千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜


 ***

 緋桜さんに案内され、社の中へ入った。

 そこは、夢の中で何度も見た場所だった。
 低い天井や古びた柱の並びまで、記憶の中の景色と重なっている。

 けれど今、わたしは夢ではなく、その続きを歩いていた。

 開け放たれた戸の向こうには、花びらに覆われていく初音さんの姿が小さく見える。
 外から差し込む月明かりの中で、白い衣が少しずつ薄紅に染まっていった。

 足元で白い影が動いた。
 尾と耳の先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいる。

 「……柏?」

 思わず名前を呼ぶと、小さな白猫がぴたりと足を止めた。

 「あら。初めまして、じゃないようね。お嬢さん」

 聞き慣れた口調に、胸が詰まりそうになった。
 緋桜さんは、わたしと向かい合うように腰を下ろした。

 「それで、君は未来から来たと言ったね」
 「はい」
 「何のために」

 膝の上で、指先を握りしめる。

 「未来の緋桜さんを、助けるためです」

 緋桜さんの目が、わずかに細められた。

 「私のいた時代……令和の緋桜さんは、私を庇って堕神の刃を受けました。黒い毒のようなものが広がっていて……このままだと、助からないかもしれません」

 言葉にすると、白藤の下で見た光景がよみがえる。

 倒れた緋桜さんの体も、冷たくなっていく手も、わたしを逃がそうとした唇も、まだはっきりと覚えている。

 「だから、ここへ来たんです。初音さんの魂が久遠桜へ託された、この夜に」
 「……堕神は、未来にも現れるのか」

 小さく頷いた。

 「私には、全部の記憶があるわけではありません。でも、未来で緋桜さんの手紙を読みました。そこには、私が何度も緋桜さんと出会って、そのたびに堕神に奪われたことが書かれていました」

 白藤の下で読んだ手紙には、社会人になった私や、子どもを授かった私の姿があった。

 知らないはずの時間なのに、そこに書かれていた景色は、まだ胸の奥で熱を持っている。

 「信じられない話だと思います。けれど、未来の緋桜さんを助けるために、どうしても堕神を封じる手がかりが必要なんです」

 沈黙が落ちた。

 目の前にいるのは、わたしをまだ知らない緋桜さんだ。未来で一緒に過ごした時間も、白藤の下で交わした言葉も、この人にとってはまだ何ひとつ起きていない。

 信じてもらえないかもしれない。
 それでも、ここで引くわけにはいかなかった。

 「時を渡る力があること自体は、否定するつもりはない。けれど、君が本当に味方なのか、今の俺にはまだ分からない」
 「……はい」

 緋桜さんの視線が、開け放たれた戸の向こうへ向く。
 花びらに覆われていく初音さんの奥で、久遠桜の枝が静かに揺れている。

 「でも」

 緋桜さんは、久遠桜を見上げたまま続ける。

 「久遠桜が君をここに連れてきたというのなら、何か訳があるのだろう」

 それから、もう一度わたしを見た。

 「なら、俺は君を信じてみたい」

 胸の奥で、固く詰まっていたものが少しだけほどけた。

 「ありがとうございます」
 「目的は俺も同じだ。黒鉄(くろがね)……君たちが堕神と呼ぶ彼を、このままにはしておけない」
 「黒鉄……」

 初めて聞く名だった。それは、あの顔に痣のある男の本来の名なのだろう。

 「共に探そう。未来を救う手がかりを」
 「はい」

 うなずいた、その直後だった。

 「ただし、ひとつだけ覚えておいて」

 緋桜さんの目が、まっすぐにわたしを捉える。

 「時を遡るというのは、簡単なことじゃない。君がここで堕神を封じることに成功すれば、未来の出来事は大きく変わるかもしれない」
 「未来が……?」
 「君の知る俺は、これまで堕神を封じられなかったのだろう。だからこそ、君はこの時代へ来た。けれど、もしここで流れを変えれば、その先にある出来事も変わる」

 喉の奥が、きゅっと狭くなる。

 「それは、つまり……」
 「君が令和という時代にいた痕跡も、未来で俺と出会った時間も、君という存在そのものも。最初からなかったことになるかもしれない」

 桜小路家の屋敷。柏の言葉。

 学校で差し出された手。

 白藤の下で読んだ、たくさんの手紙。

 祭りの夜に買ってもらった髪飾り。

 緋桜さんに、まだ渡せていない手紙。

 それらがすべて、なかったことになるかもしれない。

 「もちろん、そうならない可能性もある。けれど、また同じ未来に戻れるという保証はないんだ」

 緋桜さんは、少しだけ目を伏せた。

 「それでも君は、進むのか」

 怖い。

 元の時代で、緋桜さんに会うことはもう叶わないかもしれない。

 それでも。

 白藤の下で倒れていた緋桜さんを思い出すと、答えはひとつしかなかった。

 「私が消えてしまうとしても、未来の緋桜さんを助けられるなら」

 指先は震えていた。それでも、顔を上げる。

 「わたしは、戦います」

 ーー緋桜さんがいない未来なんか、いらない。

 緋桜さんは、わたしをじっと見ていた。

 やがて、ほんの少しだけ目を細める。

 「未来の俺は、ずいぶん愛されていたみたいだね」
 「へ!?」

 思わず変な声が出た。

 「すまない。今の俺には、少し眩しく聞こえた」

 初音さんを失ったばかりの緋桜さん。
 まだ、これから千年の孤独を知らない緋桜さん。

 この人にも、未来の緋桜さんにも、もう同じ思いをさせたくなかった。

 「教えてください」

 膝の上で、指先を握り直す。

 「堕神……黒鉄のことを」

 そう尋ねると、緋桜さんは少しだけ目を伏せた。

 それから、緋桜さんは長い時間をかけて話してくれた。

 久遠桜がこの地に根を下ろしたころ、まだ今ある三社の種すら生まれていなかったころ。
 この土地には、久遠桜へ集まる願いの影を断つ神がいたという。

 その名が、黒鉄。

 もとは久遠桜とともに、この地を守る神だった。

 人の願いは、いつも清らかなものばかりではない。
 祈りの奥には、執着や恨みが混じることもある。

 会いたい、戻ってきてほしい、許せない、奪い返したい。

 黒鉄は、そうした穢れを久遠桜へ届く前に斬り落とすために在った。

 けれど、いつしか斬り落とすはずの穢れに惹かれた黒鉄は、
 人の未練や恨みを喰らい、自らの力に変えていった。

 神にとって、人の穢れを喰らい、己の力に変えることは禁忌。
 力を増した代わりに、黒鉄は神としての在り方を失ったのだという。

 結果、清らかな祈りには阻まれ、久遠桜の結界にも近づけない。
 だから黒鉄は、巫女や神を喰らう。

 浄化の力を奪い、結界を破り、久遠桜へ集まるすべてを我がものとして喰らうために。