***
支度を整えて家を出ると、門の前には、自転車にまたがった京介の姿があった。
日に焼けた肌に、短く整えた黒髪。
制服のシャツは少し着崩れていて、肩にかけた鞄が片方だけ下がっている。
八雲京介。
町の八雲神社の跡取りで、幼なじみ。
と言っても、再会したのはこの町に来てからだ。
「遅せーぞ。寝坊か?」
「ちょっとね」
「ふーん。乗れよ、歩いてたら間に合わねー」
京介が、ぽんぽんと自転車の荷台を叩く。
「……いいの?」
「今さらだろ。昔もよく乗せてやってたし」
昔。その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
子どものころ、夏休みにこの町へ帰ってくるたび、京介はわたしの手を引いて町じゅうを連れ回してくれた。
恋と呼ぶには少し足りない。
けれど他人と呼ぶには近すぎる。
そんな距離に、いまも少し戸惑ってしまう。
荷台にまたがると、京介が自転車を漕ぎ出した。
桜並木の坂を、二人乗りで降りていく。
「最近さ、おんなじ夢をよく見るんだよね」
「どんな?」
「んー、あんまり縁起のよさそうなやつじゃないんだけど」
「疲れてんじゃねえの。あんま無理すんなよ」
京介は軽く笑っただけだった。
わたしも、それ以上は言わなかった。
心配してくれたのは分かる。
でも、夢の中の痛みを言葉にするにはあまりにリアルで。
自分でもうまく整理がついていなかった。
坂を下りきるころ、ざぁっと風が吹いた。
町の中央にそびえる巨大な桜が、青い空を覆うように枝を揺らす。
夏が近いというのに、その木だけは、いまも淡い花を咲かせていた。
「相変わらず、すごいね」
思わずつぶやくと、京介がちらりと振り返った。
「久遠桜のこと?」
「もうすぐ夏なのに、まだ咲いてるんだなって」
「こっちじゃ当たり前だけどな。久遠桜が咲いてるあいだは、町じゅうの桜も散らない」
「本当に神さまみたいだね」
「みたい、じゃなくて、いるんだよ。緋桜さまが」
京介は、当たり前みたいに言った。
「久遠桜に宿る神さま。昔から、この町を守ってるんだよ」
「緋桜さま……」
夢の中で聞いた名前と同じ響きに、胸の奥がかすかに揺れた。
久遠桜を管理する桜小路家には、その神と同じ名を名乗る当主がいるらしい。
病院も、駅前のスーパーも、唯一のホテルも、ぜんぶ「桜小路」の看板を背負っている。
神さまを敬うことと桜小路家を立てることは、この町ではほとんど同じ意味だ。
東京にいたころは、神さまなんて初詣のときにお願いをするくらいのものだった。
けれど映画館へ行くにも電車を乗り継がなきゃいけないこの町で。
久遠桜と緋桜さまの話は、誰もが当然のように知っていた。
そして久遠桜を祀る神社を代々世話してきたのが、千歳家。
つまり、わたしの家系だった。
もっとも、 時代が下るにつれ千歳家の役目は薄れ、おばあちゃん曰く「今は祭りの神事を手伝うくらい」らしいけれど。
「京介くん――!」
校門の前につくと、雛乃が駆け寄ってきた。
ふわりと巻いた茶色い髪。丸い目元に、薄桃色のリップ。小柄な体を揺らして走る姿は、まるで小動物みたいだった。
千歳雛乃。
分家のひとり娘で、わたしの従姉妹だ。
雛乃がぱっと京介の腕に絡みつくと、まわりの空気がふわっと明るくなる。
可愛くて、優しくて、ちょっとだけ天然。
雛乃は、町の誰からも愛される存在だ。
「あれ? 朱里ちゃんも、一緒に来たんだ?」
雛乃が、こてんと首をかしげる。
その大きな瞳には京介が真っ先に飛び込んできたようで、わたしに気づくのは少し遅い。
「うん。遅れそうだったから、乗せてもらって」
「そっか。今日ホームルームないんだって。一限体育だし、更衣室まで一緒に行こ!」
その笑顔が、一瞬だけ薄くなる。
けれどすぐに、いつもの可愛らしい顔に戻った。
一応、本来の本家は祖母とわたしの家のはずだけど、父が町を出ていたあいだに、分家の雛乃の家が町の中心に出てきたそうだ。
いまでは町の人の多くが、雛乃の家を本家だと思っている。
だから、この町で「千歳さん」と言えば、それは雛乃のこと。
同じ名字を名乗っていても、わたしはいつも、“じゃないほうの千歳”として見られていた。
