千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 「ッ——!」

 乱れた呼吸で跳ね起きると、布団を握りしめた手が震えていた。

 千歳朱里(ちとせあかり)は、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。

 古い和室の天井を見上げ、ハーッと息をつく。

 ……またあの夢か。

 見たこともない女の子が、知らない男に刺されて死ぬ。東京から越してきたひと月前から、ほとんど毎晩みている夢だった。

 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。

 「朱里、遅刻すっぞ」

 聞き慣れた声に、朱里は慌てて窓を開けた。

 二階の窓から見下ろすと、門の前に自転車にまたがった男の子がいる。日に焼けた肌に、短く整えた黒髪。

 八雲京介(やくもきょうすけ)は、町の八雲神社(やくもじんじゃ)の跡取り息子で、朱里にとっては、幼いころの記憶に残る数少ない友だちだった。

 「ごめん、今行く!」

 ——わたしがこの町に来たのは、ひと月前のこと。

 父は、わたしが小学生のときに亡くなった。
 町の旧家である千歳本家の長男だった父は、若いころに東京へ出て母と結婚し、この町を離れたそうだ。
 それ以来、本家や分家との関係は薄くなり、おばあちゃんはこの家をひとりで守ってきた。

 ひと月前。そのおばあちゃんが倒れたと、分家から連絡が来たのだ。
 父が亡くなってから、母は生活のことも、わたしのこともひとりで抱えてきた。
 最近は心の調子を崩し、朝起き上がれない日もある。

 けれど、町に残った分家も「うちには関係ない」と、おばあちゃんの面倒を見る気はなかった。

 なら、わたしが行くしかない。

 母は「ごめんね」と繰り返すたび、わたしは「大丈夫」と笑った。 

 高校二年の夏。受験まではまだ少し時間があるし、転校しても取り返せないほどではない。

 おばあちゃんは、いま町の病院にいる。たまに帰省すると、おいしいおはぎを作ってくれた大好きなおばあちゃん。病気は思っていたより重く、近いうちに大きな手術が必要らしい。

 母に、その費用を払う余裕はない。先週、分家の叔母さんに頭を下げに行ったときは、ピシャリとドアを閉められた。

 これから、本当にどうしよう。

 「まだ? 早くしねーとマジで遅刻するぞ」

 玄関の向こうから、また声がする。

 「すぐいくー!」

 制服のスカートを履き、長い黒髪を急いで櫛でとかす。

 引き戸を開けると、京介が自転車の荷台をぽんと叩いた。

 「今日雛乃は?」
 「日直なんだって」
 「乗れよ。歩いてたら間に合わねー」
 「……いいの?」
 「今さらだろ。昔もよく乗せてやってたし」

 昔。その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

 子どものころ、夏休みごとにこの町へ帰省していた。京介はいつも、わたしの手を引いて町じゅうを連れ回してくれた。

 「朱里、こっちだ!」

 だから今も、少し戸惑ってしまう。

 恋と呼ぶには足りない。けれど他人と呼ぶには少し近すぎる、そんな関係に。

 荷台に腰を下ろすと、京介がペダルを踏み込んだ。

 ずらっと並ぶ桜並木の間を、ふわっと桜が舞っていく。

 「もうすぐ夏なのに、まだ咲いてるんだ」
 「そんなに意外か? こっちじゃこれが当たり前だ」

 この町の桜は、夏まで花を散らさないという。町の中央に立つ、千年さえ花を散らさないとされる巨大な御神木——久遠桜。寂れた町の、たったひとつの観光名所だった。

 「桜といえばさ、今日、変な夢を見たんだよね。なんだっけ、この街のみんなが信じてる——」
 「緋桜さま?」
 「それそれ!」
 「おまっ、そんな言い方したらバチあたんぞ」

 京介が周囲を確認しながら焦る。

 ——神様なんていないのに。

 この街の人は久遠桜を信仰している。その神様が“緋桜さま”。

 久遠桜を管理している桜小路家の当主は、敬意を込めて同じ名前を冠しているらしい。
 町に一つきりの病院も、駅前のスーパーも、唯一のホテルも、ぜんぶ「桜小路」の看板を背負っている。

 仕事も、店も、暮らしも、桜小路グループで回っている町。

 神様を信じることと桜小路家を立てることは、この町ではほとんど同じ意味だ。

 そして久遠桜を祀る久遠神社(くおんじんじゃ)を代々世話してきたのが、千歳家。

 つまり、わたしの家系だった。

 「京介くん——!」

 校門の前から、ひとりの女の子が駆け寄ってくる。

 ふわりと巻いた茶色い髪に、誰からも好かれそうな丸い目元。

 千歳雛乃(ちとせひなの)

 千歳家の分家のひとり娘で、わたしの従姉妹だ。

 京介がブレーキを握る。わたしは慌てて、荷台から飛び降りた。

 「もう、待ってたんだよ〜!」

 雛乃がぱっと京介の腕に絡みつく。うしろから、クラスの女子たちもやってきた。

 「雛乃ちゃん、ずっと京介くんの話ばっかりしてさー」
 「朝からごちそうさま」

 雛乃は「えへへ」と笑う。その笑顔だけで、まわりの空気が明るくなる。
 可愛くて、優しくて、ちょっとだけおバカ。雛乃は、町の誰からも愛される女の子だった。

 千歳家には、本家と分家がある。

 本来の本家は、わたしと祖母の家だった。
 けれど父が東京に出て、祖母がひとりで家を守っていた十年のあいだに、分家である雛乃の家が町の中心に出てきた。

 いまでは町の人の多くが、雛乃の家を本家だと思っている。

 京介のそばには、いつも雛乃がいた。正式に付き合っているわけではない。
 ただ、雛乃が京介を好きなのは、誰の目にも明らかだった。

 八雲神社の跡取り息子である京介と、千歳家分家の娘である雛乃。
 家柄だけを見れば、たしかに釣り合いの取れた組み合わせなのだろう。

 だから町の人たちも、学校の子たちも、いつのまにか「京介の隣には雛乃がいるもの」と受け止めていた。

 けれど、京介だけはそれを認めていない。

 それが雛乃を苛立たせているのだと、わたしにも分かっていた。

 「あれ? 朱里ちゃんも一緒に来たんだ?」
 「うん。遅れそうだったから、京介が乗せてくれて」
 「ふぅん」

 雛乃の笑顔が、一瞬だけ薄くなる。けれどすぐに、いつもの可愛らしい顔に戻った。