その先を口にしようとした瞬間、緋桜さんの目が鋭く細められた。
白藤の向こうで、影が揺れる。
「朱里!」
強く腕を引かれ、視界がぐらりと傾いた。
次の瞬間、緋桜さんがわたしを庇うように抱き寄せる。
ドス、と鈍い音がした。
何の音か、すぐには分からなかった。
けれど、緋桜さんの背中から、黒い刃が突き出ている。
「……え」
刃のまわりから、黒い血のようなものがじわりと広がっていく。
緋桜さんの向こうで、誰かが笑った。
「雛乃!?」
でも、違う。
顔は確かに雛乃なのに。口元の歪み方も、こちらを見る気配も、全部が別のものだった。
「堕……神……!」
緋桜さんが叫ぶと、雛乃の顔をしたそれは、にたりと笑った。
「庇ったか。懲りない神だな」
黒い刃が、ゆっくりと引き抜かれる。
緋桜さんの体が、わたしの腕の中で崩れた。
「緋桜さん!」
「人の子の体を借りた甲斐があった」
雛乃の唇で、堕神が笑う。
「この娘の憎しみも、なかなかの糧になったぞ」
黒い染みが、緋桜さんの胸元からじわじわと広がっていく。
雛乃の形をしたそれが、緋桜さんへ手を伸ばした。
「毒が回れば、久遠桜の神とてただの餌だ」
黒く濁った指先が、緋桜さんの胸元に触れようとする。
「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
その瞬間、白い影が黒い炎を裂いた。
低い唸り声とともに、巨大な白豹が堕神へ飛びかかる。
柏だった。
小さな白猫だった姿は、しなやかな四肢を持つ白豹へと変わっている。
尾と耳の先だけが桜色に染まり、額の桜紋が強く光っていた。
「汚れた手で触るんじゃないわよ!」
柏は堕神の肩に牙を立て、そのまま地面へ押し倒した。
白い爪が、雛乃の形をした影を黒い炎の中へ縫いとめる。
「くそっ……眷属風情が!」
堕神の体から、どろりとした黒い気配が噴き上がった。
柏の白い毛先が、じり、と焦げる。
「柏!」
柏は牙を食いしばったまま、堕神を押さえ込んでいた。
堕神の目が、緋桜さんへ向く。
「無駄だ。刃はもう届いた。毒はじきに回る。久遠桜の神とて、あれを受けて長くは持たぬ」
「緋桜さん!」
緋桜さんの体が、わたしの腕の中で重く沈んでいく。
黒い染みが、胸元からじわじわと広がっていた。
「朱里……逃げろ」
緋桜さんの手が、わたしの袖を掴む。
冷たい。
さっきまで確かにわたしの頬に触れていた手が、信じられないくらい冷たい。
「嫌です。逃げません。だって、緋桜さんが……!」
「朱里ちゃん!」
柏の声が飛んだ。
見上げると、白豹の姿をした柏が、堕神を押さえつけたままこちらを見ていた。
「ここはアタシがなんとかする。だから、あんたは行きなさい!」
緋桜さんが、かすかにこちらを見る。
「朱里……」
涙が止まらなかった。
「私、まだ……ちゃんと、緋桜さんに言えてない。だから、こんなの嫌です」
緋桜さんが、かすかに笑った。
まるで、もう全部を受け入れているみたいだった。
そんな顔を、見たくなかった。
「私が絶対に、緋桜さんを助けます」
堕神が身をよじり、柏の爪の下で笑った。
「巫女が何をしようと遅い。緋桜は死ぬ。次はお前だ、桜の巫女」
泣いているだけでは、何も変わらない。
そのとき、緋桜さんの言葉が蘇る。
「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
「久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある」
神の力。久遠桜の巫女。
わたしに、少しでもその力があるのなら。
今使えなければ、何の意味もない。
わたしは黒い炎の中へ踏み出した。
熱が肌をかすめる。それでも、不思議と怖くなかった。
久遠桜の幹に、両手をつく。
どくん、と木の奥で何かが脈打った。
「お願い」
額を幹に押し当てる。
涙が、頬を伝って落ちた。
「緋桜さんを助けたいの」
久遠桜の花びらが、はらはらと降りはじめる。
白藤の手紙が光を帯び、足元から淡い光が広がっていく。
黒い炎が、その光に押されるように揺らいだ。
堕神が、炎の向こうで目を見開く。
「何を――」
「私を、あの日へ連れてって」
強い光が、視界いっぱいに弾けた。
***
目を開けると、知らない風が吹いていた。
目の前には、先ほどと変わらない久遠桜が立っている。
けれど、提灯も、屋台も、白藤の手紙もない。
月明かりだけが、静かに桜の枝を照らしている。