支度を整えて家を出ると、門の前には、自転車にまたがった京介の姿があった。
日に焼けた肌に、短く整えた黒髪。
制服のシャツは少し着崩れていて、肩にかけた鞄が片方だけ下がっている。
八雲京介。
町の八雲神社の跡取りで、幼なじみ。
と言っても、再会したのはこの町に来てからだ。
「遅せーぞ。寝坊か?」
「ちょっとね」
「ふーん。乗れよ、歩いてたら間に合わねー」
京介が、ぽんぽんと自転車の荷台を叩く。
「……いいの?」
「今さらだろ。昔もよく乗せてやってたし」
昔。その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
子どものころ、夏休みにこの町へ帰ってくるたび、京介はわたしの手を引いて町じゅうを連れ回してくれた。
恋と呼ぶには少し足りない。
けれど他人と呼ぶには近すぎる。
そんな距離に、いまも少し戸惑ってしまう。
荷台にまたがると、京介が自転車を漕ぎ出した。
桜並木の坂を、二人乗りで降りていく。
「最近さ、おんなじ夢をよく見るんだよね」
「どんな?」
「んー、あんまり縁起のよさそうなやつじゃないんだけど」
「疲れてんじゃねえの。あんま無理すんなよ」
京介は軽く笑っただけだった。
わたしも、それ以上は言わなかった。
心配してくれたのは分かる。
でも、夢の中の痛みを言葉にするにはあまりにリアルで。
自分でもうまく整理がついていなかった。
坂を下りきるころ、ざぁっと風が吹いた。
町の中央にそびえる巨大な桜が、青い空を覆うように枝を揺らす。
夏が近いというのに、その木だけは、いまも淡い花を咲かせていた。
「相変わらず、すごいね」
思わずつぶやくと、京介がちらりと振り返った。
「久遠桜のこと?」
「もうすぐ夏なのに、まだ咲いてるんだなって」
「こっちじゃ当たり前だけどな。久遠桜が咲いてるあいだは、町じゅうの桜も散らない」
「本当に神さまみたいだね」
「みたい、じゃなくて、いるんだよ。緋桜さまが」
京介は、当たり前みたいに言った。
「久遠桜に宿る神さま。昔から、この町を守ってるんだよ」
「緋桜さま……」
夢の中で聞いた名前と同じ響きに、胸の奥がかすかに揺れた。
久遠桜を管理する桜小路家には、その神と同じ名を名乗る当主がいるらしい。
病院も、駅前のスーパーも、唯一のホテルも、ぜんぶ「桜小路」の看板を背負っている。
神さまを敬うことと桜小路家を立てることは、この町ではほとんど同じ意味だ。
東京にいたころは、神さまなんて初詣のときにお願いをするくらいのものだった。
けれど映画館へ行くにも電車を乗り継がなきゃいけないこの町で。
久遠桜と緋桜さまの話は、誰もが当然のように知っていた。
そして久遠桜を祀る神社を代々世話してきたのが、千歳家。
つまり、わたしの家系だった。
もっとも、 時代が下るにつれ千歳家の役目は薄れ、おばあちゃん曰く「今は祭りの神事を手伝うくらい」らしいけれど。
「京介くん――!」
校門の前につくと、雛乃が駆け寄ってきた。
ふわりと巻いた茶色い髪。丸い目元に、薄桃色のリップ。小柄な体を揺らして走る姿は、まるで小動物みたいだった。
千歳雛乃。
分家のひとり娘で、わたしの従姉妹だ。
雛乃がぱっと京介の腕に絡みつくと、まわりの空気がふわっと明るくなる。
可愛くて、優しくて、ちょっとだけ天然。
雛乃は、町の誰からも愛される存在だ。
「あれ? 朱里ちゃんも、一緒に来たんだ?」
雛乃が、こてんと首をかしげる。
その大きな瞳には京介が真っ先に飛び込んできたようで、わたしに気づくのは少し遅い。
「うん。遅れそうだったから、乗せてもらって」
「そっか。今日ホームルームないんだって。一限体育だし、更衣室まで一緒に行こ!」
その笑顔が、一瞬だけ薄くなる。
けれどすぐに、いつもの可愛らしい顔に戻った。
一応、本来の本家は祖母とわたしの家のはずだけど、父が町を出ていたあいだに、分家の雛乃の家が町の中心に出てきたそうだ。
いまでは町の人の多くが、雛乃の家を本家だと思っている。
だから、この町で「千歳さん」と言えば、それは雛乃のこと。
同じ名字を名乗っていても、わたしはいつも、“じゃないほうの千歳”として見られていた。


