千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 ***

 地上に降りてから、どこを歩いたのかよく覚えていなかった。

 祭りの明かりも、人の声も、屋台の匂いも、全部が遠い。
 緋桜さんに「一人にして欲しい」と言ってから当てもなく歩き続け、気づけば白い藤棚の前に立っていた。

 わたしがこれまで手紙を結んできた藤棚ではない。

 久遠神社の奥に近い、もうひとつの藤棚。

 思えば、最初からこの藤棚だけは白かった。

 奉納祭で町の人たちの手紙が久遠桜へ届いたとき、境内の藤は紫から白へと変わった。
 けれど、この藤棚だけは、その前からずっと白い花を咲かせていた。

 以前、ここに結ばれた手紙のことを尋ねたとき、緋桜さんは町の人たちが結んだものだと言っていた。

 けれど、なぜかずっと引っかかっていた。

 一般の人が簡単に入れる場所ではないはずなのに、どうしてこんなにたくさんの手紙が結ばれているのだろう。

 その疑問を深く考える余裕もないまま、わたしは袖の中から自分の手紙を取り出した。
 渡せなかった手紙を、どこへ持っていけばいいのか分からなかった。

 それなら、ここへ結んで終わりにしよう。

 そう思ったとき、隣の枝に結ばれていた一枚が、風に揺れてほどけかけた。

 「あ……」

 落ちそうになった手紙を、慌てて支える。

 結び直そうとして、手が止まった。
 折りたたまれた紙の端に、見慣れた文字で名前が書かれている。

 ――朱里へ。

 どういう、こと。

 読んではいけないと思った。

 でも、目を離せなかった。

 震える指で、ゆっくりと紙を開く。

 <大学生になった君は、雨の日に傘を忘れて、駅前で途方に暮れていた。俺が迎えに行くと、『子ども扱いしないでください』と怒ったくせに、帰り道で雷が鳴ってからはずっと俺の袖を掴んでいて。強がりで、寂しがりで、どうしようもなく優しい。そんなところは、いつも変わらないね>
 「……なに、これ」

 声が震えた。

 大学生のわたし?

 もちろん今高校生のわたしに、そんな記憶はない。
 なのに、雨の匂いも、濡れた靴の感覚も、駅前の明かりも。なぜか知っている気がした。

 隣の手紙にも、同じ宛名があった。

 朱里へ。

 その隣も。さらに奥の枝に結ばれた一枚も。

 白藤の花房のあいだで、数えきれないほどの手紙が風に揺れていた。

 ここにある手紙は、一枚や二枚ではない。
 千はあるかもしれないと思うほど、幾重にも結ばれているのだ。

 <社会人になった君は、夜遅くまで働いては『大丈夫』と笑っていたね。全然大丈夫じゃない顔で、誰にも迷惑をかけたくないと言って。その夜、温かいお茶を飲み終えた君が、やっと少しだけ泣いてくれたことを覚えている>

 隣に結ばれた、別の一枚をほどく。

 <子どもができたと分かった日の君は、何度も何度も確かめたあと、泣きそうな顔で笑ってた。『早く、この子に会いたい』と言った君の手を、俺はしばらく離せなかった。守りたいものが増えたぶんだけ、今度こそ失えないと思ったから>

 また一枚。

<夏祭りの夜、君はまた桜の髪飾りを選んだ。何度目かは、もう数えていない。屋台の場所が変わっても、店主が変わっても、君は必ずあれを選ぶ。だから俺は、毎回知らないふりをして、毎回はじめて買うみたいに、君の髪に挿すんだ>

