その朝、わたしは緋桜さんと一緒に、久遠神社の奥へ向かった。
浄化の間は、本殿から少し離れた場所にあるらしい。
境内の奥へ進み、苔むした石段を下りていくにつれて、あたりの空気が少しずつ冷たくなっていく。
頭上では久遠桜の枝が淡く光っているのに、石段の先だけは、朝の光が届きにくい。
「緋桜さんも、ここにはよく来るんですか?」
「いや。必要がなければ、ほとんど入らないよ。神事の道具を清めるための場所だからね。普段は閉じているし」
石段を下りきった先に、石造りの小さな扉がある。
今日から、巫女装束の浄化が始まる。
日輪神社、月代神社、八雲神社の札は、すでにそれぞれの家の人たちによって納められているらしい。
最後に久遠神社の札を加え、四つの札の煙で装束を清めるのだという。
緋桜さんの手には、久遠神社の札が納められた小さな桐箱があった。
「これから清めの儀式をするんですか?」
「ああ。今日は装束と札を確認して、夕刻から浄化を始める」
浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。
石造りの小さな部屋の中央には、古い祭壇がある。奥の床からは、久遠桜の根が石の隙間を縫うように覗いていた。
祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれている。
その中に、わたしの巫女装束が入っているはずだった。
袖を通すのは奉納祭の朝だけれど、一目だけでも見られるかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が少し弾んでいた。
「失礼します」
神社の人が白い布を外し、箱の蓋を持ち上げる。
最初に見えたのは、黒だった。
「……え?」
真新しい白衣の上に、墨のような染みが大きく広がっている。
息を呑んだ神社の人が、急いで装束を広げた。袖は裂け、緋袴の裾にも刃物で切ったような跡がある。
帯は箱の底で乱れ、白い布地には、ところどころ黒い指の跡まで残っていた。
さっきまで胸の奥にあった小さな期待が、すうっと冷えていく。
「……これは」
緋桜さんの声が低くなった。
祭壇のそばに並んでいた桐箱も、すぐに確かめられる。
日輪神社。月代神社。八雲神社。
三つの札はどれも破られ、汚されていた。
「そんな……」
誰が、こんなことを。
そう言おうとしたのに、声がうまく出てこなかった。
おばあちゃんが、あんなに楽しみにしてくれていたのに。
わたしのためにわざわざ用意してくれた装束。
久遠桜の前に立つための衣。
それが、目の前で汚され、裂かれている。
「どうしよう……」
声が、勝手にこぼれた。
「私、どうしたら……」
「朱里」
緋桜さんの声に、はっとする。
顔を上げると、緋桜さんは静かにこちらを見ていた。
「落ち着いて」
その表情は穏やかだった。
けれど、目だけが笑っていない。
にこりと微笑んでいるのに、室内の空気が一段冷えたような気がした。
「この件の犯人探しは、こちらで進める。君は気にしなくていい。今いちばん優先すべきは、奉納祭だ」
緋桜さんは神社の人たちへ向き直る。
「日輪、月代、八雲には、すぐに新しい札を用意してもらう。こちらから使いを出そう」
「装束は……」
思わず尋ねると、緋桜さんは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙が、少し怖かった。
「千歳本家に、もう一着だけある」
「え……?」
「古いものだけれど、俺がずっと気を通して守ってきた。状態は悪くないはずだ」
緋桜さんが、わたしを見る。
「初音の衣だ」
浄化の間は、本殿から少し離れた場所にあるらしい。
境内の奥へ進み、苔むした石段を下りていくにつれて、あたりの空気が少しずつ冷たくなっていく。
頭上では久遠桜の枝が淡く光っているのに、石段の先だけは、朝の光が届きにくい。
「緋桜さんも、ここにはよく来るんですか?」
「いや。必要がなければ、ほとんど入らないよ。神事の道具を清めるための場所だからね。普段は閉じているし」
石段を下りきった先に、石造りの小さな扉がある。
今日から、巫女装束の浄化が始まる。
日輪神社、月代神社、八雲神社の札は、すでにそれぞれの家の人たちによって納められているらしい。
最後に久遠神社の札を加え、四つの札の煙で装束を清めるのだという。
緋桜さんの手には、久遠神社の札が納められた小さな桐箱があった。
「これから清めの儀式をするんですか?」
「ああ。今日は装束と札を確認して、夕刻から浄化を始める」
浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。
石造りの小さな部屋の中央には、古い祭壇がある。奥の床からは、久遠桜の根が石の隙間を縫うように覗いていた。
祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれている。
その中に、わたしの巫女装束が入っているはずだった。
袖を通すのは奉納祭の朝だけれど、一目だけでも見られるかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が少し弾んでいた。
「失礼します」
神社の人が白い布を外し、箱の蓋を持ち上げる。
最初に見えたのは、黒だった。
「……え?」
真新しい白衣の上に、墨のような染みが大きく広がっている。
息を呑んだ神社の人が、急いで装束を広げた。袖は裂け、緋袴の裾にも刃物で切ったような跡がある。
帯は箱の底で乱れ、白い布地には、ところどころ黒い指の跡まで残っていた。
さっきまで胸の奥にあった小さな期待が、すうっと冷えていく。
「……これは」
緋桜さんの声が低くなった。
祭壇のそばに並んでいた桐箱も、すぐに確かめられる。
日輪神社。月代神社。八雲神社。
三つの札はどれも破られ、汚されていた。
「そんな……」
誰が、こんなことを。
そう言おうとしたのに、声がうまく出てこなかった。
おばあちゃんが、あんなに楽しみにしてくれていたのに。
わたしのためにわざわざ用意してくれた装束。
久遠桜の前に立つための衣。
それが、目の前で汚され、裂かれている。
「どうしよう……」
声が、勝手にこぼれた。
「私、どうしたら……」
「朱里」
緋桜さんの声に、はっとする。
顔を上げると、緋桜さんは静かにこちらを見ていた。
「落ち着いて」
その表情は穏やかだった。
けれど、目だけが笑っていない。
にこりと微笑んでいるのに、室内の空気が一段冷えたような気がした。
「この件の犯人探しは、こちらで進める。君は気にしなくていい。今いちばん優先すべきは、奉納祭だ」
緋桜さんは神社の人たちへ向き直る。
「日輪、月代、八雲には、すぐに新しい札を用意してもらう。こちらから使いを出そう」
「装束は……」
思わず尋ねると、緋桜さんは一瞬だけ沈黙した。
その沈黙が、少し怖かった。
「千歳本家に、もう一着だけある」
「え……?」
「古いものだけれど、俺がずっと気を通して守ってきた。状態は悪くないはずだ」
緋桜さんが、わたしを見る。
「初音の衣だ」


