千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 ***

 久遠神社の奥にある浄化の間は、昼間でもひんやりとしていた。

 石造りの小さな部屋の中央には古い祭壇が据えられ、その奥では、久遠桜の根が石の隙間からわずかに覗いている。

 祭壇の上には、白い布をかけられた箱が置かれていた。
 朱里が奉納祭で身につける巫女装束と、神事の道具一式が納められている箱だ。

 そのそばには、すでに奉納された日輪神社と月代神社の札が、桐箱に入れられて並んでいる。

 「……すごい。浄化の間(ここ)入ったの、初めて」

 雛乃は、感心したように呟いた。
 京介は手にしていた八雲神社の札を、指定された場所へ置く。

 「これでよし、と」

 八雲家の者として、京介は札を納めに来ていた。

 本来なら、部外者を連れて入る場所ではない。
 けれど雛乃に「分家の者として、久遠桜へ祈りを捧げたい」と頼まれると、京介は強く断れなかった。

 「雛乃、本当に少しだけだぞ」
 「分かってる。お祈りするだけ」

 雛乃は、胸元に手を当てた。

 ポケットの中には、小さなお守りが入っている。
 京介には、分家の祈りを込めたものだと言ってあった。

 「じゃあ、少しだけ一人にしてくれる?」
 「一人に?」
 「うん。分家にも、分家のお祈りのやり方があるから」

 少し恥ずかしそうに目を伏せられると、京介はそれ以上強く言えなかった。

 「……すぐ戻るからな」
 「うん。ありがとう」

 扉が閉まった。足音が遠ざかった瞬間、雛乃の顔から笑みが消える。

 ちょろすぎ。

 祭壇へ近づき、白い布をめくる。
 箱の中には、真新しい巫女装束が丁寧に納められていた。

 白衣。緋袴。帯。

 すべてが朱里のために用意されたものだ。

 「……何が、久遠桜の巫女よ」

 小さな墨汁の容器と、折りたたんだ刃を取り出す。
 白衣へ墨を垂らすと、黒い染みが真新しい布へじわりと広がっていった。

 続けて、刃を袖に押し当てる。

 びり、と布が裂けた。
 緋袴の裾にも、帯にも、墨と刃の跡が残っていく。

 次に、雛乃は札の桐箱へ手を伸ばした。

 日輪神社。月代神社。八雲神社。

 両手で引っ張ると、薄い札は乾いた音を立てて簡単に裂けた。
 もう一枚も、同じように汚す。

 これでいい。

 装束も札も使えなければ、朱里は久遠桜の前に立てない。

 「雛乃……?」

 背後で、扉がきしんだ。振り返ると、京介が隙間からこちらを見ていた。

 顔から血の気が引いている。

 「お前、何やってんだよ!」

 雛乃は一瞬だけ黙り、墨で汚れた手をゆっくり下ろした。

 「何って。お祈りだけど?」

 にこりと笑う。

 足元には、墨で汚れた巫女装束と、黒く滲んだ日輪と月代の札。
 京介は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 「こんなの、黙っていられるわけないだろ!」
 「じゃあ、言うの?」

 雛乃は、少しも慌てなかった。

 「ちゃんと全部言ってね。八雲の札を納める大事な役目なのに、京介くんが家の人に黙って私を連れてきましたって」

 京介の顔が強張る。

 「ひなを浄化の間に入れて、ひとりにしたのも京介くん。正直に話せば話すほど、京介くんの責任になるよ」

 浄化の間には管理の人がいる。

 けれど、神域だから防犯カメラはない。
 奉納祭の前は、道具を運ぶ者、札を納める者、祭りに関係のある神社の人間が出入りする。

 京介が雛乃を同行者として入れたことがわかったとしても、
 誰が壊したのかはすぐには分からないだろう。

 「あ、“京介くんがやった”ことにするっていうのもいいね!」

 楽しそうに笑う雛乃に、京介は一歩後ずさった。

 その顔を見た瞬間、川の水の冷たさがふいに蘇る。
 水の中で、誰かに強く腕を掴まれた感覚。

 必死に岸へ押し上げてくれた、誰か。

 けれど目を覚ましたとき、雛乃は岸にいた。濡れてもいなかった。
 ただ泣きそうな顔で、京介を見下ろしていただけだった。

 助けてくれたのは、本当に雛乃だったのか。

 ずっと奥に押し込めていた疑問が、目の前の笑顔とつながっていく。

 この子は、必要なら平気で嘘をつく。

 そう思った瞬間、喉がひゅっと狭くなった。

 「今なら、なんとでも言えるよ。誰かがあとから入ったのかもしれない。管理の人がやったのかもしれない。そういうことにすればいい」

 廊下の向こうから、人の気配が近づいてくる。
 雛乃はすばやく箱の蓋を戻し、白い布をかけ直した。

 「行こ、京介くん」

 すれ違いざま、雛乃は京介の耳元で囁く。

 「これからも仲良くしよーね」

 奉納祭まで、あと三日。
 京介はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。