千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 人波の中には、雛乃の姿もある。
 いつものように控えめな顔をして、周囲に合わせるように手を叩いていた。

 その隣で、京介は拍手もせず、青ざめた顔で足元を見つめている。

 緋桜さんは拍手が収まるのを待ってから、静かに続けた。

 「そのうえで、皆さんにお伝えしておかなければならないことがあります」

 空気が変わった。

 「奉納祭に先立ち、浄化の間に納められていた巫女装束と三社の札が、何者かの手によって損なわれる出来事がありました」

 ざわ、と人々の間に動揺が広がる。

 「本来、彼女が身につけるはずだった装束は墨で汚され、刃物で裂かれていました。日輪、月代、八雲の札も破られ、浄化の儀に使える状態ではありませんでした。神事を妨げるだけでなく、久遠桜に祈りを託してくださった皆さんの思いを踏みにじる行いです」

 境内が、しんと静まり返る。緋桜さんの視線が、人々の中にいる雛乃へ向いた。

 「千歳雛乃さん」

 名前を呼ばれた瞬間、雛乃の肩がわずかに跳ねた。

 「君は奉納祭の三日前、八雲の札を納める者の同行者として、浄化の間に入っていたね」
 「それは……分家の者として、お祈りをしたかっただけで」
 「そのあと、装束と札が損なわれた」
 「だからって、どうして私なんですか。証拠はどこに……」
 「この件について、勇気を出して証言してくれた者がいる」

 隣にいた京介が、拳を強く握った。

 「京介くん」

 緋桜さんに名を呼ばれ、京介は一歩前に出る。

 「俺が、雛乃を浄化の間に入れました」

 境内がざわめく。京介は唇を噛み、深く頭を下げた。

 「俺は八雲の札を納める役目を任されていたのに、家の人に黙って、雛乃を同行者として入れました」
 「え……」

 雛乃の細い声にも、京介は振り返らない。

 「分家の祈りを捧げたいって言われて、俺は途中で部屋を出た。雛乃をひとりにしたんです。戻ったとき、雛乃が巫女装束を汚していて……」
 「嘘よ!」

 雛乃の声が、境内に鋭く響いた。
 さっきまでの控えめな表情が、一瞬で剥がれ落ちる。

 「そんなのでっちあげよ! ねえ、どうしてそんなひどい嘘つくの?」
 「嘘じゃない」

 震えながらも、京介ははっきりと言い切った。
 雛乃は境内のざわめきに縋るように、さらに声を張る。

 「だから証拠はあるのかって聞いてんの! 奉納祭の準備で、ほかにも出入りしてた人はいたはずじゃない!」
 「確かに、浄化の間に防犯カメラはない」

 雛乃の顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。

 「けれど、俺には優秀な防犯係がいるんだ」

 わたしは、はっとした。

 式神だ。

 普通の人には見えなくても、浄化の間が本当に無人だったわけではない。

 「人間の目には映らなくても、ここは久遠神社の神域だ。君が何をしたのか、見ていた者がいる」
 「そんな……」
 「君は、朱里の装束を墨で汚し、刃物で裂いた。日輪、月代、八雲の札も破り、浄化の儀に使えない状態にした」

