***
久遠神社の奥にある浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。
石造りの小さな部屋の中央には古い祭壇が据えられ、その奥では、久遠桜の根が石の隙間からわずかに覗いている。
祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれていた。
朱里が奉納祭で身につける巫女装束と、神事の道具一式が納められている箱だ。
そのそばには、すでに奉納された日輪神社と月代神社の札が、桐箱に入れられて並んでいる。
「……すごい。浄化の間入ったの、初めて」
雛乃は、感心したように呟いた。
京介は手にしていた八雲神社の札を、指定された場所へ置く。
「これでよし、と」
八雲家の者として、京介は札を納めに来ていた。
本来なら、部外者を連れて入る場所ではない。
けれど雛乃に「分家の者として、久遠桜へ祈りを捧げたい」と頼まれると、京介は強く断れなかった。
「雛乃、本当に少しだけだぞ」
「分かってる。お祈りするだけ」
雛乃は、胸元に手を当てた。
ポケットの中には、小さなお守りが入っている。
京介には、分家の祈りを込めたものだと言ってあった。
「じゃあ、少しだけ一人にしてくれる?」
「一人に?」
「うん。分家にも、分家のお祈りのやり方があるから」
少し恥ずかしそうに目を伏せられると、京介はそれ以上強く言えなかった。
「……すぐ戻るからな」
「うん。ありがとう」
扉が閉まった。足音が遠ざかった瞬間、雛乃の顔から笑みが消える。
ちょろすぎ。
祭壇へ近づき、白い布をめくる。
箱の中には、真新しい巫女装束が丁寧に納められていた。
白衣。緋袴。帯。
すべてが朱里のために用意されたものだ。
「……何が、久遠桜の巫女よ」
小さな墨汁の容器と、折りたたんだ刃を取り出す。
白衣へ墨を垂らすと、黒い染みが真新しい布へじわりと広がっていった。
続けて、刃を袖に押し当てる。
びり、と布が裂けた。
緋袴の裾にも、帯にも、墨と刃の跡が残っていく。
次に、雛乃は札の桐箱へ手を伸ばした。
日輪神社。月代神社。八雲神社。
両手で引っ張ると、薄い札は乾いた音を立てて簡単に裂けた。
もう一枚も、同じように汚す。
これでいい。
装束も札も使えなければ、朱里は久遠桜の前に立てない。
「雛乃……?」
背後で、扉がきしんだ。振り返ると、京介が隙間からこちらを見ていた。
顔から血の気が引いている。
「お前、何やってんだよ!」
雛乃は一瞬だけ黙り、墨で汚れた手をゆっくり下ろした。
「何って。お祈りだけど?」
にこりと笑う。
足元には、墨で汚れた巫女装束と、黒く滲んだ日輪と月代の札。
京介は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「こんなの、黙っていられるわけないだろ!」
「じゃあ、言うの?」
雛乃は、少しも慌てなかった。
「ちゃんと全部言ってね。八雲の札を納める大事な役目なのに、京介くんが家の人に黙って私を連れてきましたって」
京介の顔が強張る。
「ひなを浄化の間に入れて、ひとりにしたのも京介くん。正直に話せば話すほど、京介くんの責任になるよ」
浄化の間には管理の人がいる。
けれど、神域だから防犯カメラはない。
奉納祭の前は、道具を運ぶ者、札を納める者、祭りに関係のある神社の人間が出入りする。
京介が雛乃を同行者として入れたことがわかったとしても、
誰が壊したのかはすぐには分からないだろう。
「あ、“京介くんがやった”ことにするっていうのもいいね!」
楽しそうに笑う雛乃に、京介は一歩後ずさった。
その顔を見た瞬間、川の水の冷たさがふいに蘇る。
水の中で、誰かに強く腕を掴まれた感覚。
必死に岸へ押し上げてくれた、誰か。
けれど目を覚ましたとき、雛乃は岸にいた。濡れてもいなかった。
ただ泣きそうな顔で、京介を見下ろしていただけだった。
助けてくれたのは、本当に雛乃だったのか。
ずっと奥に押し込めていた疑問が、目の前の笑顔とつながっていく。
この子は、必要なら平気で嘘をつく。
そう思った瞬間、喉がひゅっと狭くなった。
「今なら、なんとでも言えるよ。誰かがあとから入ったのかもしれない。管理の人がやったのかもしれない。そういうことにすればいい」
廊下の向こうから、人の気配が近づいてくる。
雛乃はすばやく箱の蓋を戻し、白い布をかけ直した。
「行こ、京介くん」
すれ違いざま、雛乃は京介の耳元で囁く。
「これからも仲良くしよーね」
奉納祭まで、あと三日。
京介はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
