千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 その先を口にしようとした瞬間、緋桜さんの目が鋭く細められた。
 白藤の向こうで、影が揺れる。

 「朱里!」

 強く腕を引かれ、視界がぐらりと傾いた。
 次の瞬間、緋桜さんがわたしを庇うように抱き寄せる。

 ドス、と鈍い音がした。

 何の音か、すぐには分からなかった。
 けれど、緋桜さんの背中から、黒い刃が突き出ている。

 「……え」

 刃のまわりから、黒い血のようなものがじわりと広がっていく。

 緋桜さんの向こうで、誰かが笑った。

 「雛乃!?」

 でも、違う。
 顔は確かに雛乃なのに。口元の歪み方も、こちらを見る気配も、全部が別のものだった。

 「堕……神……!」

 緋桜さんが叫ぶと、雛乃の顔をしたそれは、にたりと笑った。

 「庇ったか。懲りない神だな」

 黒い刃が、ゆっくりと引き抜かれる。
 緋桜さんの体が、わたしの腕の中で崩れた。

 「緋桜さん!」

 「人の子の体を借りた甲斐があった」

 雛乃の唇で、堕神が笑う。

 「この娘の憎しみも、なかなかの糧になったぞ」

 黒い染みが、緋桜さんの胸元からじわじわと広がっていく。
 雛乃の形をしたそれが、緋桜さんへ手を伸ばした。

 「毒が回れば、久遠桜の神とてただの餌だ」

 黒く濁った指先が、緋桜さんの胸元に触れようとする。

 「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」

 その瞬間、白い影が黒い炎を裂いた。
 低い唸り声とともに、巨大な白豹が堕神へ飛びかかる。

 柏だった。

 小さな白猫だった姿は、しなやかな四肢を持つ白豹へと変わっている。
 尾と耳の先だけが桜色に染まり、額の桜紋が強く光っていた。

 「汚れた手で触るんじゃないわよ!」

 柏は堕神の肩に牙を立て、そのまま地面へ押し倒した。
 白い爪が、雛乃の形をした影を黒い炎の中へ縫いとめる。

 「くそっ……眷属風情が!」

 堕神の体から、どろりとした黒い気配が噴き上がった。

 柏の白い毛先が、じり、と焦げる。

 「柏!」

 柏は牙を食いしばったまま、堕神を押さえ込んでいた。
 堕神の目が、緋桜さんへ向く。

 「無駄だ。刃はもう届いた。毒はじきに回る。久遠桜の神とて、あれを受けて長くは持たぬ」
 「緋桜さん!」

 緋桜さんの体が、わたしの腕の中で重く沈んでいく。
 黒い染みが、胸元からじわじわと広がっていた。

 「朱里……逃げろ」

 緋桜さんの手が、わたしの袖を掴む。

 冷たい。

 さっきまで確かにわたしの頬に触れていた手が、信じられないくらい冷たい。

 「嫌です。逃げません。だって、緋桜さんが……!」
 「朱里ちゃん!」

 柏の声が飛んだ。
 見上げると、白豹の姿をした柏が、堕神を押さえつけたままこちらを見ていた。

 「ここはアタシがなんとかする。だから、あんたは行きなさい!」

 緋桜さんが、かすかにこちらを見る。

 「朱里……」

 涙が止まらなかった。

 「私、まだ……ちゃんと、緋桜さんに言えてない。だから、こんなの嫌です」

 緋桜さんが、かすかに笑った。
 まるで、もう全部を受け入れているみたいだった。

 そんな顔を、見たくなかった。

 「私が絶対に、緋桜さんを助けます」

 堕神が身をよじり、柏の爪の下で笑った。

 「巫女が何をしようと遅い。緋桜(こいつ)は死ぬ。次はお前だ、桜の巫女」

 泣いているだけでは、何も変わらない。

 そのとき、緋桜さんの言葉が蘇る。

 「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
 「久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある」

 神の力。久遠桜の巫女。

 わたしに、少しでもその力があるのなら。

 今使えなければ、何の意味もない。

 わたしは黒い炎の中へ踏み出した。

 熱が肌をかすめる。それでも、不思議と怖くなかった。

 久遠桜の幹に、両手をつく。
 どくん、と木の奥で何かが脈打った。

 「お願い」

 額を幹に押し当てる。
 涙が、頬を伝って落ちた。

 「緋桜さんを助けたいの」

 久遠桜の花びらが、はらはらと降りはじめる。

 白藤の手紙が光を帯び、足元から淡い光が広がっていく。
 黒い炎が、その光に押されるように揺らいだ。

 堕神が、炎の向こうで目を見開く。

 「何を――」
 「私を、あの日へ連れてって」

 強い光が、視界いっぱいに弾けた。

 ***

 目を開けると、知らない風が吹いていた。
 目の前には、先ほどと変わらない久遠桜が立っている。

 けれど、提灯も、屋台も、白藤の手紙もない。

 月明かりだけが、静かに桜の枝を照らしている。

 ――ここは。

 初音さんが死んだ、あの日だ。