 境内が、しんと静まり返る。

 「だって……私がずっと欲しかったものを、何も知らない顔で全部取っていって。そんなの、許せるわけないじゃない!!」

 そこで、雛乃ははっと口をつぐむ。

 けれど、もう遅かった。
 町の人たちの空気が、はっきり変わる。

 「千歳雛乃さん。今後の奉納祭に、君がこれ以上関わることは認めない」
 「そんな……!」
 「雛乃」  

 自分の声が、思ったより静かだったことに驚く。  

 「橋のこと、財布のこと、装束のこと……謝ってほしいとは言わない。でも」  

 雛乃の目が揺れた。

 「あなたが何をしても、わたしはここに立ち続ける」

 それだけ言って、わたしは下がった。あとの沙汰は、神様(ひおうさん)の領分だ。

 「今後しばらく久遠神社の神域へ立ち入ることも禁じる。分家への沙汰は、千歳本家と相談のうえで改めて伝えよう」
 「そ、それだけは……」

 雛乃の顔が、さっと青ざめる。

 「俺は警告したよね。朱里を傷つけるようなことがあれば、桜小路家への敵対行為と見なす。誰が相手でも、例外はないと」

 緋桜さんが小さく指先を動かすと、境内の端に控えていた式神たちが、音もなく雛乃のそばへ進み出た。

 「連れて行け」
 「離して! お願い、待って、緋桜様……!」

 涙交じりの言葉は、最後まで続かなかった。
 式神たちは淡々と雛乃の両脇に立ち、抵抗する彼女を境内の外へ促していく。

 誰も大声で責めない。けれど、誰も彼女を庇う者もいない。
 それが、何よりはっきりした答えだった。

 「京介くん」

 緋桜さんが、今度は京介へ向き直る。
 京介は肩を震わせたまま、深く頭を下げた。

 「八雲の札を納める役目を任されながら、浄化の間へ無断で同行者を入れたこと。その場で見たことをすぐに報告しなかったこと。どちらも軽くはない」
 「……はい」
 「けれど、君は今日、自分のしたことも含めて話してくれた。その勇気まで、否定するつもりはないよ」
 「……すみませんでした」

 緋桜さんが、あらためて町の人たちへ向き直る。

 「皆様にも、ご心配とご迷惑をおかけしました」

 深く頭を下げる緋桜さんに、境内が静まり返る。

 「二度とこのようなことが起きないよう、久遠神社としても管理を改めます。そしてこれからは、この桜小路緋桜と、久遠桜の巫女である千歳朱里が、ともにこの町と久遠桜に尽くしてまいります」

 わたしは一歩前へ出て、町の人たちへ向かって頭を下げる。

 「まだ至らないところばかりですが、精いっぱい務めます。どうか、よろしくお願いいたします」

 一瞬の静けさ。それから、境内に大きな拍手が広がった。

 白く染まった藤が、さらさらと揺れる。

 顔を上げると、手を叩いてくれている人たちが見えた。

 分からないことも、まだたくさんある。

 それでも、緋桜さんと一緒なら。
 わたしは、久遠桜の巫女として、少しずつ前に進んでいける気がした。

 拍手が収まったころ、母がゆっくりと近づいてきた。

 「朱里」

 名前を呼ばれて、喉の奥が詰まる。

 「ごめんね。ずっと、あなたにばっかり……」
 「大丈夫だよ、わたしは」

 反射的にそう答えると、母は首を横に振った。

 「もう、朱里が大丈夫って言わなくていいように。お母さん、頑張るから」

 その一言で、祝詞のあいだ張りつめていたものが、音を立ててほどけた。

 巫女装束の袖を、母の手がそっと握る。

 「きれいよ。本当に」
 「お母さん……」

 そのまましばらく、泣きながら互いを抱きしめあった。

 お母さんの前で泣いたのは、ずいぶん久しぶりのことのように思う。
 母の少し後ろでは、おばあちゃんが目元を押さえていた。

 病院の付き添いの人に支えられながら、それでも足取りはしっかりしている。

 「朱里」

 おばあちゃんが、震える声で言った。

 「立派だったよ」
 「……ありがとう、おばあちゃん」

 母が涙を拭い、それから緋桜さんへ向き直った。

 「桜小路さん。朱里を、よろしくお願いします」

 深く頭を下げる母に、緋桜さんは静かに一礼した。

 「ええ。俺にできることならなんでもします。朱里が選んだ道を、まっすぐに歩けるように」

 その言葉に、胸の奥がまた熱くなる。

 守られるだけじゃない。
 任されるだけでもない。

 自分で選んだ道を正しいものにできるように、一緒に考える。
 そんなふうに言ってもらえた気がした。

 しばらくして、母とおばあちゃんは神社の人に付き添われて休憩所のほうへ向かった。

 ふたりの背中が人波の向こうへ消えていくのを見送っていると、緋桜さんが袂から小さな包みを取り出した。

 「朱里、これを持っていてくれる?」

 包みの中には、四枚の札が入っていた。

 東の久遠。西の八雲。南の日輪。北の月代。

 浄化の間で燃やされた札と、よく似た文字が書かれている。

 「浄化に使った札は、もう煙になって装束へ移っている。これは、儀式のあとに俺が書き写した返し札だ」
 「なんですか、それ?」
 「四社から預かった祈りを、無事に久遠桜へ届けた証のようなものだよ。奉納祭が終わったあと、それぞれの社へ納める決まりになっている」

 緋桜さんは、少しだけ目を細める。

 「少しの間、君に持っていてほしいんだ」

 紙なのに、手の中の札は不思議と温かかった。

 さっきまで境内を満たしていた光が、まだこの札の中に残っているようだった。

 「分かりました。預かります」

 わたしは四枚の返し札を、袂の内側へそっとしまった。