千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 「久遠に咲く桜の御前に、集いし言の葉を捧げ奉る」

 朝の境内に、緋桜さんの声が静かに落ちた。

 薄い朝日が、久遠桜の枝先を淡く照らしている。
 藤棚に結ばれた白い手紙は、光を含んで透けるように揺れ、紫の花房のあいだで小さな蝶の群れのように重なっていた。

 「風に結びし願いをほどき、花の枝へと渡し給え」

 隣で、わたしも同じ言葉を追う。

 「失せし者へ、離れし者へ、届かぬまま残りし思いを、どうか安らかに導き給え」

 ふたりの声が重なった瞬間、風が吹いた。

 白い和紙がいっせいに揺れ、その向こうで久遠桜の花びらが淡く舞う。
 藤の紫、手紙の白、桜の薄紅。朝の光の中で、そのすべてが静かに混ざり合って、境内全体がひとつの祈りになったみたいだった。

 祝詞を終えると、緋桜さんが小さく頷く。

 「このあと、本番では、久遠桜の根元に御神酒を供える。祝詞も今の流れにもう少し言葉が加わるけれど……その調子なら、問題ないと思うよ」
 「本当ですか?」
 「ああ。さすがだね」

 褒められただけなのに、胸の奥が小さく跳ねた。

 久遠桜の前に立つ緋桜さんは、普段よりずっと遠く見える。
 穏やかな表情の奥に、神様としての凛とした気配があって、思わず見惚れてしまいそうになる。

 奉納祭まで、あと三日。

 境内の藤棚には、町の人たちの手紙がずいぶん増えていた。

 亡くなった人へ。
 もう会えなくなった人へ。

 胸の奥に残っていた言葉を、町の人たちは細長い和紙に綴り、白い紐で藤棚へ結んでいく。

 わたしは緋桜さんに教わりながら、手紙を結ぶ手伝いと、奉納祭で上げる祝詞の練習を続けていた。
 祝詞にも細かな作法があって、まだ苦戦するところは多い。
 それでも、今のところは何とか順調だった。

 「そろそろ時間じゃない?」

 藤棚の下から、柏の声がした。

 白猫の姿のまま、尻尾をゆらりと揺らしている。

 「そうだね。今日はここまでにしよう」
 「何かあるんですか?」
 「久遠神社に連なる社から、ふたりほど神が来る予定なんだ。奉納祭の前に確認しておきたいことがあってね。朱里にも関係する話だから、一緒にいてくれると助かる」
 「わかりました」

 緋桜さん以外の神様に会う。
 そう聞くと、少しだけ背筋が伸びる。

 緋桜さんは、わたしの緊張を見透かしたように微笑んだ。

 「今日来るのは、西の八雲と北の月代の神様だよ。気のいい人たちだから、大丈夫」

 その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。

 この町には、久遠桜を中心に四つの社がある。
 
 東の久遠神社。西の八雲神社。

 南の日輪神社。北の月代神社。

 もともと久遠桜を祀っていたのは、東の久遠神社だけだったらしい。

 けれど、久遠桜へ祈りを捧げる人が増えるにつれ、ひとつの社だけでは受け止めきれないほどの思いが集まるようになった。
 そこで、西に八雲神社、南に日輪神社、北に月代神社が建てられたのだという。

 三つの社は、それぞれの土地で人々の祈りを受け止め、東の久遠神社へつなぐための場所だ。

 久遠桜を祀る本社と、祈りを支える三つの社。
 四社はそうして、この町の人々に大切にされてきた。

 奉納祭の朝、わたしが身につける巫女装束も、四社の札を燃やした煙で清めることになるらしい。

 緋桜さんの横顔は、いつもより少しだけ引き締まって見えた。

 ここ最近、緋桜さんは本当に忙しそうだった。
 祝詞の練習を見て、手紙も一緒に結んでくれて、そのうえ奉納祭の段取りや神社とのやり取りまで進めている。

 何も分からないわたしに、ひとつずつ教えてくれる緋桜さんへ、何か返したい。

 ふいに、そう思った。

 大きなことはできない。
 神様のことも、神社のことも、奉納祭のことも、まだ分からないことばかりだ。

 それでも、わたしにできることが何かひとつくらいあるなら。

 「会合までは少し時間がある。それまでは、好きに過ごしていて」
 「じゃあ、七姫とお昼を食べてきます」
 「分かった。気をつけて」

 緋桜さんに直接聞いたら、きっと「気にしなくていい」と言われるに決まっている。

 だから、わたしは七姫に相談することにした。