***
奉納祭の当日。
久遠神社の境内には、朝早くから多くの人が集まっていた。
参道には提灯が並び、藤棚には町の人たちが結んだ白い手紙が幾重にも重なっている。
その向こうで、久遠桜はいつもと変わらず、淡い花を枝いっぱいに咲かせていた。
控えの間にいても、外のざわめきが聞こえてくる。
「き、緊張する……」
思わずつぶやくと、足元で柏が尻尾をゆらりと揺らした。
「背筋を伸ばしてごらんなさい! 巫女が猫背でどうするの」
「は、はい……」
初音さんの衣は、不思議なほど体になじんでいた。
袖を通した白衣は古いものとは思えないほどやわらかく、淡い光を含んだように見える。
深い桜色の緋袴に、久遠桜の枝を思わせる刺繍の入った帯。裾が揺れるたび、細い金糸が控えめに光を返した。
隣では、七姫が両手をぎゅっと握っている。
「あかりん、めっちゃきれい。ほんとに……幸せになってね!」
「あはは……お嫁に行くわけじゃないんだけどね」
そのとき、扉の向こうから式神の人がそっと顔を出した。
「朱里、時間だよ」
廊下の先には、白い装束姿の緋桜さんが待っていた。
今日は桜小路の当主として、最後に挨拶をするらしい。
いつもよりさらに遠い存在に見えたのに、わたしを見るなり、その紅い瞳がわずかに見開かれる。
「……きれいだ」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
緋桜さんが誰を思ってこの衣を見ているのか、まだ分からない。
それでも、この胸に生まれた気持ちだけは、わたしだけのものだ。
久遠桜の前へ進むと、町の人たちの視線が一斉に集まった。
人波の中には、付き添いの人に支えられたおばあちゃんの姿がある。
その隣に――母がいた。
東京からこの街までは距離もあるし、お祭りだから人も多い。
正直、来られないだろうと思っていた。
それでも緋桜さんは、最後まで席を用意し続けてくれていた。
泣くのを我慢するような、母らしい下手な笑い方につられてニコリと笑顔を返す。
わたしは扇を持ち直し、深く息を吸った。
「久遠に咲く桜の御前に、集いし言の葉を捧げ奉る」
声が、境内に広がる。
「風に結びし願いをほどき、花の枝へと渡し給え。春を待つ者の祈りも、名を呼ぶ者の声も、散りゆく花に託されし思いも、ことごとく御前へ導き給え」
藤棚の白い手紙が、さわさわと音を立てる。
「失せし者へ、離れし者へ、届かぬまま残りし言の葉を、どうか安らかに導き給え。久遠に咲く桜のもと、忘れられぬ名を抱く者たちへ、ひとひらの花の便りを授け給え」
緋桜さんが、小さな白磁の瓶を差し出す。
奉納祭のために仕込まれた、桜の香を移した御神酒だ。
両手で受け取り、久遠桜の根元へ膝をつく。白い布の上で瓶を胸の高さに掲げ、一礼した。
瓶の口を久遠桜へ向け、左手を底へ添える。
緋桜さんに教わった所作を、ひとつずつ思い出しながら、御神酒を細く注いだ。
一度目は、久遠桜へ。
瓶の口を戻し、両手で包み直す。
二度目は、町を守る四つの社へ。
最後に瓶を胸元へ戻し、藤棚へ視線を向けた。
三度目は、ここへ託されたすべての言葉へ。
最後の一滴まで注ぎ終え、瓶を両手で捧げ持ち、最後に一礼。
できた。
そう思った瞬間、張りつめていた肩の力が少しだけ抜ける。
そのときだった。
風は吹いていない。
なのに、何百枚もの白い和紙が、さざ波みたいに揺れ始めた。
「藤の色が……」
誰かが呟いた。
紫の藤の花房が、淡い光を帯びていた。
ひと房、またひと房。
濃い紫が、先端からほどけるように白へ変わっていく。
やがて藤棚全体が光を含み、紫だった花房がいっせいに白く染まった。
白い藤。白い手紙。薄紅の久遠桜。
そのすべてが朝の光を受けて、境内いっぱいにきらきらと広がる。
「すごい……」
「手紙が、届いたんだ……」
町の人たちの間から、震える声がこぼれた。
光は藤棚を渡り、白い花房を伝って、久遠桜の幹へ吸い込まれていく。
境内は、花と光に包まれ、しばらく誰も動けなかった。
しばしの沈黙ののち、わっと大きな拍手が広がった。
手を合わせる人。涙を拭う人。
名前を呼ぶように、白い藤を見上げる人。
わたしはその中心で、ようやく息を吐いた。
「朱里」
隣に来た緋桜さんが、そっとわたしを見た。
「今のは……」
「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
「私を……?」
「ああ。久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある。今のは、その片鱗だ」
神の力。
そんなものが自分の中にあるなんて、すぐには信じられない。
けれどさっきの光は、確かにわたしの祝詞に応えるようにも見えた。
「よくやったね」
拍手が少しずつ収まっていく。
緋桜さんは久遠桜の前で町の人たちへ向き直り、深く一礼した。
「本日は、久遠桜の奉納祭にお集まりいただき、ありがとうございます。皆さんが託してくださった言葉は、たしかに久遠桜へ届きました」
