***
翌朝。
もう一度、水辺の祠へ向かった。
今日は、暁乃さんも緋桜さんもいない。
そうしたいとお願いしたのは、わたしだった。
昨日のようにみんなで押しかけるより、まずは自分ひとりで、もう一度水継さんに向き合いたかった。
そう伝えると、緋桜さんは少しだけ眉を寄せた。
けれど、しばらく考えたあと、柏がついていくことを条件に頷いてくれた。
少し離れたところを、白猫の姿の柏が歩いている。
草むらに紛れながら、ときどきこちらを振り返っていた。
川辺に着くと、水継さんは昨日と同じ岩場に立っていた。
「また来たのか」
「はい」
「答えは変わらん」
言葉は、昨日と同じように硬い。
それでも、わたしは一歩前へ出た。
「あの、もしよければ」
懐から、竹の皮に包んだ小さな握り飯を取り出す。
今朝、社の台所を借りて作ったものだった。中には、ほんの少しだけ焼き味噌を入れてある。
「たいしたものではないのですが……お願いに来るのに、手ぶらでは失礼かと思って」
水継さんの眉が、ぴくりと動いた。
じっと竹の包みを見下ろしている。
受け取ってもらえないかもしれない。
そう思った次の瞬間、水継さんはひとつ握り飯を取った。
そして、思ったより大きな口でかぶりつく。
「!」
あっという間に一つ目を食べ終えると、水継さんは迷いなく二つ目へ手を伸ばした。
その姿が、未来で会った水継さんと重なる。
わたしの作った料理を、真剣な顔で、でもどこか嬉しそうに食べてくれた水継さん。
時代が違っても、やっぱりこの人は水継さんなのだと思った。
木の陰で、柏の尻尾が小さく揺れる。
何か言いたげだったけれど、今は猫のふりをしているらしい。
水継さんは最後のひと口まで食べ終えると、竹の皮を丁寧に畳んだ。
「……悪くない」
その言い方があまりにも真面目で、少しだけ頬がゆるむ。
「よかったです」
水継さんの視線が、こちらへ戻った。
「だが、俺は昨日、はっきり断ったはずだ。緋桜殿がともに来てなお、この話は受けられぬと」
川の音が、すぐそばで流れている。
「それでも、なぜまた来た」
「……諦められないんです。私を庇って傷を負った未来の緋桜さんを」
言葉にすると、指先が少し震えた。
「私はまだ、あの人に伝えたいことがあります。だから……どうしても、助けたいんです」
水継さんは黙って聞いている。
ここで退いたら、きっと何も変えられない。
わたしは膝をつき、深く頭を下げた。
「無茶なお願いなのは分かっています。それでも、どうしても力を貸してください!」
冷たい土の感触が、膝越しに伝わってくる。
長い沈黙が落ちた。
やがて、水継さんが低く息を吐く。
「……昔、大雨でこの川が荒れたことがある」
顔を上げると、水継さんは川面を見ていた。
「里の者たちは、田が流されぬように、家が水に呑まれぬようにと、何日も祈っていた。俺はその祈りに応えたかった。この水辺に宿ったものとして、あの者たちを守りたかった」
水面に、朝の光が揺れている。
「だから、氾濫しかけた流れを結界で押しとどめた。里へ向かう水をせき止めれば、それで守れると思ってな」
そこで、水継さんは一度言葉を切った。
「だが、俺は水の行き先まで見ていなかった。押しとどめられた水は別の低い土地へ流れ込み、そこにあった田を呑んだ」
濃紺の衣の裾が、川風に揺れる。
「俺はまだ、自分の水すら御しきれぬ。そんな身でまた結界の柱となり、守るはずのものを傷つけるわけにはいかない」
その言葉を否定することはできなかった。
何かを守りたい気持ちが、必ず正しい結果につながるとは限らない。
水継さんは、それを知っているのだ。
そのとき、懐に入れていた返し札が、かすかに熱を帯びた。
「あ……」
慌てて取り出すと、四枚の札のうち、西の八雲の札だけが淡く青く光っていた。
青い光は、水面に映る朝の光と重なるように揺れている。
次の瞬間、八雲の札がふわりと浮いた。
「え……?」
札はわたしの手のひらの上で、水継さんのほうへ向くように青く強く輝く。
水継さんが思わず手を伸ばすと、応えるようにもう一度大きく光り、また静かに熱を落ち着けた。
「これは……」
「未来で、緋桜さんから預かった札です。四社へ祈りを返すための、返し札だと聞きました」
今のこの場所には、まだ大きな社もない。
目の前にいる水継さんも、未来のように一柱の神として形を定めているわけではない。
それでも、札は確かに水継さんを選ぶように、その手へ渡った。
「未来では、水継さんはこの町を守る神様になっています」
そう言うと、水継さんはしばらく札を見つめていた。
「雨が多すぎる年も、日照りが続く年も、川が荒れないように、田が枯れないようにと祈る人たちがいます」
