すべてを聞き終えたころには、体の芯まで冷えきっていた。
「疲れただろう。少し休んだほうがいい」
緋桜さんに案内されたのは、社の裏手にある小さな湯殿だった。
古い木戸を開けると、白い湯気がふわりと頬に触れた。
中は思っていたよりもずっと広かった。板張りの床の奥に、なめらかな石で囲まれた湯船があり、壁際には清めのための小さな祭壇までしつらえられている。
「……ずいぶん広いんですね」
「ここは緋桜の社の湯殿だからね」
戸口の向こうで、柏が尻尾を揺らす。
「人間だけが入る場所じゃないの。近くの神や妖が、傷を癒やしたり、穢れを落としたりすることもあるわ。今は静かなものだけど、昔はそれなりに出入りがあったのよ」
そう言われて、あらためて湯殿を見回す。
現代の屋敷にある浴室とはまるで違う。ここはただ体を洗う場所ではなく、社の奥に隠された小さな湯治場のようだった。
湯はほんのり桜色に光り、湯気の中には、かすかに花の香りが混じっていた。
「のぼせないようにしなさいよ。あと、覗きの心配はいらないわ。アタシが見張ってるから」
「の、覗き……」
「緋桜はそんなことするわけないでしょうけど、この辺りにはいろんな奴がいるから。念のためよ」
衣を脱ぎ、湯へ入る。
「ふぁー……生き返る……」
肩まで沈むと、思わず息が漏れた。
湯気の中で、さっき聞いた話を思い返す。
久遠桜へ集まる願いの影を断つもの。
黒鉄は、かつてそういう存在だった。
けれど、今の黒鉄はーー
「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
あの言葉は、ただの脅しではなかったのだ。
そのときだった。
湯船の端で、ぶくぶく、と泡が立った。
「……え?」
泡はどんどん大きくなる。
何かが、いる。
思わず身を引いた瞬間、
「ぷはあっ!」
ざばっ、と湯の中から女の子が飛び出した。
「三百五十秒、新記録達成!」
「きゃああああっ!?」
戸口の向こうで、柏が鋭く反応する。
「何事!?」
「おお、しゃべる猫か!」
湯船の中に現れた女の子は、けらけら笑っている。
濡れた髪は夕焼けみたいな赤みを帯び、瞳は火の粉を閉じ込めたような金色だった。
年はわたしと同じくらいに見えるのに、体の輪郭は湯気に溶けるように淡く揺れている。
おそらく、人間ではない。
「あ、あなたは……?」
「あたし? 暁乃!」
女の子は湯船の中で、得意げに胸を張った。
「この辺りの南のほうにいるの。朝日がよく当たって、田んぼの水がきらきら光るところ!」
南というと、未来の日輪神社のことだろうか。暁乃さんは、湯船の中で得意げに胸を張った。
「晴れますように、とか、稲がよく育ちますように、とか。そういうお願いが、よく届くんだ。まだ立派なお社はないけどね。でも、いつかちゃんとしたお社で、緋桜さまにお仕えするの!」
暁乃さんは、湯気の中で眩しいくらいに笑った。
未来で日輪神社の神として町を守っていたはずの暁乃さんは、現代では堕神に襲われ、力を喰われかけていた。
けれど目の前の彼女は、そんな未来をまだ知らない。
「あんた、知ってるよ! 初音様でしょう?」
「私は、千歳朱里です。未来から来ました」
暁乃さんの目が、ぱっと輝いた。
「なにそれ、すごい! 未来って、田んぼ増えてる? お社は立派になってる?」
勢いに押されて、少しだけ言葉に詰まる。
「……南のお社は、未来でもこの町を守っています。暁乃さんも、たくさんの人に手を合わせてもらっていました」
「ほんとに!?」
暁乃さんは両手を上げて喜んだあと、不意にわたしの顔を覗き込んだ。
「でも、ずいぶん暗い顔してるね」
「それは……」
わたしは、かいつまんで事情を話した。
未来でも堕神が現れ続けること。
現代の緋桜さんが、私を庇って毒を受けたこと。
少し迷ったけれど、暁乃さんもその被害を受けたことまで話した。
暁乃さんは、さっきまでの軽い調子を少しだけ引っ込めた。
「それは大変。アタイにできることがあればいいんだけど」
その言葉に、胸がかすかに震えた。
まだ神として定まりきっていなくても、暁乃さんは未来と同じように、この町を守ろうとしている。
湯から上がり、用意されていた衣に袖を通す。
そのとき、ぽとり、と足元に何かが落ちた。
「あ……」
落ちていたのは、四枚の返し札だった。
奉納祭のあと、緋桜さんから預かったままになっていたものだ。
慌てて拾い上げると、南の日輪の札だけが、暁乃さんのそばで淡く赤く光った。
「これ……」
未来の日輪神社。
まだ社を持たない、この時代の暁乃さん。
そして、その前で反応した返し札。
もしかしたら……。
まだ形になりきらない考えが、胸の奥で熱を持つ。
わたしは、淡く光る日輪の札を握りしめた。


