***
会合の場に通されたのは、久遠神社の奥にある広い一室だった。
畳敷きの部屋の中央には低い卓があり、壁際では桜の枝を模した灯りがほのかにともっている。
障子越しに差し込む久遠桜の淡い光が、部屋の空気まで薄紅に染めていた。
低い卓の向こうには、すでに二人の神が待っていた。
ひとりは、大柄な男の人だった。
短く切った黒髪に、広い肩。
濃紺の衣をまとった姿は、神様というより、荒れた川岸の岩がそのまま人の形になったみたいに無骨だった。
もうひとりは、小柄な少年の姿をしていた。
さらさらと長い水色の髪が、肩から背中へ流れている。
眠たげな目は、こちらを見ているようで、どこか遠い夜の奥を見ているようでもあった。
緋桜さんがわたしを隣に座らせると、部屋の空気が自然と引き締まった。
「今日は、よく集まってくれた」
静かな声が、低い卓の上に落ちる。
「先に紹介しておく。彼女は千歳朱里。千歳本家の血を引く巫女で、今年の奉納祭で久遠桜の前に立つことになる」
背筋が、ぴんと伸びた。
「あ、あの……千歳朱里です。よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると、大柄な男の人が短く頷く。
「西の八雲神社を預かる、水継だ」
八雲は、久遠桜へ届く祈りのうち、水や道中安全にまつわるものを受け止める社なのだという。
川の無事や旅の安全、遠くへ行った人が無事に戻ること。そうした願いが、八雲を通して久遠桜へつながっていく。
「八雲の家の者が世話をかけた」
なんのことだか、すぐには分からなかった。
「八雲の家、それも男児でありながら、水辺で乙女ひとり守れぬとは言語道断。おまけに緋桜殿の手まで煩わせるとは、まったく、あの小僧は何をしていたのか」
その言葉で、ようやく彼が言っているのが京介のことだと気づく。
川でのこと。学校でのこと。雛乃とのこと。いろいろなものが、一瞬で胸の奥をよぎった。
「い、いえ……」
「あの小僧の不始末は、八雲の不始末だ」
水継さんは大きな体を折り、わたしに深く頭を下げた。
「小僧に代わり、俺から詫びる。朱里殿」
無骨で、短くて、まっすぐな謝罪だった。
何を言えばいいのか分からないまま、わたしも小さく頭を下げ返す。
「北の月代神社の、宵白だよ」
白い少年が、眠たげな声でそう名乗った。
北の月代神社は、久遠桜へ届く祈りのうち、学びや知恵、進む道にまつわるものを受け止める社だと聞いている。
これから進む道に迷う者たちの願いが、月代を通して久遠桜へつながっていく。
さっきまで低い卓の向こうに座っていたはずの宵白さんが、小さく瞬きをした。
その姿が、ふっと揺れる。
次の瞬間、畳を滑るように近づいてきた宵白さんは、もうわたしの目の前にいた。
「……っ」
息を呑む暇もない。
ひやりとした指先が、わたしの顎に触れる。
軽く持ち上げられ、眠たげな瞳に真正面から覗き込まれた。
「君は……“あの子”の……」
見られている、というより、心の奥まで覗かれているみたいだった。
「勝手な振る舞いはよしてくれ、宵白」
緋桜さんの声が、低く落ちる。
さっきまでの穏やかさとは違う、少しだけ鋭い声だった。
宵白さんは顎から手を離した。けれど、視線だけはわたしから外さない。
「彼女は、初音と同じ魂を持つ者だ」
「なっ……」
水継さんの大きな体が、わずかに強張った。
初音さんのことを、この人たちも知っている。
その事実に、胸の奥がざわついた。
宵白さんは、ふうん、と小さく息をつく。
眠たげな目の奥で何かを確かめるように、わたしを上から下まで眺めた。
「それで今日、ここに?」
「そういうことだ」
緋桜さんは短く答え、水継さんを見る。
「暁乃は」
「持ち堪えている。ただ、しばらくは動けないだろう」
部屋の空気が少し重くなった。緋桜さんが、わたしへ視線を戻す。
「朱里。南の日輪神社のことは、聞いたことがある?」
「南の郵便局のそばにある神社、ですよね。前に七姫と通りました。お祭りの提灯がたくさん出ていたところ……」
「ああ。久遠神社に連なる四社のひとつだ。日輪は、久遠桜へ届く祈りのうち、家内安全や商売繁盛、健康、実りにまつわる願いを受け止める社だよ。そこを預かる神が、暁乃。本来なら、今日ここへ来るはずだった」
