千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 その朝、わたしは緋桜さんと一緒に、久遠神社の奥へ向かった。

 浄化の間は、本殿から少し離れた場所にあるらしい。

 境内の奥へ進み、苔むした石段を下りていくにつれて、あたりの空気が少しずつ冷たくなっていく。
 頭上では久遠桜の枝が淡く光っているのに、石段の先だけは、朝の光が届きにくい。

 「緋桜さんも、ここにはよく来るんですか?」
 「いや。必要がなければ、ほとんど入らないよ。神事の道具を清めるための場所だからね。普段は閉じているし」

 石段を下りきった先に、石造りの小さな扉がある。

 今日から、巫女装束の浄化が始まる。

 日輪神社、月代神社、八雲神社の札は、すでにそれぞれの家の人たちによって納められているらしい。
 最後に久遠神社の札を加え、四つの札の煙で装束を清めるのだという。

 緋桜さんの手には、久遠神社の札が納められた小さな桐箱があった。

 「これから清めの儀式をするんですか?」
 「ああ。今日は装束と札を確認して、夕刻から浄化を始める」

 浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。

 石造りの小さな部屋の中央には、古い祭壇がある。奥の床からは、久遠桜の根が石の隙間を縫うように覗いていた。

 祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれている。

 その中に、わたしの巫女装束が入っているはずだった。
 袖を通すのは奉納祭の朝だけれど、一目だけでも見られるかもしれない。
 そう思うだけで、胸の奥が少し弾んでいた。

 「失礼します」

 神社の人が白い布を外し、箱の蓋を持ち上げる。
 最初に見えたのは、黒だった。

 「……え?」

 真新しい白衣の上に、墨のような染みが大きく広がっている。

 息を呑んだ神社の人が、急いで装束を広げた。袖は裂け、緋袴の裾にも刃物で切ったような跡がある。
 帯は箱の底で乱れ、白い布地には、ところどころ黒い指の跡まで残っていた。

 さっきまで胸の奥にあった小さな期待が、すうっと冷えていく。

 「……これは」

 緋桜さんの声が低くなった。
 祭壇のそばに並んでいた桐箱も、すぐに確かめられる。

 日輪神社。月代神社。八雲神社。

 三つの札はどれも破られ、汚されていた。

 「そんな……」

 誰が、こんなことを。

 そう言おうとしたのに、声がうまく出てこなかった。

 おばあちゃんが、あんなに楽しみにしてくれていたのに。

 わたしのためにわざわざ用意してくれた装束。
 久遠桜の前に立つための衣。

 それが、目の前で汚され、裂かれている。

 「どうしよう……」

 声が、勝手にこぼれた。

 「私、どうしたら……」
 「朱里」

 緋桜さんの声に、はっとする。

 顔を上げると、緋桜さんは静かにこちらを見ていた。

 「落ち着いて」

 その表情は穏やかだった。

 けれど、目だけが笑っていない。
 にこりと微笑んでいるのに、室内の空気が一段冷えたような気がした。

 「この件の犯人探しは、こちらで進める。君は気にしなくていい。今いちばん優先すべきは、奉納祭だ」

 緋桜さんは神社の人たちへ向き直る。

 「日輪、月代、八雲には、すぐに新しい札を用意してもらう。こちらから使いを出そう」
 「装束は……」

 思わず尋ねると、緋桜さんは一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙が、少し怖かった。

 「千歳本家に、もう一着だけある」
 「え……?」
 「古いものだけれど、俺がずっと気を通して守ってきた。状態は悪くないはずだ」

 緋桜さんが、わたしを見る。

 「初音の衣だ」