***
その夜、緋桜さんはわたしの部屋の前で、めずらしく長く黙っていた。
「朱里。今年の巫女だが、辞退を検討してくれないか」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
「衣はあるとはいえ、今回のトラブルで、浄化の儀の時間を短縮せざるを得なくなった。不十分な守りのまま、君を久遠桜の前に立たせたくないんだ。祭りは桜小路の名で何とでもできる。君は、屋敷にいてくれれば……」
いつも余裕のある緋桜さんが、めずらしく言葉を重ねていた。
まるで、何かに怯えているみたいに。
その横顔に、わたしの知らない時間の影がよぎった気がして——けれど、それが何なのかは、訊けなかった。
守れる。
その言葉は、いつもならあたたかいはずだった。
けれど今は、なぜか胸の奥が軋んだ。
屋敷にいてくれれば。奥座敷にいてくれれば。
――それは、千年前の初音さんと、何が違うんだろう。
「……嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
緋桜さんの紅い瞳が、わずかに見開かれる。
「緋桜さんは、わたしを守ってくれました。学校のことも、おばあちゃんのことも、お母さんのことも。本当に感謝しています」
息を吸う。ここで俯いたら、きっと一生言えない。
「でも、守られているだけのわたしは、鳥籠の中にいるのと同じです。夢の中の初音さんは、外の世界を見たがっていました。わたしは外の世界にいるのに、自分の足で立つことを、まだ一度も選んでいません」
「朱里――」
「町の人の手紙……あの一枚一枚に、届けたい人がいるんです。それを久遠桜に届けるのは、千歳の巫女の役目です。誰かに代わってもらうんじゃなくて、わたしが、わたしの意思でやりたいんです」
長い沈黙があった。
やがて緋桜さんは、ふ、と息を吐いた。
困ったような、それでいて、どこか眩しいものを見るような顔だった。
「……何度も、同じ間違いをしてきた気がするよ」
「え?」
「守ることばかり考えて、君が選ぶことを、いつも俺が先回りして奪っていた」
いつも、と緋桜さんは言った。
まるで、わたしと出会うずっと前から、何度も繰り返してきたみたいに。
でも、わたしたちは昨日、出会ったばかりのはずだ。
緋桜さんは、わたしの前に静かに膝を折った。
「分かった。君は久遠桜の前に立つ。その代わり、約束してほしい。危ないと思ったら、必ず俺を呼ぶと」
「はい。約束します」
顔を上げた緋桜さんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
***
手紙を藤棚へ結ぶ作業も、もうすぐ終わる。
わたしは緋桜さんと並んで、白い手紙を一枚ずつ結んでいった。
夜風が吹くたび、紫の花房と白い和紙が重なり合うように揺れる。
境内は静かで、昼間の騒ぎが嘘みたいだった。
「今日は、ここまでにしよう」
最後の一枚を結び終えると、緋桜さんが言った。
「顔色がよくない」
「大丈夫です」
「無理はだめだよ」
やさしくそう言われると、返す言葉が見つからなかった。
例の件の犯人は、まだ分かっていないらしい。
浄化の間には防犯カメラがなく、最後に出入りした人たちを調べているとは聞いた。
けれど、詳しいことはまだ教えてもらっていない。きっと、わたしを気遣ってのことだろう。
でも、胸に引っかかっているのは、それだけではなかった。
「初音の衣のこと?」
「……」
あのあと、わたしは初音さんの衣を見せてもらった。
もちろんやりたいと言ったのは私だ。けれど、衣装を目の前にして、新たな気持ちが芽生えてきたのだ。
古いはずなのに、白い布は澄んでいて、袖の桜の文様が光の角度で淡く浮かぶ。
派手ではないのに、ひと目で分かるほど美しい——そして、長い時間をかけて、誰かに大切に守られてきた衣だった。
汚された装束は、もう使えない。
奉納祭まで、時間はほとんど残されていない。
だから、初音さんの衣を使うしかない。
「私が、着ていいものなのかなって」
少しだけ、嘘をついた。
——初音さんの衣を着るのは、自分が「代わり」だと認めるみたいで。
それを口にするのが、怖かった。
「きっと、彼女も喜ぶよ」
「……そうだと、いいんですけど」
白い手紙が、風に揺れる。
藤棚の少し先には、白い藤棚が見えた。そこにも、誰かの手紙が結ばれている。
初音さんは、緋桜さんが好きだった。
そして緋桜さんも、初音さんをずっと探していた。
緋桜さんは、今、誰を見ているのだろう。
聞く勇気はなかった。
ふと、目の前の手紙が目に入る。
ここに結ばれているのは、言えないまま残ってしまった言葉ばかりだ。
もう届かないかもしれない相手へ、それでも届けたいと思った言葉。
だったら、わたしも。
うまく伝えられない気持ちを、紙に書いてみてもいいのかもしれない。