緋桜さんの指先が、低い卓の上で静かに止まる。
「暁乃は一昨日、堕神に襲われた」
「……!」
夢の中で見た、あの男の顔が浮かんだ。
顔に痣のある男。
初音さんを刺し、今はわたしの魂を狙っている相手。
「堕神は、この時代の神の力まで喰い始めている。力をつけながら、久遠桜の巫女を狙っているんだと思う。俺がそばにいる間は、そう簡単には近づけないだろうけど……祭りの間も、こちらで厳重に守らせてもらう」
堕神は、もう遠い夢の中の存在ではない。
この町の神様まで襲い、奉納祭のすぐそばまで近づいている。
「そのためにも、奉納祭の朝までに装束の浄化を済ませておく必要がある」
水継さんが腕を組んだまま頷いた。
「久遠桜の巫女は、装束をそのまま身につけるわけにはいかぬ。ただの衣では、久遠桜の前に立つには足りない。四社の祈りを通して、ようやく奉納祭の巫女装束となる」
「四社の祈り……?」
聞き返すと、宵白さんの指先が卓の木目をゆっくりとなぞった。
「東の久遠、西の八雲、南の日輪、北の月代。それぞれの社で清めた札を浄化の間へ納め、祭壇の四隅で燃やす。その煙で小さな結界を張るんだ。結界の内側に置かれたものは、四社の祈りを通して清められる。衣も、扇も、神事に使う道具も、そこで初めて久遠桜の前に出せるものになるんだ」
煙に変えて、衣へ移す。
白い布が、静かな煙に包まれる光景が頭に浮かんだ。
「初音さんも、そうしていたんですか?」
思わず尋ねると、水継さんが短く首を横に振る。
「いや、あの時代には我らはまだ神ではなかったからな。おおよそ三百年ほど後だ」
三百年。
久遠桜の神である緋桜さんが先にいて、そのあと長い年月をかけて、町の四方に祈りが積もった。
水継さん、暁乃さん、宵白さんが神として形を得たのは、そのずっと後のことなのだ。
「だから、この浄化の儀も、千年前にはまだなかった。人々の祈りも、未練も、痛みも、あの頃はすべて久遠桜へ集まっていた。初音も、その多くをひとりで受け止めていた」
夢の中で見た、白い衣の少女。
里の人々の願いを預かり、久遠桜の前に立っていた初音さん。
「巫女装束と道具一式は、もう浄化の間に納めてあるはず。日輪と月代の札は、すでに納められていると聞いた。八雲の札も、あの坊主がそろそろ届けに行くはずだ」
水継さんが苦々しげに眉を寄せた。
その言い方で、今日来るのが京介なのだと分かった。
「最後に、奉納祭の朝、俺が久遠神社の札を加える。四つの札が揃い、浄化が終わって初めて、その装束は久遠桜の巫女のためのものになる」
奉納祭まであと三日。おばあちゃんが呉服屋さんに頼んでくれた巫女装束は、まだわたしの手元にはない。
仕立て上がった装束は、久遠神社へ運ばれ、浄化の間に納められている。
袖を通すのは、奉納祭の朝。清めの儀式を終えたあとだ。
だから、どんな装束なのか、わたしはまだ知らない。
「浄化が終われば、その衣は朱里を守るものにもなる。堕神とて、迂闊には近づけないはずだ」
わたしが身につける装束は、ただの衣ではない。
四つの社の祈りを受け、この町に積み重なってきた思いをまとって、久遠桜の前に立つためのものなのだ。
その重さが、胸の奥に静かに沈んでいく。
水継さんが、改めてこちらを向いた。
「久遠桜の前に立ち、町の祈りを届けられるのは、千歳の巫女だけだ」
水継さんは大きな体を折り、深く頭を下げた。
「八雲の神として、俺からも頼む。奉納祭のこと、よろしく頼む。朱里殿」
神様にそんなふうに頭を下げられるとは思わなくて、わたしは慌てて姿勢を正した。
「私にできることなら、精いっぱいやります」
緋桜さんが、わたしの方へ少しだけ体を向けた。
「朱里に聞いてほしかった話は、ここまでだ。このあとは細かな確認になるから、先に外していて大丈夫だよ」
「はい」
「俺はもう少し残る。終わったら呼びに行くから」
そう言われて立ち上がりかけたところで、ふと思い出す。
「あの……もしよかったら」
三人の視線が、一斉にこちらへ向いた。
急に恥ずかしくなって、指先に力が入る。