――ここは。
初音さんが死んだ、あの日だ。
白藤の向こうで、影が揺れる。
「朱里!」
強く腕を引かれ、視界がぐらりと傾いた。
次の瞬間、緋桜さんがわたしを庇うように抱き寄せる。
ドス、と鈍い音がした。
何の音か、すぐには分からなかった。
けれど、緋桜さんの背中から、黒い刃が突き出ている。
「……え」
刃のまわりから、黒い血のようなものがじわりと広がっていく。
緋桜さんの向こうで、誰かが笑った。
「雛乃!?」
でも、違う。
顔は確かに雛乃なのに。口元の歪み方も、こちらを見る気配も、全部が別のものだった。
「堕……神……!」
緋桜さんが叫ぶと、雛乃の顔をしたそれは、にたりと笑った。
「庇ったか。懲りない神だな」
黒い刃が、ゆっくりと引き抜かれる。
緋桜さんの体が、わたしの腕の中で崩れた。
「緋桜さん!」
「人の子の体を借りた甲斐があった」
雛乃の唇で、堕神が笑う。
「この娘の憎しみも、なかなかの糧になったぞ」
黒い染みが、緋桜さんの胸元からじわじわと広がっていく。
雛乃の形をしたそれが、緋桜さんへ手を伸ばした。
「毒が回れば、久遠桜の神とてただの餌だ」
黒く濁った指先が、緋桜さんの胸元に触れようとする。
「喰らってやる。神も、巫女も、人の願いも。すべて我が糧とし、久遠桜さえ跪く神となる」
その瞬間、白い影が黒い炎を裂いた。
低い唸り声とともに、巨大な白豹が堕神へ飛びかかる。
柏だった。
小さな白猫だった姿は、しなやかな四肢を持つ白豹へと変わっている。
尾と耳の先だけが桜色に染まり、額の桜紋が強く光っていた。
「汚れた手で触るんじゃないわよ!」
柏は堕神の肩に牙を立て、そのまま地面へ押し倒した。
白い爪が、雛乃の形をした影を黒い炎の中へ縫いとめる。
「くそっ……眷属風情が!」
堕神の体から、どろりとした黒い気配が噴き上がった。
柏の白い毛先が、じり、と焦げる。
「柏!」
柏は牙を食いしばったまま、堕神を押さえ込んでいた。
堕神の目が、緋桜さんへ向く。
「無駄だ。刃はもう届いた。毒はじきに回る。久遠桜の神とて、あれを受けて長くは持たぬ」
「緋桜さん!」
緋桜さんの体が、わたしの腕の中で重く沈んでいく。
黒い染みが、胸元からじわじわと広がっていた。
「朱里……逃げろ」
緋桜さんの手が、わたしの袖を掴む。
冷たい。
さっきまで確かにわたしの頬に触れていた手が、信じられないくらい冷たい。
「嫌です。逃げません。だって、緋桜さんが……!」
「朱里ちゃん!」
柏の声が飛んだ。
見上げると、白豹の姿をした柏が、堕神を押さえつけたままこちらを見ていた。
「ここはアタシがなんとかする。だから、あんたは行きなさい!」
緋桜さんが、かすかにこちらを見る。
「朱里……」
涙が止まらなかった。
「私、まだ……ちゃんと、緋桜さんに言えてない。だから、こんなの嫌です」
緋桜さんが、かすかに笑った。
まるで、もう全部を受け入れているみたいだった。
そんな顔を、見たくなかった。
「私が絶対に、緋桜さんを助けます」
堕神が身をよじり、柏の爪の下で笑った。
「巫女が何をしようと遅い。緋桜は死ぬ。次はお前だ、桜の巫女」
泣いているだけでは、何も変わらない。
そのとき、緋桜さんの言葉が蘇る。
「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
「久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある」
神の力。久遠桜の巫女。
わたしに、少しでもその力があるのなら。
今使えなければ、何の意味もない。
わたしは黒い炎の中へ踏み出した。
熱が肌をかすめる。それでも、不思議と怖くなかった。
久遠桜の幹に、両手をつく。
どくん、と木の奥で何かが脈打った。
「お願い」
額を幹に押し当てる。
涙が、頬を伝って落ちた。
「緋桜さんを助けたいの」
久遠桜の花びらが、はらはらと降りはじめる。
白藤の手紙が光を帯び、足元から淡い光が広がっていく。
黒い炎が、その光に押されるように揺らいだ。
堕神が、炎の向こうで目を見開く。
「何を――」
「私を、あの日へ連れてって」
強い光が、視界いっぱいに弾けた。
***
目を開けると、知らない風が吹いていた。
目の前には、先ほどと変わらない久遠桜が立っている。
けれど、提灯も、屋台も、白藤の手紙もない。
月明かりだけが、静かに桜の枝を照らしている。
――ここは。
初音さんが死んだ、あの日だ。


