千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 すべてを聞き終えたころには、体の芯まで冷えきっていた。

 「疲れただろう。少し休んだほうがいい」

 緋桜さんに案内されたのは、社の裏手にある小さな湯殿だった。

 古い木戸を開けると、白い湯気がふわりと頬に触れた。

 中は思っていたよりもずっと広かった。板張りの床の奥に、なめらかな石で囲まれた湯船があり、壁際には清めのための小さな祭壇までしつらえられている。

 「……ずいぶん広いんですね」
 「ここは緋桜の社の湯殿だからね」

 戸口の向こうで、柏が尻尾を揺らす。

 「人間だけが入る場所じゃないの。近くの神や妖が、傷を癒やしたり、穢れを落としたりすることもあるわ。今は静かなものだけど、昔はそれなりに出入りがあったのよ」

 そう言われて、あらためて湯殿を見回す。

 現代の屋敷にある浴室とはまるで違う。ここはただ体を洗う場所ではなく、社の奥に隠された小さな湯治場のようだった。

 湯はほんのり桜色に光り、湯気の中には、かすかに花の香りが混じっていた。

 「のぼせないようにしなさいよ。あと、覗きの心配はいらないわ。アタシが見張ってるから」
 「の、覗き……」
 「緋桜はそんなことするわけないでしょうけど、この辺りにはいろんな奴がいるから。念のためよ」

 衣を脱ぎ、湯へ入る。

 「ふぁー……生き返る……」

 肩まで沈むと、思わず息が漏れた。

 湯気の中で、さっき聞いた話を思い返す。

 久遠桜へ集まる願いの影を断つもの。
 黒鉄は、かつてそういう存在だった。

 けれど、今の黒鉄はーー

 「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」

 あの言葉は、ただの脅しではなかったのだ。

 そのときだった。

 湯船の端で、ぶくぶく、と泡が立った。

 「……え?」

 泡はどんどん大きくなる。

 何かが、いる。

 思わず身を引いた瞬間、

 「ぷはあっ!」

 ざばっ、と湯の中から女の子が飛び出した。

 「三百五十秒、新記録達成!」
 「きゃああああっ!?」

 戸口の向こうで、柏が鋭く反応する。

 「何事!?」
 「おお、しゃべる猫か!」

 湯船の中に現れた女の子は、けらけら笑っている。

 濡れた髪は夕焼けみたいな赤みを帯び、瞳は火の粉を閉じ込めたような金色だった。
 年はわたしと同じくらいに見えるのに、体の輪郭は湯気に溶けるように淡く揺れている。

 おそらく、人間ではない。

 「あ、あなたは……?」
 「あたし? 暁乃(あけの)!」

 女の子は湯船の中で、得意げに胸を張った。

 「この辺りの南のほうにいるの。朝日がよく当たって、田んぼの水がきらきら光るところ!」

 南というと、未来の日輪神社のことだろうか。暁乃さんは、湯船の中で得意げに胸を張った。

 「晴れますように、とか、稲がよく育ちますように、とか。そういうお願いが、よく届くんだ。まだ立派なお社はないけどね。でも、いつかちゃんとしたお社で、緋桜さまにお仕えするの!」

 暁乃さんは、湯気の中で眩しいくらいに笑った。

 未来で日輪神社の神として町を守っていたはずの暁乃さんは、現代では堕神に襲われ、力を喰われかけていた。
 けれど目の前の彼女は、そんな未来をまだ知らない。

 「あんた、知ってるよ! 初音様でしょう?」
 「私は、千歳朱里です。未来から来ました」

 暁乃さんの目が、ぱっと輝いた。

 「なにそれ、すごい! 未来って、田んぼ増えてる? お社は立派になってる?」

 勢いに押されて、少しだけ言葉に詰まる。

 「……南のお社は、未来でもこの町を守っています。暁乃さんも、たくさんの人に手を合わせてもらっていました」
 「ほんとに!?」

 暁乃さんは両手を上げて喜んだあと、不意にわたしの顔を覗き込んだ。

 「でも、ずいぶん暗い顔してるね」
 「それは……」

 わたしは、かいつまんで事情を話した。

 未来でも堕神が現れ続けること。
 現代の緋桜さんが、私を庇って毒を受けたこと。

 少し迷ったけれど、暁乃さんもその被害を受けたことまで話した。

 暁乃さんは、さっきまでの軽い調子を少しだけ引っ込めた。

 「それは大変。アタイにできることがあればいいんだけど」

 その言葉に、胸がかすかに震えた。
 まだ神として定まりきっていなくても、暁乃さんは未来と同じように、この町を守ろうとしている。

 湯から上がり、用意されていた衣に袖を通す。

 そのとき、ぽとり、と足元に何かが落ちた。

 「あ……」

 落ちていたのは、四枚の返し札だった。
 奉納祭のあと、緋桜さんから預かったままになっていたものだ。

 慌てて拾い上げると、南の日輪の札だけが、暁乃さんのそばで淡く赤く光った。

 「これ……」

 未来の日輪神社。
 まだ社を持たない、この時代の暁乃さん。

 そして、その前で反応した返し札。

 もしかしたら……。

 まだ形になりきらない考えが、胸の奥で熱を持つ。

 わたしは、淡く光る日輪の札を握りしめた。