久遠神社の奥にある浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。
石造りの小さな部屋の中央には古い祭壇が据えられ、その奥では、久遠桜の根が石の隙間からわずかに覗いている。
祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれていた。
朱里が奉納祭で身につける巫女装束と、神事の道具一式が納められている箱だ。
そのそばには、すでに奉納された日輪神社と月代神社の札が、桐箱に入れられて並んでいる。
「……すごい。浄化の間入ったの、初めて」
雛乃は、感心したように呟いた。
京介は手にしていた八雲神社の札を、指定された場所へ置く。
「これでよし、と」
八雲家の者として、京介は札を納めに来ていた。
本来なら、部外者を連れて入る場所ではない。
けれど雛乃に「分家の者として、久遠桜へ祈りを捧げたい」と頼まれると、京介は強く断れなかった。
「雛乃、本当に少しだけだぞ」
「分かってる。お祈りするだけ」
雛乃は、胸元に手を当てた。
ポケットの中には、小さなお守りが入っている。
京介には、分家の祈りを込めたものだと言ってあった。
「じゃあ、少しだけ一人にしてくれる?」
「一人に?」
「うん。分家にも、分家のお祈りのやり方があるから」
少し恥ずかしそうに目を伏せられると、京介はそれ以上強く言えなかった。
「……すぐ戻るからな」
「うん。ありがとう」
扉が閉まった。足音が遠ざかった瞬間、雛乃の顔から笑みが消える。
ちょろすぎ。
祭壇へ近づき、白い布をめくる。
箱の中には、真新しい巫女装束が丁寧に納められていた。
白衣。緋袴。帯。
すべてが朱里のために用意されたものだ。
「……何が、久遠桜の巫女よ」
小さな墨汁の容器と、折りたたんだ刃を取り出す。
白衣へ墨を垂らすと、黒い染みが真新しい布へじわりと広がっていった。
続けて、刃を袖に押し当てる。
びり、と布が裂けた。
緋袴の裾にも、帯にも、墨と刃の跡が残っていく。
次に、雛乃は札の桐箱へ手を伸ばした。
日輪神社。月代神社。八雲神社。
両手で引っ張ると、薄い札は乾いた音を立てて簡単に裂けた。
もう一枚も、同じように汚す。
これでいい。
装束も札も使えなければ、朱里は久遠桜の前に立てない。
「雛乃……?」
背後で、扉がきしんだ。振り返ると、京介が隙間からこちらを見ていた。
顔から血の気が引いている。
「お前、何やってんだよ!」
雛乃は一瞬だけ黙り、墨で汚れた手をゆっくり下ろした。
「何って。お祈りだけど?」
にこりと笑う。
足元には、墨で汚れた巫女装束と、黒く滲んだ日輪と月代の札。
京介は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「こんなの、黙っていられるわけないだろ!」
「じゃあ、言うの?」
雛乃は、少しも慌てなかった。
「ちゃんと全部言ってね。八雲の札を納める大事な役目なのに、京介くんが家の人に黙って私を連れてきましたって」
京介の顔が強張る。
「ひなを浄化の間に入れて、ひとりにしたのも京介くん。正直に話せば話すほど、京介くんの責任になるよ」
浄化の間には管理の人がいる。
けれど、神域だから防犯カメラはない。
奉納祭の前は、道具を運ぶ者、札を納める者、祭りに関係のある神社の人間が出入りする。
京介が雛乃を同行者として入れたことがわかったとしても、
誰が壊したのかはすぐには分からないだろう。
「あ、“京介くんがやった”ことにするっていうのもいいね!」
楽しそうに笑う雛乃に、京介は一歩後ずさった。
その顔を見た瞬間、川の水の冷たさがふいに蘇る。
水の中で、誰かに強く腕を掴まれた感覚。
必死に岸へ押し上げてくれた、誰か。
けれど目を覚ましたとき、雛乃は岸にいた。濡れてもいなかった。
ただ泣きそうな顔で、京介を見下ろしていただけだった。
助けてくれたのは、本当に雛乃だったのか。
ずっと奥に押し込めていた疑問が、目の前の笑顔とつながっていく。
この子は、必要なら平気で嘘をつく。
そう思った瞬間、喉がひゅっと狭くなった。
「今なら、なんとでも言えるよ。誰かがあとから入ったのかもしれない。管理の人がやったのかもしれない。そういうことにすればいい」
廊下の向こうから、人の気配が近づいてくる。
雛乃はすばやく箱の蓋を戻し、白い布をかけ直した。
「行こ、京介くん」
すれ違いざま、雛乃は京介の耳元で囁く。
「これからも仲良くしよーね」
奉納祭まで、あと三日。
京介はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。