会合の場に通されたのは、久遠神社の奥にある広い一室だった。
畳敷きの部屋の中央には低い卓があり、壁際では桜の枝を模した灯りがほのかにともっている。
障子越しに差し込む久遠桜の淡い光が、部屋の空気まで薄紅に染めていた。
低い卓の向こうには、すでに二人の神が待っていた。
ひとりは、大柄な男の人だった。
短く切った黒髪に、広い肩。
濃紺の衣をまとった姿は、神様というより、荒れた川岸の岩がそのまま人の形になったみたいに無骨だった。
もうひとりは、小柄な少年の姿をしていた。
さらさらと長い水色の髪が、肩から背中へ流れている。
眠たげな目は、こちらを見ているようで、どこか遠い夜の奥を見ているようでもあった。
緋桜さんがわたしを隣に座らせると、部屋の空気が自然と引き締まった。
「今日は、よく集まってくれた」
静かな声が、低い卓の上に落ちる。
「先に紹介しておく。彼女は千歳朱里。千歳本家の血を引く巫女で、今年の奉納祭で久遠桜の前に立つことになる」
背筋が、ぴんと伸びた。
「あ、あの……千歳朱里です。よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると、大柄な男の人が短く頷く。
「西の八雲神社を預かる、水継だ」
八雲は、久遠桜へ届く祈りのうち、水や道中安全にまつわるものを受け止める社なのだという。
川の無事や旅の安全、遠くへ行った人が無事に戻ること。そうした願いが、八雲を通して久遠桜へつながっていく。
「八雲の家の者が世話をかけた」
なんのことだか、すぐには分からなかった。
「八雲の家、それも男児でありながら、水辺で乙女ひとり守れぬとは言語道断。おまけに緋桜殿の手まで煩わせるとは、まったく、あの小僧は何をしていたのか」
その言葉で、ようやく彼が言っているのが京介のことだと気づく。
川でのこと。学校でのこと。雛乃とのこと。いろいろなものが、一瞬で胸の奥をよぎった。
「い、いえ……」
「あの小僧の不始末は、八雲の不始末だ」
水継さんは大きな体を折り、わたしに深く頭を下げた。
「小僧に代わり、俺から詫びる。朱里殿」
無骨で、短くて、まっすぐな謝罪だった。
何を言えばいいのか分からないまま、わたしも小さく頭を下げ返す。
「北の月代神社の、宵白だよ」
白い少年が、眠たげな声でそう名乗った。
北の月代神社は、久遠桜へ届く祈りのうち、学びや知恵、進む道にまつわるものを受け止める社だと聞いている。
これから進む道に迷う者たちの願いが、月代を通して久遠桜へつながっていく。
さっきまで低い卓の向こうに座っていたはずの宵白さんが、小さく瞬きをした。
その姿が、ふっと揺れる。
次の瞬間、畳を滑るように近づいてきた宵白さんは、もうわたしの目の前にいた。
「……っ」
息を呑む暇もない。
ひやりとした指先が、わたしの顎に触れる。
軽く持ち上げられ、眠たげな瞳に真正面から覗き込まれた。
「君は……“あの子”の……」
見られている、というより、心の奥まで覗かれているみたいだった。
「勝手な振る舞いはよしてくれ、宵白」
緋桜さんの声が、低く落ちる。
さっきまでの穏やかさとは違う、少しだけ鋭い声だった。
宵白さんは顎から手を離した。けれど、視線だけはわたしから外さない。
「彼女は、初音と同じ魂を持つ者だ」
「なっ……」
水継さんの大きな体が、わずかに強張った。
初音さんのことを、この人たちも知っている。
その事実に、胸の奥がざわついた。
宵白さんは、ふうん、と小さく息をつく。
眠たげな目の奥で何かを確かめるように、わたしを上から下まで眺めた。
「それで今日、ここに?」
「そういうことだ」
緋桜さんは短く答え、水継さんを見る。
「暁乃は」
「持ち堪えている。ただ、しばらくは動けないだろう」
部屋の空気が少し重くなった。緋桜さんが、わたしへ視線を戻す。
「朱里。南の日輪神社のことは、聞いたことがある?」
「南の郵便局のそばにある神社、ですよね。前に七姫と通りました。お祭りの提灯がたくさん出ていたところ……」
「ああ。久遠神社に連なる四社のひとつだ。日輪は、久遠桜へ届く祈りのうち、家内安全や商売繁盛、健康、実りにまつわる願いを受け止める社だよ。そこを預かる神が、暁乃。本来なら、今日ここへ来るはずだった」