 手が、勝手に自分の髪へ伸びた。
 指先に、固い花びらの感触がある。

 緋桜さんが挿してくれた、薄紅の髪飾り。
 あのとき緋桜さんが一瞬だけ止まったのは――。

 涙が、ぽたりと紙に落ちた。

 一枚。また一枚。
 どの手紙にも、わたしの知らないわたしがいた。

 これはきっと、緋桜さんだけが覚えている、いくつもの世界のわたしだ。

 次に開いた手紙には、あの指輪のことが書かれていた。

 <指輪を渡した時は、すごく緊張した。君があまりに何も言わないから、怒ってるのかと思ったくらい(笑)。でも泣きながら笑って『これから先も、隣にいてください』って言ってくれたね。俺はその言葉を信じたかった。信じて、今度こそ君を失わない未来へ行きたかった>

 左手の薬指。未来だと思っていた映像の中で光っていた指輪。
 見覚えはないのに、大切だと分かった理由が、ようやく胸に落ちてくる。

 あれは、知らない未来じゃない。
 緋桜さんが一度、本当にわたしへ渡したものだったんだ。

 そして、わたしはそれを受け取っていた。

 泣きながら笑って、これから先も隣にいてほしいと願っていた。

 「なに、これ……」

 分からないからではない。
 分かってしまったから、苦しかった。

 白藤に結ばれていた手紙は、初音さんに宛てたものじゃない。

 大学生のわたし。社会人のわたし。
 指輪を受け取ったわたし。守りたい小さな命を抱えたわたし。

 何度も生まれて、何度も緋桜さんと出会い。
 何度も恋をして、何度も失われた――わたしへの、手紙。

 奉納祭で藤棚は、巫女の祈りに応えて白く染まった。
 
 それなら、ここに咲いていた白い藤は。
 ここに結ばれていた無数の手紙は。

 緋桜さんが、ひとりで書いて、ひとりで祈ったものなのだ。

 何度失っても、届くように。
 何度やり直しても、忘れないように。

 涙で、手紙の文字が滲んでいく。

 それでも、最後の一文だけは、はっきりと読めた。

 <次こそは、君が笑って生きられる明日へ連れていく>

 代わりなんかじゃなかった。
 緋桜さんは、何度もわたしを見つけてくれていた。

 何度もわたしを好きになって、何度もわたしを失って、それでもまた探してくれて。

 「私……行かなきゃ」

 手紙を胸に抱えて、顔を上げる。

 緋桜さんに会わなきゃ。

 そう思って一歩踏み出そうとした、そのときだった。

 「どこへ行くの?」

 振り向くと、緋桜さんが立っていた。

 何を言えばいいのか分からないまま、わたしは手紙を握りしめる。

 「緋桜さん、わたし……!」
 「まったく」

 緋桜さんは、少しだけ困ったように目を細めた。

 「話は最後まで聞いてほしいんだけど」

 その言い方が、あまりにいつもの緋桜さんで、胸の奥がまた熱くなる。

 「最初は、初音の魂を追いかけてここに来た。それは本当だよ」

 緋桜さんは、白藤に結ばれた手紙へ視線を向けた。

 「でもね。傷ついても、誰かを恨むより先に、自分にできることを探そうとする。強がりなのに、人の痛みにはすぐ気づいてしまう」

 緋桜さんの視線が、まっすぐにわたしへ戻る。

 「俺は、そんな朱里に惹かれたんだ」

 白藤が、夜風に揺れた。

 「守りたいと思った。隣にいたいと思った。君が笑う明日を見たいと思った」

 緋桜さんが一歩、わたしへ近づく。
 その手が、そっとわたしの頬に触れた。

 「初音の面影を探していたんじゃない」

 緋桜さんは、わたしから目を逸らさなかった。

 「出会うたび、俺は朱里に恋をしたんだ」

 涙が、またこぼれた。

 魂が同じだからじゃない。

 何度生まれても、何度違う人生を歩いても。
 緋桜さんはそのたびにわたしを見つけて、わたしを見てくれていた。

 そのことが胸に落ちた瞬間、ずっと言えずにいた言葉が、ようやく形になりかけた。

 「私……緋桜さんのことが」