千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 ***

 その夜、緋桜さんはわたしの部屋の前で、めずらしく長く黙っていた。

 「朱里。今年の巫女だが、辞退を検討してくれないか」

 一瞬、言われた意味が分からなかった。

 「衣はあるとはいえ、今回のトラブルで、浄化の儀の時間を短縮せざるを得なくなった。不十分な守りのまま、君を久遠桜の前に立たせたくないんだ。祭りは桜小路の名で何とでもできる。君は、屋敷にいてくれれば……」

 いつも余裕のある緋桜さんが、めずらしく言葉を重ねていた。

 まるで、何かに怯えているみたいに。

 その横顔に、わたしの知らない時間の影がよぎった気がして——けれど、それが何なのかは、訊けなかった。

 守れる。
 その言葉は、いつもならあたたかいはずだった。
 けれど今は、なぜか胸の奥が軋んだ。

 屋敷にいてくれれば。奥座敷にいてくれれば。

 ――それは、千年前の初音さんと、何が違うんだろう。

 「……嫌です」

 自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
 緋桜さんの紅い瞳が、わずかに見開かれる。

 「緋桜さんは、わたしを守ってくれました。学校のことも、おばあちゃんのことも、お母さんのことも。本当に感謝しています」

 息を吸う。ここで俯いたら、きっと一生言えない。

 「でも、守られているだけのわたしは、鳥籠の中にいるのと同じです。夢の中の初音さんは、外の世界を見たがっていました。わたしは外の世界にいるのに、自分の足で立つことを、まだ一度も選んでいません」
 「朱里――」
 「町の人の手紙……あの一枚一枚に、届けたい人がいるんです。それを久遠桜に届けるのは、千歳の巫女の役目です。誰かに代わってもらうんじゃなくて、わたしが、わたしの意思でやりたいんです」

 長い沈黙があった。
 やがて緋桜さんは、ふ、と息を吐いた。
 困ったような、それでいて、どこか眩しいものを見るような顔だった。

 「……何度も、同じ間違いをしてきた気がするよ」
 「え?」
 「守ることばかり考えて、君が選ぶことを、いつも俺が先回りして奪っていた」

 いつも、と緋桜さんは言った。
 まるで、わたしと出会うずっと前から、何度も繰り返してきたみたいに。

 でも、わたしたちは昨日、出会ったばかりのはずだ。

 緋桜さんは、わたしの前に静かに膝を折った。

 「分かった。君は久遠桜の前に立つ。その代わり、約束してほしい。危ないと思ったら、必ず俺を呼ぶと」
 「はい。約束します」

 顔を上げた緋桜さんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。

 ***

 手紙を藤棚へ結ぶ作業も、もうすぐ終わる。
 わたしは緋桜さんと並んで、白い手紙を一枚ずつ結んでいった。

 夜風が吹くたび、紫の花房と白い和紙が重なり合うように揺れる。
 境内は静かで、昼間の騒ぎが嘘みたいだった。

 「今日は、ここまでにしよう」

 最後の一枚を結び終えると、緋桜さんが言った。

 「顔色がよくない」
 「大丈夫です」
 「無理はだめだよ」

 やさしくそう言われると、返す言葉が見つからなかった。

 例の件の犯人は、まだ分かっていないらしい。

 浄化の間には防犯カメラがなく、最後に出入りした人たちを調べているとは聞いた。
 けれど、詳しいことはまだ教えてもらっていない。きっと、わたしを気遣ってのことだろう。

 でも、胸に引っかかっているのは、それだけではなかった。

 「初音の衣のこと?」
 「……」

 あのあと、わたしは初音さんの衣を見せてもらった。
 もちろんやりたいと言ったのは私だ。けれど、衣装を目の前にして、新たな気持ちが芽生えてきたのだ。

 古いはずなのに、白い布は澄んでいて、袖の桜の文様が光の角度で淡く浮かぶ。
 派手ではないのに、ひと目で分かるほど美しい——そして、長い時間をかけて、誰かに大切に守られてきた衣だった。

 汚された装束は、もう使えない。
 奉納祭まで、時間はほとんど残されていない。

 だから、初音さんの衣を使うしかない。

 「私が、着ていいものなのかなって」

 少しだけ、嘘をついた。

 ——初音さんの衣を着るのは、自分が「代わり」だと認めるみたいで。

 それを口にするのが、怖かった。

 「きっと、彼女も喜ぶよ」
 「……そうだと、いいんですけど」

 白い手紙が、風に揺れる。

 藤棚の少し先には、白い藤棚が見えた。そこにも、誰かの手紙が結ばれている。

 初音さんは、緋桜さんが好きだった。
 そして緋桜さんも、初音さんをずっと探していた。

 緋桜さんは、今、誰を見ているのだろう。

 聞く勇気はなかった。

 ふと、目の前の手紙が目に入る。

 ここに結ばれているのは、言えないまま残ってしまった言葉ばかりだ。
 もう届かないかもしれない相手へ、それでも届けたいと思った言葉。

 だったら、わたしも。

 うまく伝えられない気持ちを、紙に書いてみてもいいのかもしれない。