水継さんの指先が、青く光る札に触れた。
「未来の水継さんは、その祈りを受け止めて、この土地の水を守っていました」
未来で見た八雲の社を思い出す。
社の前に供えられていたたくさんの花の前で。
川の流れや田の様子を気にかけるように、町の話を聞いていた水継さんの姿。
「私、少しだけ分かった気がします」
水継さんが、こちらを見る。
「痛みを知っている水継さんだからこそ。未来で誰より慎重に、誰より誠実に、使命と向き合っていたんだなって」
あのとき、京介のことで頭を下げてくれたことを思い出す。
未来の水継さんは、ぶっきらぼうで、少し怖く見えて、けれど誰より真剣だった。
その理由が、今なら少し分かる気がした。
「お願いします」
うまい言葉なんて、ひとつも浮かばなかった。
ただ、もう一度深く頭を下げる。
「水継さんの力を、貸してください」
水継さんは、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、青く光る札から目を離し、川面へ視線を移す。
「守りたいと思うことと、正しく守れることは違う」
川風が、濃紺の衣の裾を揺らす。
「だが、その痛みを抱えたままでも、未来の俺はこの地を守っているというのだな」
「……はい」
水継さんは、もう一度こちらを見た。
「なら、少しだけ手伝ってやる」
「本当ですか!?」
「……飯に絆されたわけではないぞ。この札は、未来の俺が祈りに応え続けた証なのだろう。その証が、目の前にあるというならば、逃げるほうが恥だ」
水継さんは、わたしの手の中で光る札を、じっと見つめた。
「だが、最善を尽くしても必ずうまくいくとは限らない。それでも進むというなら――」
そこで言葉を切り、それから不器用に右手を差し出してきた。
「俺も腹を括ろう」
照れ隠しのように、口元がわずかに笑う。
一瞬遅れて、その手が握手を求めているのだと気づいた。
「ありがとうございます」
わたしは両手で、その大きな手を握った。
「……うまくいったみたいね」
柏は尻尾をひと振りすると、何でもないことのようにわたしの足元へやって来た。
いつもの調子でそう言われて、張り詰めていたものが少しだけほどける。
その小さな白い背中を見下ろして、ようやく息がつけた気がした。
翌朝。
もう一度、水辺の祠へ向かった。
今日は、暁乃さんも緋桜さんもいない。
そうしたいとお願いしたのは、わたしだった。
昨日のようにみんなで押しかけるより、まずは自分ひとりで、もう一度水継さんに向き合いたかった。
そう伝えると、緋桜さんは少しだけ眉を寄せた。
けれど、しばらく考えたあと、柏がついていくことを条件に頷いてくれた。
少し離れたところを、白猫の姿の柏が歩いている。
草むらに紛れながら、ときどきこちらを振り返っていた。
川辺に着くと、水継さんは昨日と同じ岩場に立っていた。
「また来たのか」
「はい」
「答えは変わらん」
言葉は、昨日と同じように硬い。
それでも、わたしは一歩前へ出た。
「あの、もしよければ」
懐から、竹の皮に包んだ小さな握り飯を取り出す。
今朝、社の台所を借りて作ったものだった。中には、ほんの少しだけ焼き味噌を入れてある。
「たいしたものではないのですが……お願いに来るのに、手ぶらでは失礼かと思って」
水継さんの眉が、ぴくりと動いた。
じっと竹の包みを見下ろしている。
受け取ってもらえないかもしれない。
そう思った次の瞬間、水継さんはひとつ握り飯を取った。
そして、思ったより大きな口でかぶりつく。
「!」
あっという間に一つ目を食べ終えると、水継さんは迷いなく二つ目へ手を伸ばした。
その姿が、未来で会った水継さんと重なる。
わたしの作った料理を、真剣な顔で、でもどこか嬉しそうに食べてくれた水継さん。
時代が違っても、やっぱりこの人は水継さんなのだと思った。
木の陰で、柏の尻尾が小さく揺れる。
何か言いたげだったけれど、今は猫のふりをしているらしい。
水継さんは最後のひと口まで食べ終えると、竹の皮を丁寧に畳んだ。
「……悪くない」
その言い方があまりにも真面目で、少しだけ頬がゆるむ。
「よかったです」
水継さんの視線が、こちらへ戻った。
「だが、俺は昨日、はっきり断ったはずだ。緋桜殿がともに来てなお、この話は受けられぬと」
川の音が、すぐそばで流れている。
「それでも、なぜまた来た」
「……諦められないんです。私を庇って傷を負った未来の緋桜さんを」
言葉にすると、指先が少し震えた。
「私はまだ、あの人に伝えたいことがあります。だから……どうしても、助けたいんです」
水継さんは黙って聞いている。