その夜、緋桜さんはわたしの部屋の前で、めずらしく長く黙っていた。
「朱里。今年の巫女だが、辞退を検討してくれないか」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
「衣はあるとはいえ、今回のトラブルで、浄化の儀の時間を短縮せざるを得なくなった。不十分な守りのまま、君を久遠桜の前に立たせたくないんだ。祭りは桜小路の名で何とでもできる。君は、屋敷にいてくれれば……」
いつも余裕のある緋桜さんが、めずらしく言葉を重ねていた。
まるで、何かに怯えているみたいに。
その横顔に、わたしの知らない時間の影がよぎった気がして——けれど、それが何なのかは、訊けなかった。
守れる。
その言葉は、いつもならあたたかいはずだった。
けれど今は、なぜか胸の奥が軋んだ。
屋敷にいてくれれば。奥座敷にいてくれれば。
――それは、千年前の初音さんと、何が違うんだろう。
「……嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
緋桜さんの紅い瞳が、わずかに見開かれる。
「緋桜さんは、わたしを守ってくれました。学校のことも、おばあちゃんのことも、お母さんのことも。本当に感謝しています」
息を吸う。ここで俯いたら、きっと一生言えない。
「でも、守られているだけのわたしは、鳥籠の中にいるのと同じです。夢の中の初音さんは、外の世界を見たがっていました。わたしは外の世界にいるのに、自分の足で立つことを、まだ一度も選んでいません」
「朱里――」
「町の人の手紙……あの一枚一枚に、届けたい人がいるんです。それを久遠桜に届けるのは、千歳の巫女の役目です。誰かに代わってもらうんじゃなくて、わたしが、わたしの意思でやりたいんです」
長い沈黙があった。
やがて緋桜さんは、ふ、と息を吐いた。
困ったような、それでいて、どこか眩しいものを見るような顔だった。
「……何度も、同じ間違いをしてきた気がするよ」
「え?」
「守ることばかり考えて、君が選ぶことを、いつも俺が先回りして奪っていた」
いつも、と緋桜さんは言った。
まるで、わたしと出会うずっと前から、何度も繰り返してきたみたいに。
でも、わたしたちは昨日、出会ったばかりのはずだ。
緋桜さんは、わたしの前に静かに膝を折った。
「分かった。君は久遠桜の前に立つ。その代わり、約束してほしい。危ないと思ったら、必ず俺を呼ぶと」
「はい。約束します」
顔を上げた緋桜さんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
***
手紙を藤棚へ結ぶ作業も、もうすぐ終わる。
わたしは緋桜さんと並んで、白い手紙を一枚ずつ結んでいった。
夜風が吹くたび、紫の花房と白い和紙が重なり合うように揺れる。
境内は静かで、昼間の騒ぎが嘘みたいだった。
「今日は、ここまでにしよう」
最後の一枚を結び終えると、緋桜さんが言った。
「顔色がよくない」
「大丈夫です」
「無理はだめだよ」
やさしくそう言われると、返す言葉が見つからなかった。
例の件の犯人は、まだ分かっていないらしい。
浄化の間には防犯カメラがなく、最後に出入りした人たちを調べているとは聞いた。
けれど、詳しいことはまだ教えてもらっていない。きっと、わたしを気遣ってのことだろう。
でも、胸に引っかかっているのは、それだけではなかった。
「初音の衣のこと?」
「……」
あのあと、わたしは初音さんの衣を見せてもらった。
もちろんやりたいと言ったのは私だ。けれど、衣装を目の前にして、新たな気持ちが芽生えてきたのだ。
古いはずなのに、白い布は澄んでいて、袖の桜の文様が光の角度で淡く浮かぶ。
派手ではないのに、ひと目で分かるほど美しい——そして、長い時間をかけて、誰かに大切に守られてきた衣だった。
汚された装束は、もう使えない。
奉納祭まで、時間はほとんど残されていない。
だから、初音さんの衣を使うしかない。
「私が、着ていいものなのかなって」
少しだけ、嘘をついた。
——初音さんの衣を着るのは、自分が「代わり」だと認めるみたいで。
それを口にするのが、怖かった。
「きっと、彼女も喜ぶよ」
「……そうだと、いいんですけど」
白い手紙が、風に揺れる。
藤棚の少し先には、白い藤棚が見えた。そこにも、誰かの手紙が結ばれている。
初音さんは、緋桜さんが好きだった。
そして緋桜さんも、初音さんをずっと探していた。
緋桜さんは、今、誰を見ているのだろう。
聞く勇気はなかった。
ふと、目の前の手紙が目に入る。
ここに結ばれているのは、言えないまま残ってしまった言葉ばかりだ。
もう届かないかもしれない相手へ、それでも届けたいと思った言葉。
だったら、わたしも。
うまく伝えられない気持ちを、紙に書いてみてもいいのかもしれない。


