浮かんだ。
冷たくなっていく手。逃げろ、と告げた声。
宵白さんには、本当に見えているのかもしれない。
わたしが言葉にしていないものまで。
「……はい」
ようやく、それだけを返した。
「そう」
宵白さんは札を手にしたまま、また祠の柱にもたれた。
「じゃ、おやすみ」
「えっ」
そう言うなり、宵白さんは目を閉じてしまう。
しばらく待ってみたけれど、宵白さんはすーすーと寝息を立てていて、もう動く気配がなかった。
「……本当に、いいんですよね?」
足元では、柏が前足で顔を撫でるように毛づくろいをしている。
「本人がいいって言ったんだから、いいんじゃない?」
「……」
たしかに、そうなのかもしれない。
わたしは小さく息をつき、月代の札が光を宿したことを確かめた。
南の日輪。西の八雲。北の月代。
これで、未来の四社につながる三つの力がそろった。