ここで退いたら、きっと何も変えられない。
わたしは膝をつき、深く頭を下げた。
「無茶なお願いなのは分かっています。それでも、どうしても力を貸してください!」
冷たい土の感触が、膝越しに伝わってくる。
長い沈黙が落ちた。
やがて、水継さんが低く息を吐く。
「……昔、大雨でこの川が荒れたことがある」
顔を上げると、水継さんは川面を見ていた。
「里の者たちは、田が流されぬように、家が水に呑まれぬようにと、何日も祈っていた。俺はその祈りに応えたかった。この水辺に宿ったものとして、あの者たちを守りたかった」
水面に、朝の光が揺れている。
「だから、氾濫しかけた流れを結界で押しとどめた。里へ向かう水をせき止めれば、それで守れると思ってな」
そこで、水継さんは一度言葉を切った。
「だが、俺は水の行き先まで見ていなかった。押しとどめられた水は別の低い土地へ流れ込み、そこにあった田を呑んだ」
濃紺の衣の裾が、川風に揺れる。
「俺はまだ、自分の水すら御しきれぬ。そんな身でまた結界の柱となり、守るはずのものを傷つけるわけにはいかない」
その言葉を否定することはできなかった。
何かを守りたい気持ちが、必ず正しい結果につながるとは限らない。
水継さんは、それを知っているのだ。
そのとき、懐に入れていた返し札が、かすかに熱を帯びた。
「あ……」
慌てて取り出すと、四枚の札のうち、西の八雲の札だけが淡く青く光っていた。
青い光は、水面に映る朝の光と重なるように揺れている。
次の瞬間、八雲の札がふわりと浮いた。
「え……?」
札はわたしの手のひらの上で、水継さんのほうへ向くように青く強く輝く。
水継さんが思わず手を伸ばすと、応えるようにもう一度大きく光り、また静かに熱を落ち着けた。
「これは……」
「未来で、緋桜さんから預かった札です。四社へ祈りを返すための、返し札だと聞きました」
今のこの場所には、まだ大きな社もない。
目の前にいる水継さんも、未来のように一柱の神として形を定めているわけではない。
それでも、札は確かに水継さんを選ぶように、その手へ渡った。
「未来では、水継さんはこの町を守る神様になっています」
そう言うと、水継さんはしばらく札を見つめていた。
「雨が多すぎる年も、日照りが続く年も、川が荒れないように、田が枯れないようにと祈る人たちがいます」
水継さんの指先が、青く光る札に触れた。
「未来の水継さんは、その祈りを受け止めて、この土地の水を守っていました」
未来で見た八雲の社を思い出す。
社の前に供えられていたたくさんの花の前で。
川の流れや田の様子を気にかけるように、町の話を聞いていた水継さんの姿。
「私、少しだけ分かった気がします」
水継さんが、こちらを見る。
「痛みを知っている水継さんだからこそ。未来で誰より慎重に、誰より誠実に、使命と向き合っていたんだなって」
あのとき、京介のことで頭を下げてくれたことを思い出す。
未来の水継さんは、ぶっきらぼうで、少し怖く見えて、けれど誰より真剣だった。
その理由が、今なら少し分かる気がした。
「お願いします」
うまい言葉なんて、ひとつも浮かばなかった。
ただ、もう一度深く頭を下げる。
「水継さんの力を、貸してください」
水継さんは、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、青く光る札から目を離し、川面へ視線を移す。
「守りたいと思うことと、正しく守れることは違う」
川風が、濃紺の衣の裾を揺らす。
「だが、その痛みを抱えたままでも、未来の俺はこの地を守っているというのだな」
「……はい」
水継さんは、もう一度こちらを見た。
「なら、少しだけ手伝ってやる」
「本当ですか!?」
「……飯に絆されたわけではないぞ。この札は、未来の俺が祈りに応え続けた証なのだろう。その証が、目の前にあるというならば、逃げるほうが恥だ」
水継さんは、わたしの手の中で光る札を、じっと見つめた。
「だが、最善を尽くしても必ずうまくいくとは限らない。それでも進むというなら――」
そこで言葉を切り、それから不器用に右手を差し出してきた。
「俺も腹を括ろう」
照れ隠しのように、口元がわずかに笑う。
一瞬遅れて、その手が握手を求めているのだと気づいた。
「ありがとうございます」
わたしは両手で、その大きな手を握った。
「……うまくいったみたいね」
柏は尻尾をひと振りすると、何でもないことのようにわたしの足元へやって来た。
いつもの調子でそう言われて、張り詰めていたものが少しだけほどける。
その小さな白い背中を見下ろして、ようやく息がつけた気がした。