緋桜さんの指先が、低い卓の上で静かに止まる。
「暁乃は一昨日、堕神に襲われた」
「……!」
夢の中で見た、あの男の顔が浮かんだ。
顔に痣のある男。
初音さんを刺し、今はわたしの魂を狙っている相手。
「堕神は、この時代の神の力まで喰い始めている。力をつけながら、久遠桜の巫女を狙っているんだと思う。俺がそばにいる間は、そう簡単には近づけないだろうけど……祭りの間も、こちらで厳重に守らせてもらう」
堕神は、もう遠い夢の中の存在ではない。
この町の神様まで襲い、奉納祭のすぐそばまで近づいている。
「そのためにも、奉納祭の朝までに装束の浄化を済ませておく必要がある」
水継さんが腕を組んだまま頷いた。
「久遠桜の巫女は、装束をそのまま身につけるわけにはいかぬ。ただの衣では、久遠桜の前に立つには足りない。四社の祈りを通して、ようやく奉納祭の巫女装束となる」
「四社の祈り……?」
聞き返すと、宵白さんの指先が卓の木目をゆっくりとなぞった。
「東の久遠、西の八雲、南の日輪、北の月代。それぞれの社で清めた札を浄化の間へ納め、祭壇の四隅で燃やす。その煙で小さな結界を張るんだ。結界の内側に置かれたものは、四社の祈りを通して清められる。衣も、扇も、神事に使う道具も、そこで初めて久遠桜の前に出せるものになるんだ」
煙に変えて、衣へ移す。
白い布が、静かな煙に包まれる光景が頭に浮かんだ。
「初音さんも、そうしていたんですか?」
思わず尋ねると、水継さんが短く首を横に振る。
「いや、あの時代には我らはまだ神ではなかったからな。おおよそ三百年ほど後だ」
三百年。
久遠桜の神である緋桜さんが先にいて、そのあと長い年月をかけて、町の四方に祈りが積もった。
水継さん、暁乃さん、宵白さんが神として形を得たのは、そのずっと後のことなのだ。
「だから、この浄化の儀も、千年前にはまだなかった。人々の祈りも、未練も、痛みも、あの頃はすべて久遠桜へ集まっていた。初音も、その多くをひとりで受け止めていた」
夢の中で見た、白い衣の少女。
里の人々の願いを預かり、久遠桜の前に立っていた初音さん。
「巫女装束と道具一式は、もう浄化の間に納めてあるはず。日輪と月代の札は、すでに納められていると聞いた。八雲の札も、あの坊主がそろそろ届けに行くはずだ」
水継さんが苦々しげに眉を寄せた。
その言い方で、今日来るのが京介なのだと分かった。
「最後に、奉納祭の朝、俺が久遠神社の札を加える。四つの札が揃い、浄化が終わって初めて、その装束は久遠桜の巫女のためのものになる」
奉納祭まであと三日。おばあちゃんが呉服屋さんに頼んでくれた巫女装束は、まだわたしの手元にはない。
仕立て上がった装束は、久遠神社へ運ばれ、浄化の間に納められている。
袖を通すのは、奉納祭の朝。清めの儀式を終えたあとだ。
だから、どんな装束なのか、わたしはまだ知らない。
「浄化が終われば、その衣は朱里を守るものにもなる。堕神とて、迂闊には近づけないはずだ」
わたしが身につける装束は、ただの衣ではない。
四つの社の祈りを受け、この町に積み重なってきた思いをまとって、久遠桜の前に立つためのものなのだ。
その重さが、胸の奥に静かに沈んでいく。
水継さんが、改めてこちらを向いた。
「久遠桜の前に立ち、町の祈りを届けられるのは、千歳の巫女だけだ」
水継さんは大きな体を折り、深く頭を下げた。
「八雲の神として、俺からも頼む。奉納祭のこと、よろしく頼む。朱里殿」
神様にそんなふうに頭を下げられるとは思わなくて、わたしは慌てて姿勢を正した。
「私にできることなら、精いっぱいやります」
緋桜さんが、わたしの方へ少しだけ体を向けた。
「朱里に聞いてほしかった話は、ここまでだ。このあとは細かな確認になるから、先に外していて大丈夫だよ」
「はい」
「俺はもう少し残る。終わったら呼びに行くから」
そう言われて立ち上がりかけたところで、ふと思い出す。
「あの……もしよかったら」
三人の視線が、一斉にこちらへ向いた。
急に恥ずかしくなって、指先に力が入る。


