千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 光が晴れた。
 祭りの音も、屋台のざわめきも、白藤の花房も消えている。

 足元にあるのは、湿った土。頬を撫でるのは、知らない夜の風。

 わたしはゆっくりと顔を上げた。自分の体が少し透けている。

 目の前には、現代で見たものと変わらない、大きな久遠桜が立っていた。
 太い幹は夜の闇の中でも淡く光を帯び、空へ伸びた枝には、季節を忘れたように薄紅の花が咲いている。
 千年前でも、この桜だけは変わらない。

 夜気の中に、血の匂いが混じっていた。

 少し離れた桜の根元に、人影がある。

 白い衣の少女を抱きかかえ、震えている男。

 白に近い銀の髪。毛先だけが、桜の花びらを溶かしたような淡い桃色を帯びている。
 紅い瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど見開かれていた。

 千年前の、緋桜さんだ。

 その腕の中で、初音さんはもう動かない。

 白い巫女装束は胸元から赤く染まり、長い黒髪が土の上へこぼれている。
 伏せられたまつげも、力を失った指先も、夢で何度も見たものと同じだった。

 「……初音」

 何度名前を呼んでも、腕の中の少女は答えない。

 初音さんの魂は、いままさに緋桜さんの手で久遠桜へ託されようとしている。
 輪廻の先にいる自分が、前の命と同じ場所に立つことはできない。

 だから今の私は、初音さんと言葉を交わせない。
 身体が透けているのは、きっとそういうことなのだろう。

 緋桜さんが、初音さんの頬に触れる。

 「このまま、喰わせるものか」

 指先から、淡い桜色の光がこぼれた。

 光は初音さんの胸元へ落ち、血に濡れた衣の上で小さく揺れる。
 やがて、初音さんの体から、かすかな光が浮かび上がった。

 花びらのようにも、消えかけた火種のようにも見える。
 ひとつ、またひとつ。
 淡い光の欠片が、緋桜さんの手の中へ集まっていく。

 「久遠桜」

 緋桜さんが、桜の幹を見上げる。

 「頼む。どれほど遠い未来でもいい。いつかもう一度、この魂が命として芽吹けるように」

 久遠桜の枝が、ざあっと揺れた。

 風は吹いていない。

 それでも花びらが舞い、淡い光を包み込む。
 初音さんの魂は緋桜さんの手を離れ、ゆっくりと久遠桜の幹へ吸い込まれていった。

 緋桜さんは初音さんの体を抱いたまま、久遠桜の根元へ膝をつく。

 白い衣の裾を整え、土に触れた黒髪をそっとすくい上げた。

 「少しだけ、ここで眠っていて」

 久遠桜から、はらはらと花びらが降りはじめた。
 一枚、また一枚。
 薄紅の花びらは、初音さんの髪に、白い衣に、血に濡れた胸元に、静かに積もっていく。

 まるで久遠桜そのものが、彼女を眠らせようとしているみたいだった。

 「必ず、迎えに行くから」

 これが、緋桜さんの千年の孤独が始まる夜なのだ。

 この人はこれから千年、たった独りでこの後悔を抱える。
 久遠桜を頼りに、何度もわたしを探し、何度も出会い、何度も失う。

 助けたい。

 理屈より先に、そう思った。

 初音さんの死そのものは変えられない。

 けれど、現代にはまだ、緋桜さんがいる。
 白藤の下で毒に蝕まれながら、それでもわたしを逃がそうとしてくれた緋桜さんが、まだ生きている。

 ここで堕神を封じる手がかりを見つけられれば、未来の緋桜さんを救えるかもしれない。

 わたしは震える足を踏み出した。初音が久遠桜へと送られたからだろう。
 身体はもう、透明では無かった。

 湿った土が、草履の下でかすかに沈む。

 緋桜さんの肩が、ぴくりと動いた。

 「誰だ」

 わたしは桜の影から、一歩前へ出た。

 緋桜さんの紅い瞳が、こちらを射抜く。
 その瞬間、緋桜さんの表情が凍りついた。

 腕の中で眠る初音さんと、目の前に立つわたし。

 同じはずがない。

 だがその顔立ちも、髪も、纏っている気配も。
 あまりに似ていることに驚いたのだろう。

 「……初音?」

 こぼれた名前に、胸が痛む。

 わたしは小さく首を振った。

 「わたしは、千歳朱里と申します」

 一度、息を整える。

 目の前にいるのは、何度も自分を探し続けてくれる緋桜さんではない。
 初音さんを失ったばかりの、まだ何も知らない緋桜さんだ。

 「未来から来た、久遠桜の巫女であり」

 緋桜さんは花びらに包まれていく初音さんと、わたしを見比べた。

 「初音さんと同じ魂を持つ者です」