また小さな拍手が起きた。
奉納祭の当日。
久遠神社の境内には、朝早くから多くの人が集まっていた。
参道には提灯が並び、藤棚には町の人たちが結んだ白い手紙が幾重にも重なっている。
その向こうで、久遠桜はいつもと変わらず、淡い花を枝いっぱいに咲かせていた。
控えの間にいても、外のざわめきが聞こえてくる。
「き、緊張する……」
思わずつぶやくと、足元で柏が尻尾をゆらりと揺らした。
「背筋を伸ばしてごらんなさい! 巫女が猫背でどうするの」
「は、はい……」
初音さんの衣は、不思議なほど体になじんでいた。
袖を通した白衣は古いものとは思えないほどやわらかく、淡い光を含んだように見える。
深い桜色の緋袴に、久遠桜の枝を思わせる刺繍の入った帯。裾が揺れるたび、細い金糸が控えめに光を返した。
隣では、七姫が両手をぎゅっと握っている。
「あかりん、めっちゃきれい。ほんとに……幸せになってね!」
「あはは……お嫁に行くわけじゃないんだけどね」
そのとき、扉の向こうから式神の人がそっと顔を出した。
「朱里、時間だよ」
廊下の先には、白い装束姿の緋桜さんが待っていた。
今日は桜小路の当主として、最後に挨拶をするらしい。
いつもよりさらに遠い存在に見えたのに、わたしを見るなり、その紅い瞳がわずかに見開かれる。
「……きれいだ」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
緋桜さんが誰を思ってこの衣を見ているのか、まだ分からない。
それでも、この胸に生まれた気持ちだけは、わたしだけのものだ。
久遠桜の前へ進むと、町の人たちの視線が一斉に集まった。
人波の中には、付き添いの人に支えられたおばあちゃんの姿がある。
その隣に――母がいた。
東京からこの街までは距離もあるし、お祭りだから人も多い。
正直、来られないだろうと思っていた。
それでも緋桜さんは、最後まで席を用意し続けてくれていた。
泣くのを我慢するような、母らしい下手な笑い方につられてニコリと笑顔を返す。
わたしは扇を持ち直し、深く息を吸った。
「久遠に咲く桜の御前に、集いし言の葉を捧げ奉る」
声が、境内に広がる。
「風に結びし願いをほどき、花の枝へと渡し給え。春を待つ者の祈りも、名を呼ぶ者の声も、散りゆく花に託されし思いも、ことごとく御前へ導き給え」
藤棚の白い手紙が、さわさわと音を立てる。
「失せし者へ、離れし者へ、届かぬまま残りし言の葉を、どうか安らかに導き給え。久遠に咲く桜のもと、忘れられぬ名を抱く者たちへ、ひとひらの花の便りを授け給え」
緋桜さんが、小さな白磁の瓶を差し出す。
奉納祭のために仕込まれた、桜の香を移した御神酒だ。
両手で受け取り、久遠桜の根元へ膝をつく。白い布の上で瓶を胸の高さに掲げ、一礼した。
瓶の口を久遠桜へ向け、左手を底へ添える。
緋桜さんに教わった所作を、ひとつずつ思い出しながら、御神酒を細く注いだ。
一度目は、久遠桜へ。
瓶の口を戻し、両手で包み直す。
二度目は、町を守る四つの社へ。
最後に瓶を胸元へ戻し、藤棚へ視線を向けた。
三度目は、ここへ託されたすべての言葉へ。
最後の一滴まで注ぎ終え、瓶を両手で捧げ持ち、最後に一礼。
できた。
そう思った瞬間、張りつめていた肩の力が少しだけ抜ける。
そのときだった。
風は吹いていない。
なのに、何百枚もの白い和紙が、さざ波みたいに揺れ始めた。
「藤の色が……」
誰かが呟いた。
紫の藤の花房が、淡い光を帯びていた。
ひと房、またひと房。
濃い紫が、先端からほどけるように白へ変わっていく。
やがて藤棚全体が光を含み、紫だった花房がいっせいに白く染まった。
白い藤。白い手紙。薄紅の久遠桜。
そのすべてが朝の光を受けて、境内いっぱいにきらきらと広がる。
「すごい……」
「手紙が、届いたんだ……」
町の人たちの間から、震える声がこぼれた。
光は藤棚を渡り、白い花房を伝って、久遠桜の幹へ吸い込まれていく。
境内は、花と光に包まれ、しばらく誰も動けなかった。
しばしの沈黙ののち、わっと大きな拍手が広がった。
手を合わせる人。涙を拭う人。
名前を呼ぶように、白い藤を見上げる人。
わたしはその中心で、ようやく息を吐いた。
「朱里」
隣に来た緋桜さんが、そっとわたしを見た。
「今のは……」
「久遠桜が、君を巫女として認めたんだろう」
「私を……?」
「ああ。久遠桜の巫女は、まれに神の力の一部を預かることがある。今のは、その片鱗だ」
神の力。
そんなものが自分の中にあるなんて、すぐには信じられない。
けれどさっきの光は、確かにわたしの祝詞に応えるようにも見えた。
「よくやったね」
拍手が少しずつ収まっていく。
緋桜さんは久遠桜の前で町の人たちへ向き直り、深く一礼した。
「本日は、久遠桜の奉納祭にお集まりいただき、ありがとうございます。皆さんが託してくださった言葉は、たしかに久遠桜へ届きました」
また小さな拍手が起きた。


