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緋桜さんに案内され、社の中へ入った。
そこは、夢の中で何度も見た場所だった。
低い天井や古びた柱の並びまで、記憶の中の景色と重なっている。
けれど今、わたしは夢ではなく、その続きを歩いていた。
開け放たれた戸の向こうには、花びらに覆われていく初音さんの姿が小さく見える。
外から差し込む月明かりの中で、白い衣が少しずつ薄紅に染まっていった。
足元で白い影が動いた。
尾と耳の先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいる。
「……柏?」
思わず名前を呼ぶと、小さな白猫がぴたりと足を止めた。
「あら。初めまして、じゃないようね。お嬢さん」
聞き慣れた口調に、胸が詰まりそうになった。
緋桜さんは、わたしと向かい合うように腰を下ろした。
「それで、君は未来から来たと言ったね」
「はい」
「何のために」
膝の上で、指先を握りしめる。
「未来の緋桜さんを、助けるためです」
緋桜さんの目が、わずかに細められた。
「私のいた時代……令和の緋桜さんは、私を庇って堕神の刃を受けました。黒い毒のようなものが広がっていて……このままだと、助からないかもしれません」
言葉にすると、白藤の下で見た光景がよみがえる。
倒れた緋桜さんの体も、冷たくなっていく手も、わたしを逃がそうとした唇も、まだはっきりと覚えている。
「だから、ここへ来たんです。初音さんの魂が久遠桜へ託された、この夜に」
「……堕神は、未来にも現れるのか」
小さく頷いた。
「私には、全部の記憶があるわけではありません。でも、未来で緋桜さんの手紙を読みました。そこには、私が何度も緋桜さんと出会って、そのたびに堕神に奪われたことが書かれていました」
白藤の下で読んだ手紙には、社会人になった私や、子どもを授かった私の姿があった。
知らないはずの時間なのに、そこに書かれていた景色は、まだ胸の奥で熱を持っている。
「信じられない話だと思います。けれど、未来の緋桜さんを助けるために、どうしても堕神を封じる手がかりが必要なんです」
沈黙が落ちた。
目の前にいるのは、わたしをまだ知らない緋桜さんだ。未来で一緒に過ごした時間も、白藤の下で交わした言葉も、この人にとってはまだ何ひとつ起きていない。
信じてもらえないかもしれない。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
「時を渡る力があること自体は、否定するつもりはない。けれど、君が本当に味方なのか、今の俺にはまだ分からない」
「……はい」
緋桜さんの視線が、開け放たれた戸の向こうへ向く。
花びらに覆われていく初音さんの奥で、久遠桜の枝が静かに揺れている。
「でも」
緋桜さんは、久遠桜を見上げたまま続ける。
「久遠桜が君をここに連れてきたというのなら、何か訳があるのだろう」
それから、もう一度わたしを見た。
「なら、俺は君を信じてみたい」
胸の奥で、固く詰まっていたものが少しだけほどけた。
「ありがとうございます」
「目的は俺も同じだ。黒鉄……君たちが堕神と呼ぶ彼を、このままにはしておけない」
「黒鉄……」
初めて聞く名だった。それは、あの顔に痣のある男の本来の名なのだろう。
「共に探そう。未来を救う手がかりを」
「はい」
うなずいた、その直後だった。
「ただし、ひとつだけ覚えておいて」
緋桜さんの目が、まっすぐにわたしを捉える。
「時を遡るというのは、簡単なことじゃない。君がここで堕神を封じることに成功すれば、未来の出来事は大きく変わるかもしれない」
「未来が……?」
「君の知る俺は、これまで堕神を封じられなかったのだろう。だからこそ、君はこの時代へ来た。けれど、もしここで流れを変えれば、その先にある出来事も変わる」
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「それは、つまり……」
「君が令和という時代にいた痕跡も、未来で俺と出会った時間も、君という存在そのものも。最初からなかったことになるかもしれない」
桜小路家の屋敷。柏の言葉。
学校で差し出された手。
白藤の下で読んだ、たくさんの手紙。
祭りの夜に買ってもらった髪飾り。
緋桜さんに、まだ渡せていない手紙。
それらがすべて、なかったことになるかもしれない。
「もちろん、そうならない可能性もある。けれど、また同じ未来に戻れるという保証はないんだ」
緋桜さんは、少しだけ目を伏せた。
「それでも君は、進むのか」
怖い。
元の時代で、緋桜さんに会うことはもう叶わないかもしれない。
それでも。
白藤の下で倒れていた緋桜さんを思い出すと、答えはひとつしかなかった。
「私が消えてしまうとしても、未来の緋桜さんを助けられるなら」
指先は震えていた。それでも、顔を上げる。
「わたしは、戦います」
ーー緋桜さんがいない未来なんか、いらない。
緋桜さんは、わたしをじっと見ていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「未来の俺は、ずいぶん愛されていたみたいだね」
「へ!?」
思わず変な声が出た。
「すまない。今の俺には、少し眩しく聞こえた」
初音さんを失ったばかりの緋桜さん。
まだ、これから千年の孤独を知らない緋桜さん。
この人にも、未来の緋桜さんにも、もう同じ思いをさせたくなかった。
「教えてください」
膝の上で、指先を握り直す。
「堕神……黒鉄のことを」
そう尋ねると、緋桜さんは少しだけ目を伏せた。
それから、緋桜さんは長い時間をかけて話してくれた。
久遠桜がこの地に根を下ろしたころ、まだ今ある三社の種すら生まれていなかったころ。
この土地には、久遠桜へ集まる願いの影を断つ神がいたという。
その名が、黒鉄。
もとは久遠桜とともに、この地を守る神だった。
人の願いは、いつも清らかなものばかりではない。
祈りの奥には、執着や恨みが混じることもある。
会いたい、戻ってきてほしい、許せない、奪い返したい。
黒鉄は、そうした穢れを久遠桜へ届く前に斬り落とすために在った。
けれど、いつしか斬り落とすはずの穢れに惹かれた黒鉄は、
人の未練や恨みを喰らい、自らの力に変えていった。
神にとって、人の穢れを喰らい、己の力に変えることは禁忌。
力を増した代わりに、黒鉄は神としての在り方を失ったのだという。
結果、清らかな祈りには阻まれ、久遠桜の結界にも近づけない。
だから黒鉄は、巫女や神を喰らう。
浄化の力を奪い、結界を破り、久遠桜へ集まるすべてを我がものとして喰らうために。


