千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

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 奉納祭の当日。

 久遠神社の境内には、朝早くから多くの人が集まっていた。
 参道には提灯が並び、藤棚には町の人たちが結んだ白い手紙が幾重にも重なっている。
 その向こうで、久遠桜はいつもと変わらず、淡い花を枝いっぱいに咲かせていた。

 控えの間にいても、外のざわめきが聞こえてくる。

 「き、緊張する……」

 思わずつぶやくと、足元で柏が尻尾をゆらりと揺らした。

 「背筋を伸ばしてごらんなさい! 巫女が猫背でどうするの」
 「は、はい……」

 初音さんの衣は、不思議なほど体になじんでいた。

 袖を通した白衣は古いものとは思えないほどやわらかく、淡い光を含んだように見える。
 深い桜色の緋袴に、久遠桜の枝を思わせる刺繍の入った帯。裾が揺れるたび、細い金糸が控えめに光を返した。

 隣では、七姫が両手をぎゅっと握っている。

 「あかりん、めっちゃきれい。ほんとに……幸せになってね!」
 「あはは……お嫁に行くわけじゃないんだけどね」

 そのとき、扉の向こうから式神の人がそっと顔を出した。

 「朱里、時間だよ」

 廊下の先には、白い装束姿の緋桜さんが待っていた。
 今日は桜小路の当主として、最後に挨拶をするらしい。
 いつもよりさらに遠い存在に見えたのに、わたしを見るなり、その紅い瞳がわずかに見開かれる。

 「……きれいだ」

 胸の奥が、きゅっと鳴る。

 緋桜さんが誰を思ってこの衣を見ているのか、まだ分からない。
 それでも、この胸に生まれた気持ちだけは、わたしだけのものだ。

 久遠桜の前へ進むと、町の人たちの視線が一斉に集まった。

 人波の中には、付き添いの人に支えられたおばあちゃんの姿がある。
 その隣に――母がいた。

 東京からこの街までは距離もあるし、お祭りだから人も多い。
 正直、来られないだろうと思っていた。

 それでも緋桜さんは、最後まで席を用意し続けてくれていた。
 泣くのを我慢するような、母らしい下手な笑い方につられてニコリと笑顔を返す。
 わたしは扇を持ち直し、深く息を吸った。

「久遠に咲く桜の御前に、集いし言の葉を捧げ奉る」

 声が、境内に広がる。

「風に結びし願いをほどき、花の枝へと渡し給え。春を待つ者の祈りも、名を呼ぶ者の声も、散りゆく花に託されし思いも、ことごとく御前へ導き給え」

 藤棚の白い手紙が、さわさわと音を立てる。

「失せし者へ、離れし者へ、届かぬまま残りし言の葉を、どうか安らかに導き給え。久遠に咲く桜のもと、忘れられぬ名を抱く者たちへ、ひとひらの花の便りを授け給え」

 緋桜さんが、小さな白磁の瓶を差し出す。

 奉納祭のために仕込まれた、桜の香を移した御神酒だ。

 両手で受け取り、久遠桜の根元へ膝をつく。白い布の上で瓶を胸の高さに掲げ、一礼した。

 瓶の口を久遠桜へ向け、左手を底へ添える。
 緋桜さんに教わった所作を、ひとつずつ思い出しながら、御神酒を細く注いだ。

 一度目は、久遠桜へ。

 瓶の口を戻し、両手で包み直す。
 二度目は、町を守る四つの社へ。

 最後に瓶を胸元へ戻し、藤棚へ視線を向けた。
 三度目は、ここへ託されたすべての言葉へ。

 最後の一滴まで注ぎ終え、瓶を両手で捧げ持ち、最後に一礼。

 できた。

 そう思った瞬間、張りつめていた肩の力が少しだけ抜ける。

 そのときだった。

 風は吹いていない。
 なのに、何百枚もの白い和紙が、さざ波みたいに揺れ始めた。

 「藤の色が……」

 誰かが呟いた。

 紫の藤の花房が、淡い光を帯びていた。

 ひと房、またひと房。
 濃い紫が、先端からほどけるように白へ変わっていく。
 やがて藤棚全体が光を含み、紫だった花房がいっせいに白く染まった。

 白い藤。白い手紙。薄紅の久遠桜。

 そのすべてが朝の光を受けて、境内いっぱいにきらきらと広がる。

 「すごい……」
 「手紙が、届いたんだ……」

 町の人たちの間から、震える声がこぼれた。

 光は藤棚を渡り、白い花房を伝って、久遠桜の幹へ吸い込まれていく。
 境内は、花と光に包まれ、しばらく誰も動けなかった。

 しばしの沈黙ののち、わっと大きな拍手が広がった。

 手を合わせる人。涙を拭う人。
 名前を呼ぶように、白い藤を見上げる人。

 わたしはその中心で、ようやく息を吐いた。

 「朱里」

 隣に来た緋桜さんが、そっとわたしを見た。

 「今のは……」
 「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
 「私を……?」
 「ああ。久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある。今のは、その片鱗だ」

 神の力。

 そんなものが自分の中にあるなんて、すぐには信じられない。
 けれどさっきの光は、確かにわたしの祝詞に応えるようにも見えた。

 「よくやったね」

 拍手が少しずつ収まっていく。

 緋桜さんは久遠桜の前で町の人たちへ向き直り、深く一礼した。

 「本日は、久遠桜の奉納祭にお集まりいただき、ありがとうございます。皆さんが託してくださった言葉は、たしかに久遠桜へ届きました」

 また小さな拍手が起きた。