光が晴れた。
祭りの音も、屋台のざわめきも、白藤の花房も消えている。
足元にあるのは、湿った土。頬を撫でるのは、知らない夜の風。
わたしはゆっくりと顔を上げた。自分の体が少し透けている。
目の前には、現代で見たものと変わらない、大きな久遠桜が立っていた。
太い幹は夜の闇の中でも淡く光を帯び、空へ伸びた枝には、季節を忘れたように薄紅の花が咲いている。
千年前でも、この桜だけは変わらない。
夜気の中に、血の匂いが混じっていた。
少し離れた桜の根元に、人影がある。
白い衣の少女を抱きかかえ、震えている男。
白に近い銀の髪。毛先だけが、桜の花びらを溶かしたような淡い桃色を帯びている。
紅い瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど見開かれていた。
千年前の、緋桜さんだ。
その腕の中で、初音さんはもう動かない。
白い巫女装束は胸元から赤く染まり、長い黒髪が土の上へこぼれている。
伏せられたまつげも、力を失った指先も、夢で何度も見たものと同じだった。
「……初音」
何度名前を呼んでも、腕の中の少女は答えない。
初音さんの魂は、いままさに緋桜さんの手で久遠桜へ託されようとしている。
輪廻の先にいる自分が、前の命と同じ場所に立つことはできない。
だから今の私は、初音さんと言葉を交わせない。
身体が透けているのは、きっとそういうことなのだろう。
緋桜さんが、初音さんの頬に触れる。
「このまま、喰わせるものか」
指先から、淡い桜色の光がこぼれた。
光は初音さんの胸元へ落ち、血に濡れた衣の上で小さく揺れる。
やがて、初音さんの体から、かすかな光が浮かび上がった。
花びらのようにも、消えかけた火種のようにも見える。
ひとつ、またひとつ。
淡い光の欠片が、緋桜さんの手の中へ集まっていく。
「久遠桜」
緋桜さんが、桜の幹を見上げる。
「頼む。どれほど遠い未来でもいい。いつかもう一度、この魂が命として芽吹けるように」
久遠桜の枝が、ざあっと揺れた。
風は吹いていない。
それでも花びらが舞い、淡い光を包み込む。
初音さんの魂は緋桜さんの手を離れ、ゆっくりと久遠桜の幹へ吸い込まれていった。
緋桜さんは初音さんの体を抱いたまま、久遠桜の根元へ膝をつく。
白い衣の裾を整え、土に触れた黒髪をそっとすくい上げた。
「少しだけ、ここで眠っていて」
久遠桜から、はらはらと花びらが降りはじめた。
一枚、また一枚。
薄紅の花びらは、初音さんの髪に、白い衣に、血に濡れた胸元に、静かに積もっていく。
まるで久遠桜そのものが、彼女を眠らせようとしているみたいだった。
「必ず、迎えに行くから」
これが、緋桜さんの千年の孤独が始まる夜なのだ。
この人はこれから千年、たった独りでこの後悔を抱える。
久遠桜を頼りに、何度もわたしを探し、何度も出会い、何度も失う。
助けたい。
理屈より先に、そう思った。
初音さんの死そのものは変えられない。
けれど、現代にはまだ、緋桜さんがいる。
白藤の下で毒に蝕まれながら、それでもわたしを逃がそうとしてくれた緋桜さんが、まだ生きている。
ここで堕神を封じる手がかりを見つけられれば、未来の緋桜さんを救えるかもしれない。
わたしは震える足を踏み出した。初音が久遠桜へと送られたからだろう。
身体はもう、透明では無かった。
湿った土が、草履の下でかすかに沈む。
緋桜さんの肩が、ぴくりと動いた。
「誰だ」
わたしは桜の影から、一歩前へ出た。
緋桜さんの紅い瞳が、こちらを射抜く。
その瞬間、緋桜さんの表情が凍りついた。
腕の中で眠る初音さんと、目の前に立つわたし。
同じはずがない。
だがその顔立ちも、髪も、纏っている気配も。
あまりに似ていることに驚いたのだろう。
「……初音?」
こぼれた名前に、胸が痛む。
わたしは小さく首を振った。
「わたしは、千歳朱里と申します」
一度、息を整える。
目の前にいるのは、何度も自分を探し続けてくれる緋桜さんではない。
初音さんを失ったばかりの、まだ何も知らない緋桜さんだ。
「未来から来た、久遠桜の巫女であり」
緋桜さんは花びらに包まれていく初音さんと、わたしを見比べた。
「初音さんと同じ魂を持つ者です」


